2009年01月31日

間奏曲90 馬鹿は死ななきゃ治らない。

 朝、ある書類を役所に出しに行くために、その書類に気を取られた私は書類と財布は持ったのですが、鍵一式とスイカカードを忘れてしまいました。バス停でバスに乗り込む時にスイカがないのに気づき、同時に鍵も無い事に気づきました。しかし時は無く、小銭でバスに乗り、駅のホームに辿り付くとそこの公衆電話(過去の人である私は携帯電話は持っていない)で私は家へ電話を掛け、妻に鍵とスイカの無事を聞き留めました。帰宅の折りに家に入れずに締め出しをくうのだけは何が何でも食い止めたく思い、鍵をポストに入れるように頼みました。そうこうしている内に急行電車がホームに滑り込み私は間近のドアーより乗りこみました。思わずホッとしていたら何だか車内の雰囲気が変でした。優先席でメ−ルを打ったり、パンを食ったり、「おかしな女性が多いなー、何か女性ばかりだなー」と思いつつ眺めていたらハッとして「あっ、この車両は女性専用車両なんだ!」と叫びつつ傍の女性に同意を求めました。そうしたら「フン、馬鹿なおじさん!」とでも言うような眼付きで私を見、せせら笑っているようでした。私はすごすごと渡り通路から一般車両に移りました。この時しみじみ年齢を重ねたが故のこの体たらくを自ら呆れ悲哀と焦燥を覚えました。本当に情けなく悲しかったのです。しかしJRへの連絡通路ではモンローウォークしているジィ−パンの女の子を見つけ「おっイカスね!」と思わず呟き、自然ににっこりしていたのでした。馬鹿は死ななきゃ治らない。それは私です。
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2009年01月29日

間奏曲89 女優の器

 今晩は帰宅が遅く、お散歩はお休みしました。直ぐ夕食となり、妻の作った豚肉と大根の味噌仕立ての鍋物に里芋とこんにゃくの柚子味噌田楽がおかずでした。味噌味噌でしたが、甘味噌の香りが部屋に漂い如何にも夕餉の佇まいとなりました。美味しく頂きました。その折り、丁度サスペンスドラマの「おみやさん」が始まり、暫しテレビを見ながらの食事となりました。ヒロインには国生さゆりが扮し、常に憂いに満ちた顔で演技していました。そして時に怒り、時に苦悩し、また時には号泣し迫真の熱演でした。最後は希望に溢れた笑顔を弾けさせ、その自然な美しさに驚きを感じました。最近は益々演技の幅が広がったようです。国生さゆり、その女優の器は思いの外大きいと感じ入りました。
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間奏曲88 朝青龍と石川遼

 横綱・朝青龍とゴルフの石川遼、今話題の二人のスポーツ選手はまるで正反対の人格を有していると思えます。朝青龍は下品な悪役、石川は品行方正なニューヒーロー、正にこの認識は十中八九の人々が肯定するものでしょう。一体この差は何処から来たのでしょうか? それは恐らく生まれ持った境遇に於ける育ち、親の躾、学校社会や修行の場での人間関係、そこで厳しい躾及び優れた教育が為されたのかどうか?、思いついただけでもこの様な要因が考えられます。特に朝青龍は相撲協会の興行優先の甘えの体質に見事に適応した力士でやりたい放題をしてきた男です。横綱の品格どころか力士の常識さえ持ち合わせていなかったのですから今の境界は当然の報いです。あらゆる面で躾教育が粗末だった事が証明されます。一方石川はまだ子供であり、十年後の彼の態度言動を見なければ真の姿は解りませんが、取り敢えずその行動の姿勢は極めて優秀且つ善良です。親の躾の行き届いた優れた言動をしているのが分ります。誰が見てもその姿は清々しく映り好ましく、石川は一点の曇りなく前途洋々です。
 この二人を比較すれば、教育、躾が如何に大切かが一目瞭然に分かります。本当に朝青龍は可哀そうな男です。”強くて人気がある”、これが朝青龍の最後の砦であり、これを武器にして心を入れ替え社会に適応して行く以外に正しい道はありません。しくじれば彼の人生は極めて危うくなります。今後が注目されます。
 この二人の生き様は極めて象徴的であり、私達の教育の参考になります。どんなに良い子でも問題児でも、最後は社会への適応力に掛かるのです。そしてそれは家庭の躾から始まります。

 お散歩日誌
 残念ながら今日は雲が厚く美しい天体は仰げませんでした。どうも気候の変わり目が近づいたようで、この先は張り詰めた冬型の空の訪れは少なくなるかも知れません。梅も咲いていますしもう直ぐ春なのですね。

 歩数 6132歩 時間47分
 今日は少しテンションを上げて歩きました。息が上がりましたがさほど苦しくなくて安堵しました。
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2009年01月27日

間奏曲87 朝青龍優勝と世相

 横綱朝青龍が崖っぷち優勝を果たし、初場所が終わりました。この十五日間、私は相撲は見なかったのですが、世間の騒ぎは興味深く感じていました。世間は興味本位に朝青龍と言うヒール(悪役)を求めていたのでした。そしてそれは朝青龍出場による観客動員及びTXの視聴率の増加によく表れていたと思います。
 品性下劣な悪役に振り回される相撲界、そしてそれを煽り焚きつけるマスコミ、さらにそれを喜び下品な興味を募らせるファン。この相撲界の騒動を見るに付け、何か日本の世相はおかしな方向へ向かっているのではないかと危ぶまれます。それはマスコミとファンの群集心理と全体主義的動向…にです。だからこそマスコミ及び善良なファンは襟を正し、相撲をより健全な神事、娯楽、スポーツへと導かなくてはならないでしょう…。相撲協会を叱咤激励し、品性下劣を砕き去り、真の横綱に導くように…。

 お散歩日誌
 歩数 6207歩 時間50分 体重85.6キログラム

 夕暮れからのお散歩には月と星は不可欠です。しかし月は満ち欠けがあるので見えない日も多いのです。これからはしばらく見える日が続くのでその模様を日々お伝えいたします。
 昨日は月の満ち欠けの周期で言うと朔(サク)に当たり、これは新月を表します。つまり月の見えない満ち欠けの最初の一日目です。今日は二日目で、か細い弓のような月が見える筈でした。しかし残念ながら雲もあり、また太陽と共に直ぐ沈んでしまうので見逃してしまいました。明日は三日目で三日月であり、是非見たいと思っています。天気が良ければ西空低く見えます。皆様も宜しかったら是非どうぞ! なお17:55分には沈んでしまうので注意してください。
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2009年01月26日

間奏曲86 寒さの底 発想の転換

 大寒を過ぎて一週間近く経ちました。今が寒さの底と思われますが、本当に毎日寒い日が続きます。ここ数日は高い霜柱が立ち、車のウィンドウは強い霜で覆われました。その様を見ただけでもこの寒さの度合いが分かり、辛いと思われる方も多いでしょう。しかし遠い昔、私がまだ幼子の頃は、皆貧乏で家によい暖房器具はなく、あっても炬燵ぐらいでそれは寒かった記憶があります。寝床に付くと数分間はブルブルと震えが止まらず、それでも即眠りに付き、翌朝目覚めた時は己の体温で寝床はぬくぬくと暖かでした。私を始め、近所の子供達は皆洟垂れ小僧か洟垂れ娘ばかりで、それは小汚い風体でした。蓄膿症を始めとした鼻の病気の子も多かったのです。それに比べれば今は天国です。寒さを感じるのはほんの一瞬であり、優れた暖房器具を使えば直ぐに温かい快適を得られるのです。若い人には解らないかも知れませんが、昔を思えば今が寒いなどと泣き言は言えません!。そして発想を転換して屋外に出れば、青い空に白い山、そして夜空の星も仰げるのです。冬もまんざら捨てたものじゃありません。どっこい素晴らしく美しい季節です!。さあ外に飛び出し冷気を浴びに参りましょう!。張り詰めた空気が私達の為に景色を美しい色に変えてくれているのですから…。

 お散歩日誌
 歩数 5900歩
 時間  50分
 体重  85.2kg やや減りつつあるようです。頑張ります。
posted by 三上和伸 at 23:52| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月25日

間奏曲85 空の色

 今日の空は朝から晩まで晴れ渡り、驚きの色を発していました。時々空を眺めては感動し、心行くまで味わいました。
 昼の中天は深い青、角度を下げるに従ってやや濃さは薄れますが、水平線、地平線に至るまで青く澄んでいました。富士はその白銀の刃で青空を切り裂き、くっきりと眼前にありました。
 夕焼けはまた凄まじく、その赤は漆黒の山縁を映し出し、益々透明を増し、澄んだ赤銅の鏡のようでした。やがて中天は暫し青と紫が溶け合い群青の色となり、少しずつ黒が増して完全に闇が降りました。西に金星が黄金色に光り、東にシリウスが青白く瞬きました。

 お散歩日誌
 
 1月21日
 歩数 6812歩
 時間  65分
 
 1月24日
 歩数 6387歩
 時間 55分

 1月25日
 歩数 9678歩
 時間 50分
 この日はほぼ一日中、万歩計を付けていました。一日中付けていれば何時もこのような歩数になると思われます。
posted by 三上和伸 at 23:19| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

間奏曲84 日曜の朝の逢瀬 三度

 近頃日曜日が近づくにつれ私はそわそわとし、落着きを失うようになりました。あの微笑みに会える、あの麗しの声を聴ける、それだけで私は心喜ばしく晴れやかになり、幸せを感じるのです。恋?とはそのようなものでしょう?。それは私には今日と明日を生きる、淡くささやかな希望です。
 その微笑み、その麗しの声の持ち主・唐橋ユミさんは三十四歳の知的な女性ですが、何処か少女の面影を残す愛らしい娘さんとも言えます。この日は彼女の郷土福島の駅伝ランナー東洋大の柏原選手(今年の箱根駅伝の新山の神)の話題を伝えていました。何と柏原選手は都道府県対抗男子駅伝で11人抜きを達成したそうです。同じ福島と言う縁で彼女はこの話題を郷土の福島弁でアナウンスさせられていました。こそばゆいイントネイションが愛らしく、照れて上がって所々で噛んでいました。そして「すみません」と謝り、どこか恥ずかしそうでした。しかしその涼やかに恥入る顔はなおも美しく幼気に見え、年配(中年)のおじさん(私)をとろけさす魔力がありました。本当に素敵でした、私はイチコロでした。
 来週も心待ちにしています。宜しく!

 
posted by 三上和伸 at 22:25| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月24日

ピアノの話6 アクションの修理

 ピアノアクション(打弦機)の修理
 あるお客様からご依頼を受けて、アップライトピアノの修理と調律をする事になりました。お宅へ伺いその場で査定をし、アクションの部品交換が必要と判断し、先方より御了解が得られたので、まずはアクションを我が作業場に搬送し、修理に取り掛かりました。
 
 1、ウィペン(奥)とハンマーバット(手前)
アクション分解全ての写真はクリックすると拡大されます。
 まずはアクションを分解し、ウィペンとハンマーバットを取り出し、修理がし易いように並べました。手前一列がハンマーバット88個と奥一列がウィペン88個です。また最前列にあるのはこの修理に使う工具と接着剤、そして部品交換のための新品のクッションフェルト(赤)とビニール袋に入ったブライドルテープ(白)、紙袋に入ったセンターピンです。ハンマーバット及びウィペンは順次一つずつ更に細かく分解し、修理して行きます。
 写真左より、万力、ボンド(接着剤)、クッションフェルト(赤)、ブライドルテープ、ワイヤーカッター(センターピン用)、掃除ブラシ、ピン抜きポンチ、抉りリーマー(穴を広げる工具)、竹籤(接着剤添付用)、抉りリーマー(やすりタイプ)、センターピン(紙袋入り)、黒鉛棒(滑りの部分に塗り込んで用いるもの)、ペンチ。

 2、ウィペン(左の上下)とハンマーバット(右の左右)
更なる分解
 動きの悪くなったアクションは弾き難く、その主な原因は、動きを司るセンターピンの錆などによる劣化です。従ってセンターピンの交換が必要となります。更に劣化した様々な消耗部品の交換もしました。
 ウィペン上はまだ何もされていない元のもの、ウィペン下はジャック(長い方)とフレンジ(長方形のもの)のセンターピン(中央で回転するピンで梃子の支点となるもの)が抜かれ、離脱したもの。傍にあるピンは新品のセンターピン。この新たなピンで再度元通りに取り付けて行きます。
 ハンマーバット左は元のもの、右は外されたフレンジとそこに付ける新品のスプリングコード(白い糸)、取り外されたクッションフェルト(赤左)と新品のクッションフェルト(赤右)、古いブライドルテープ(左)と新品のブライドルテープ(右)。これらの部品全てを新品の部品に取り換えます。

 3、修理し終わった部品(鍵盤、ウィペン、ハンマーバット)を仮装に模式した構図
打弦の模式
 修理し終えた部品をアクション上に組み上げたならば、正確ではありませんが、ほぼこのような構図になります。鍵盤(左白鍵部)を押し下げると、その中央のバランス(梃子の支点となる)を支点として梃子の原理で右のダウル(突起)が押し上げられ、それに従いウィペンも押し上げられます。ウィペンの先のジャックも同様に押し上げられハンマーバットを押し上げます。するとハンマーヘッドは右に動きその先の弦を打ち鳴らします。これがアップライトピアノの打弦の動性(原理)です。

 4、修理を終え、ハンマーバットを組み始めたところ
アクション組み込み
 裸のアクションレールにハンマーバットとウィペンを組み込みます。一つ一つネジで締め付け取り付けていきます。

 5、アクション修理完了
完成
 数日間、長時間掛けて励んだ修理作業もこれで終了です。後はお客様の元にあるピアノ本体に取り付け、整調、調律、整音をして一件落着です。弾き易い手応え指応えで、正しい音律と綺麗な響に生まれ変わりました。
posted by 三上和伸 at 23:40| ピアノの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月22日

間奏曲83 炊事当番 おでん

 冬になると食べたくなる料理…、その一番は”おでん”でしょう。寒い晩、我が家に帰ればプーンと漂うおでんの香り、ふっと幸福を感じる時ですよね。そんな素敵なおでん…、今日の炊事当番では私がおでんを作る事になりました。何時もの我が家のおでんには少し飽きがきていたので、私好みで具を用意しました。はんぺんに竹輪、これは欠かせませんね。大根にジャガイモ、これも欠かせません、大振りに切り分けて思いきり頬張れるようにします。厚揚げにこんにゃく、ウィンナソーセイジも大好きなので絶対入れます。味にコクがでます。そして何よりも私が思いを寄せる大切な具は、油揚げの巾着包みです。まず揚げを湯通しし、半分に切ります。切り口を広げ一口大の餅と細切りのネギを入れます。そうしたら楊枝で切り口を塞ぎ巾着のように絞り込みます。出来上がれば全ての具を鍋に並べて、汁を張ります。たっぷりの汁で煮立てずにじっくりと煮込むのです。静かに静かに煮込み、やがてたっぷりと汁が具に浸みこんだら出来上がりです。つーんとくる清冽な和辛子で熱々を頬張りましょう。私は猫舌なので、必ずふーふーしてから口に放り込みます。噛むとじわっと汁が浸み出して火傷しそうでハフハフしながらやがて飲み込みます。辛子の効きに涙目になりながらも、箸は休みません。次々と口に運び入れ、正に至福の一時を過ごすのですね。そして忘れちゃいけない、何より素晴らしかったのが、油揚げの巾着包みです。揚げとネギの香りが溶け合って相乗され、餅に優しく絡みます。モチモチモチモチと熱さと共に口の中でとろけ、余りの美味しさに頬っぺが落っこちてしまいます、オットットッ。皆満足仕切りでしたが、長女はその黒々とした汁を指差し「真っ黒だね!」…、私はガックリとうなだれて「醤油を入れ過ぎたの…」と小声で呟きました。でも決して塩辛くはないのですよ! レシピは見ずに我流の舌加減で作るのでこう言う失敗は多いのです。本当に美味しいですよ!
posted by 三上和伸 at 23:29| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

間奏曲82 新大統領の誕生

 長い戦争の二十世紀から新しい平和の二十一世紀へ…。新大統領就任のこの日を、世界が新たな平和への歩みを始めた日と位置付けたいと思います。ネオコン主導のブッシュさんから、国民参加のオバマさんヘ、真のリベラル(自由主義)な世界を築いてくれる事を願わずにはいられません。本当にアメリカは幸せな国です。一つの政権が綻びを見せても180度転換された新たな新政権が現れる。しかも自分の命を投げ打ってでも国民のために働こうとする英雄が現れる!、何て素晴らしい事でしょう。このアメリカの熱狂を見て、私は心から感動し羨ましいと思わずにはいられませんでした。
posted by 三上和伸 at 08:55| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月21日

間奏曲81 体調不良

 昨日はピアノ修理の準備のため、午前中は家に居ました。そして午後、掛かり付けのクリニックを訪ね、月に一度の診察を受けました。私も寄る年波には勝てず、日頃の不摂生もあり、大分前から成人病を携帯して生きる羽目になったのでした。
 気の弱い私は診察を受けると何故か体調を崩し不整脈を発する事があるのですが、この日もそんな日で、やや不整脈ぽい症状が出てしまいました。結局は散歩も止めて静かに過ごし早寝をしました。朝起きたら正常に戻っており、これからピアノを直します。その模様はブログに掲載致します。お楽しみに!

 お散歩日誌
 散歩は取り止めたので、体重だけ掲載致します。
 
 体重 85.2kg 
少し減りました。
posted by 三上和伸 at 07:58| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月19日

間奏曲80 日曜の朝の逢瀬 再び

 ブログ”ブラームスのピアノ”に時間を取られ、日曜の朝の大切な逢瀬の模様をお知らせ出来なくて心残りでした。またこの日は家族の運転手となり、家を出たり入ったりで、落ち着いてこの逢瀬を楽しむ余裕はありませんでした。しかしところどころで私はしっかりとあの方と視線を合わせていたのです。今少しお話しいたします。
 テレビの中のあの美しい女性は相変わらずの穏やかな微笑みを浮かべ、滑らかな水の流れのように清々しいアナウンスをしていました。その麗しの声は花の香りを放ち私を酔わせてくれました。真に幸せな一時でした。ところがこの私の架空の恋?にクレームが掛かりました。誰とは申しませんが、私のこのブログを見ての疑問なのでした。でも安心してください? 否、心配してください? 私は正直な人間です。心にある素晴らしい事、目に映る美しいものは隠す事はできません。語らずにはいられないのです。これからもこの件は正直にお話しし、続けて行くつもりです。どうぞこれからも心配しながら?楽しんで?ください。

 お散歩日誌 1月18日(日) 薄曇り、深夜雨
 薄い雲が覆い、星はいくらも見えませんでした。僅かに金星が滲んで見え、光の輪が掛かっているようでした。それはまたそれで、美しいものだと感じ入りました。
 歩数 6901歩
 時間  65分
 体重 85.6kg 
 前回、体重計の悪口を言いましたが、それは私の早とちりでした。私の体重は重いので、カーペットの上などの柔らかい床だとめり込んで不安定となり、表示が安定しない事が分かりました。今日は風呂場のタイルの上で測りました。ピタリと測れました。メーカーさんごめんなさい。

 お散歩日誌 1月19日(月) 晴れ
 雲はありながらもよく晴れました。気温湿度とも高く春の陽気でした。
 歩数 10473歩
 時間  97分
 体重  86.2kg
 今日の目的は散歩だけで一万歩を超える事でした。歩幅をやや減らし、少しテンションを下げて、心落ち着けて歩きました。心肺機能に余裕が出て何処までも歩ける気がしました。少しづつ、この歩行訓練は確かなものになりつつあるようです。ところが体重は増えてしまいました。少し体を動かすようになるとお腹が減ります。食べ過ぎたようです。明日から引き締めます。
posted by 三上和伸 at 22:02| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月18日

音楽の話4 日本ブラームス協会編 ブラームスの「実像」より ブラームスのピアノを読んで

 1、ブラームスの生きた時代とピアノの進化
 ブラームスは1833年にドイツのハンブルクに生まれ、1897年オーストリアのウィーンで没しました。この64年間の欧州音楽界はロマン派の全盛期から近代へと移行し始めた時期に区分されます。このブラームスの生きた時代は産業革命の更なる隆盛の時と重なり、富裕層の増大により、ピアノの需要が爆発的に伸びた時期でもありました。多くのピアノメーカーが創業し、競い合い、優れたピアノが次々と産み出されていったのです。ささやかなフォルテピアノの時代から現代のピアノに遜色のない近代ピアノまでのピアノ革新の時代…。この時代を生きた最高の証人、希代の大音楽家ブラームスがそれと如何に関わり、それらのピアノをどの様に使ったか、この論文がそれを教えてくれました。 

 2、ブラームスの所有したピアノ(愛器)
 ブラームスが自宅で長期間所有したピアノは、2台がよく知られています。何れも小型のグランドピアノでウィーンで作られた旧式のものです。一台目は1856年にクララ・シューマンより譲られたピアノで1839年製造の“グラーフ”でした。音域は6オクターブ半。下1点「は」から4点トまで。シングル・エスケープメント方式のアクション(打弦機構)を持つ、総木造り、皮張りハンマーのものでした。このグラーフピアノは1862年までブラームスが下宿先で使い、その後はブラームス所有のまま点々と置き場所が変わり、1873年シューマン夫妻とブラームスが使ったピアノとしてモーツァルトやベートーヴェンのピアノと並んでウィーン万国博覧会に出展されました。さらにその後はウィーン楽友協会の所有となり、今日ではウィーン美術史美術館に貸し出されているそうです。調律ピン・ピン板周りの故障らしく、現在は調律不能、使用不能だそうです。
 二台目は1872年ブラームスが新しいアパートに引っ越した際、ウィーンのピアノメーカー・シュトライヒャーから借り受けたグランドピアノです。この”シュトライヒャー”もやはり弦の平行張り及びウィーン型のシングル・エスケープメントアクションを持つ小型のグランドピアノでした。ブラームスはこのメーカーのピアノを高く評価し愛好しており、クララを始め様々な友人知人に勧めています。そしてこのピアノはブラームスの生涯最後のピアノとなり、この主の死をも見守ったピアノです。ところがこのブラームスのシュトライヒャーは、ブラームスの死後、数奇な運命を辿る事になります。ここでは本文を掲載しその顛末をお教え致します。『ブラームスの死後、友人たちは彼のアパートがそのまま記念館として保存される事を望んだが、1906年建物は取り壊されてしまった。ブラームスの部屋にあった家具調度品のほとんどは家主が持ち続け、後にウィーン楽友協会が譲り受け保管する事になった。結局それらはウィーン市の歴史博物館に送られたが、第2次世界大戦のおり、ほとんどの家具が破壊されブラームスのシュトライヒャーも激しい損傷を受けた。現在残ってるのは、一本の脚と譜面台、それが全てである。』 真に残念であり、戦争の愚かさをこんなところでも知る事となるのです。そして戦争はブラームスの最も忌み嫌うものだったのです。

 *グラーフピアノ演奏の録音
 ウィーンのピアニスト、イェルク・デームスがグラーフピアノを使い演奏した録音が残されているそうです。それはデームス自身が所有している1839年製のグラーフを使用した録音で、極めてコンディションのよいピアノだそうです。曲目は「ベ−トーヴェン ディアベリ変奏曲」(Archiv 2708 025)、エリー・アメリンクとの「シューマン歌曲集 国内盤ハルモニア・ムンディBVCD5OII」、「シューマンの幻想小曲集作品12より抜粋」(HMS17 064,29 29069/7,また30 485K)です。

 3、ブラームスのピアノ感、使用したピアノのあれこれ
 ブラームスが所有したピアノは以上の二台の外はこの論文に登場しませんが、彼が演奏会やピアノ工房での試演で弾いたピアノは数限りなくあり、その感想や要望は多くこの本文に書き込まれています。その一部を選んでここに書き出してみます。

 *『ブラームスの書簡集、あるいは記録などを見ると、この作曲家は長いキャリアのなかで、実に様々なピアノを弾いていた事がわかる。彼はその時点時点でのピアノ製造の最新の進歩過程を、自ら世間にデモンストレーションしていたのであった。』(本文より)

 *少年期のブラームスは、貧しい家庭の事情があり、家にピアノがなく師の家やピアノ工房を訪ねてはピアノの稽古に励んでいたらしいのです。その師がオットー・フリードリッヒ・ヴィリバルト・コッセル(コッセルはブラームスの天才を見出した最初の師で、ブラームスを教えるためわざわざブラームス家の近所に引っ越して来て、ピアノをブラームスに使わせたと言われています。)であり、そのピアノメーカーがハンブルクのバウムガルテン・ウント・ハインスで、後にブラームスは自身の第一ピアノ協奏曲のハンブルク初演(1859年3月24日)で、このメーカーのコンサートグランドを使いました。

 *ピアノアクションにはシングル・エスケープメントとダブル・エスケープメントの方式があり、フランスのエラールが特許(1808年、1821年再特許)をとったダブル・エスケープメント方式が次第に優勢となりつつありました。ブラームスも1850年代よりエラールに親しんでおり、高い評価を下しています。上記のピアノコンツェルトも初めはエラールが使えないので初演を一年延期したくらいでした。(結局は使えず、バウムガルテン・ウント・ハインスを使いました。)この頃クララ・シューマンもイギリス公演の折り、エラールを寄贈され所有しており(1856年)、クララの家でもブラームスはエラールを弾いています。またイギリスのブロ−ドウッドも1867年にクララにピアノを寄贈し、ブラームスはクララの家でクララとこのピアノで連弾を楽しんだと伝えられています。(ピアニスト、フローレンス・メイ回想録より)
 当代随一の女流ピアニストには多くのメーカーが接近し、自社の広告塔になるように望んだようです。 

 *エスケープメント方式
 鍵盤を押し下げるとその奥(先)は梃子(てこ)の原理で押し上げられ、その動力がアクションを押し上げ、同時にハンマーを突き上げ(ジャックと言う梃子で)て打弦します。しかし弦に当たる瞬時手前でハンマーがアクション(ジャック)から自由に解き放たれなければハンマーは弦を押しつけて振動を止めてしまい音は鳴りません。そのハンマーの弦への押し付けから逃がす仕組み(ジャックをハンマーから外す仕組み)をエスケープメント方式と呼ぶのです。そして解き放たれたハンマーはその運動の惰力(惰性)で弦を打ちます。シングル・エスケープメントは逃がすだけであり、従って同音連打は鍵盤を一度元に戻さなければ次の音は鳴らせません。ダブル・エスケープメントはハンマーを逃がし打弦した後、”レペテイションレバ−(反復梃子)”で少しハンマー(ハンマーの根元にある鹿革のローラー)を持ち上げ、ジャック(直接ハンマーを突き上げる梃子)とローラーの接触を解除し、ジャックを瞬時に打弦可能な元の位置に戻す仕組みです。鍵盤を元の位置まで戻さなくても再び打弦できる機構であり、素早い同音連打が可能となるのです。(難しいでしょうか?)深くお知りになりたければメールを下さい。
 メールアドレス otonotanoshimi_mikami@yahoo.co.jp

 *1862年には”ベーゼンドルファー”で演奏会を開いたと記録が残されています。しかし1865年から1875年まではウィーンでの演奏会には主にシュトライヒャーを使用しています。この年代ではベーゼンドルファーよりシュトライヒャーを高く評価し、好んで使っていたようです。ベーゼンドルファーはこの雌伏を肥やしとし、やがて世界の名器へと躍り出るのです。

*1985年のアメリカに於いて、アメリカにある1868年製のシュトライヒャーピアノを使って、初期鍵盤楽器講座の演奏会が行なわれました。ピアニスト・セス・カーリンはこの時ブラームスの「ヘンデルの主題による変奏曲作品24」を演奏しました。カーリンは「木目調の音……より人間的、有機的」と称しました。そして「高音部は天使のように甘く、鐘の音のよう」と絶賛しました。更に第22変奏の「オルゴール風」では、「まるでチェレスタのようだ」と述べています。ブラームスのピアノ作品のオーケストラのような多彩な音色を表すには、格好のピアノだと述べたそうです。

 *1875年以降からのブラームスは、ウィ−ンの演奏会ではほとんどベーゼンドルファーを弾くようになりました。それはシュトライヒャーの経営の衰えが深刻さを増した事によります。品質でもこの頃はベーゼンドルファーに太刀打ちできなくなっていたのであり、やがてシュトライヒャーは会社を閉じます。またブラームスは私的な演奏会(サロンでの)ではしばしば、”エールバー”ピアノを弾く機会が増えました。それはこのエールバーのサロンでは自作の管弦楽曲のピアノ連弾での試演が企画されたからで、第2、第4交響曲や第2ピアノ協奏曲の披露演奏がなされました。

 *ブラームスは演奏旅行のお陰で、各地でヨーロッパ製及びアメリカ製のコンサートピアノを弾く機会を得ました。それを列挙すると、以下の顔ぶれとなりました。中々の有名メーカーが並んでいます。ベヒシュタイン、ブリュットナー、シュタインヴェク、クレムス、トラウ、リップ、クナーベ、イバッハ、バッハマン、マント、ヤコビ、スタンウェイ。

 *1881年、ブラームスの第2ピアノ協奏曲はベーゼンドルファーを使ってブダペストで初演されました。その後間もなくシュツトガルトで行われる同曲の演奏会にブラームスは友人にピアノの確保の注文をしています。「“ベヒシュタイン”か“スタンウェイ”をシュツトガルトに運んでくれないか、運送料は払うから」と…。この年代はベヒシュタインを殊の外、信頼していたようです。
 当時のベヒシュタインは現代のピアノに匹敵する優れたものであったと言われています。低音弦の交叉張り、一体型の鋳鉄製フレーム、ダブル・エスケープメント(シュワンダー型)。ベヒシュタインは強く、ビロードのような音を持つと言われたそうです。この協奏曲の指揮を任されたハンス・フォン・ビューローは「弱音が素晴らしく均一で、音に喜びがあり、しかも弾き易い……私達はタッチと音色の陰影が必要とされる場面で、様々な演奏の場を提供されるのだ」と賛辞を送っています。
その後のブラームスは度々ベヒシュタインを使っていたようで、その信頼は厚かったようです。またニューヨークの“スタンウェイ&サンズ”もハンブルク経由で入って来るようになり、ブラームスは試し弾きをしています。その感想は残念ながらこの本文には入っていませんがきっと気に入った事でしょう。また更にブラームスはボストンの”メイスン&ヘムリン”のピアノの開発にも間接的に関わっています。それと言うのも以前に、このメイスン&ヘムリンのピアノ設計者となるピアノ・デザイナー、リヒャルト・ゲルツと親しくなり、ピアノについて様々な意見交換をしたのでした。恐らくゲルツはブラームスに多くの教えを請い、感化されていたと思われます。きっとメイスン&ヘムリンにはブラームスの息吹が吹き込まれているのでしょう。著者もメイスン&ヘムリンはブラームスの無骨さに相応しいと述べています。

 *最後にブラームスのベーゼンドルファーへの賛辞を記しておきましょう。52才の夏、ブラームスはル−トヴィッヒ・ベ−ゼンドルファーに文書でこう述べています。「ベーゼンドルファーの何と言う素晴らしさ、それは鬱陶しい雨降りを、夏の晴天に変えてくれるのです」と。
 ブラームスは多くのピアノメーカーを育てたと思われます。時には厳しく、また時には熱心に、ピアノの真実を教えたに違いありません。それはベーゼンドルファーやベヒシュタイン、スタンウェイが見事に21世紀まで世界の名器として生き残った事に証明されています。
        ジョージ Sボザース、スティーヴン Hブレディ著  
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2009年01月17日

間奏曲79 お散歩日誌

 新しい万歩計を買いました。今度は日本のメーカーのもので、少しは信頼が置けるでしょう。そもそも私はデジタル商品が嫌いです。アコ−スティックピアノを低迷に追いやったデジタルピアノに深い恨みがあるからです。そして体重計やこの万歩計も乗る度測る度に違った数値を示します。さらに携帯電話は繋がらない事が多いし、車のデジタル表示は老眼の目には極めて見ずらいのです。近年、私はデジタル商品に大きな不満を抱き、不審を募らせているのです。ところが私はパソコンでブログを書いて楽しんでいます。ワープロで始まった私のものを書く楽しみはブログで開かれ、今遣り甲斐を感じているところです。私の様な頭脳不明晰の者は手書きでは混乱した理路不明の文しか書けませんでした。しかしこの文明の器は優れもので、私に文章を書く道標を与えてくれたのでした。優秀でない者にも書く事を可能にしてくれたのです。こう述べていると、私は極めて矛盾した人間だと思われるでしょう。そうです。私は矛盾した人間です。けれども正直な人間です。私は良い者は良い、悪いものは悪いと申しているのです。そしてそれは人によって様々であり、私はワープロは良くて時計や体重計のデジタル表示は悪いのです。またアコ−スティクピアノは優れていて、デジタルピアノは劣っているのです。デジタルはもっと使い易くならなければなりません。お年寄りでも幼児でも明快に容易く使えるものを…。そしてデジタルピアノの真実をもっとおおっぴらにするように! アコースティックピアノの代わりになる表示は絶対にしないように! 技術者や設計者の皆様、ピアノ関係者の皆様、一層の努力を願います。

 今日のデータ
 歩数 6108歩 一日中付けているととんでない数値になります。小さな動きでもカウントしてしまうようです。屋外で歩行する時のみ装着します。
 時間  55分 
 距離  5.4q この万歩計は距離表示がありません、大方の目安です
 体重 85.4kg 体重計が不安定で良く測れません。大体の目安で書いています
posted by 三上和伸 at 23:05| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月16日

間奏曲78 炊事当番 親子丼

 少し前、私はこのブログで”先手必勝の勧め”と題し、先手必勝の大切さを述べました。しかし献立を考えるのに四苦八苦している今の後ろ向きの私は何だ?、と問われればそれはお恥ずかしい限りで大いに反省するところです。よく考えてみれば好きで始めた事、食べたいものを作りたい一心で始めたのですから今一度心改め、意欲を持って料理して行こうと思い至ったのです。
 そんな訳で、今夜は私が食べたいものを料理しました。それは玉子のとろーりとろける親子丼で、付け合わせにはミズナと白髪ネギのサラダにエリンギと青ネギの味噌汁を作りました。
 まず最初はサラダで、これに使うミズナは今一番美味しい菜っ葉で、鍋物によしサラダによしで、使い勝手の良い野菜です。但し、歯触りに秀でるにしても香りはいま一つなので、白髪ネギで香り付けしパンチを効かせてみました。塩とクレージーソルトも少々加えオリーブオイルでサックリと和えました。次は味噌汁で、エリンギは煮るとコクが深まり良い味が出るので、その歯ごたえと相俟って美味しい味噌汁ができます。白髪ネギで残った青ネギも入れてみました。
 最後に念願の親子丼を作りました。まず煮出し汁に味醂と醤油に砂糖を加え熱し、割り下を作ります。鶏肉は2センチ角に切り玉ねぎは細い櫛形に切り揃えます。小型の鍋かフライパンを火に掛け割り下を入れ、鶏肉と玉ねぎを煮ていきます。この時、水分の過剰な蒸発を防ぐため蓋をします。程良く煮上がったら火をやや弱め、荒く攪拌した二個の卵を鍋の隅から中央に向かって回し入れます。半熟の一歩手前で火から下ろし、丼飯の上に覆い被せます。そして熱い内に口に多くかき込み頬張り、良く噛み良く味わい無心に食べます。これが丼飯を食べるコツです。食べたいものを食べたいだけ思いきり食べる、それが人の何よりの幸福であり、人生の醍醐味です。サラダは好評で皆モリモリ食べていました。「京都のフランス料理屋で食べたサラダに似てるネ!」などと言う御仁も現われて、私は「嬉しい!」と心で叫び、天にも昇る心地でした。味噌汁も美味しかったですよ!。イケるクチの我妻には湯豆腐もこしらえてプレゼントしました。
posted by 三上和伸 at 22:53| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月15日

間奏曲77 炊事当番 ちゃんこ鍋

 炊事当番で一番の悩みは献立を決めかねる事です。これは御専門の世の奥様達の共通の悩みと思われますが、まさか私もその仲間入りをしようとは夢にも思わなかったのです。そんな訳で私は三人の家人に「今日は何が食べたい?」と伺いを立てますが、内二人は「ふん!」と鼻で嗤って相手にしてくれません。かろうじて長女が「鍋にでもしたら...、私はキムチ鍋がいいけど!」と助言してくれ、「よし!」と合点したまでは並みの人ですが、天の邪鬼の私は”ちゃんこ鍋”を作る事にしました。
 まず材料の肉は鶏のもも肉と豚の切り落としを用意しました。鶏もも肉は一口大に切り、豚肉も同様に切り揃えました。そして野菜は白菜に人参、エリンギをそれぞれに短冊切りにしました。ネギは斜め切りにし、更にモヤシにミズナを用意し大皿に盛り付けました。炊き汁は顆粒の鶏がらスープの素を湯に溶かし塩を振り味を調えておきました。最後にちゃんこの味わいの大切な脇役の油揚げも決して忘れてはなりません。これは三枚の揚げをそれぞれ三角に四等分にしました。
 卓上コンロに火を付け土鍋に汁を張り、その中に肉とかたい野菜(人参、エリンギ、ネギ、白菜の白い部分)を入れ、煮立たせます。肉に火が通ったら柔らかい野菜(モヤシ、ミズナ、白菜の葉の部分)と揚げを入れ今度は一煮立ちさせたら食べ始めます。肉と野菜、そして濃厚なスープと火傷しそうな熱いままを順次次々に口に放り込み、その濃厚で深い味わいを楽しむのです。一時我を忘れて食べ狂えば、皆満足そうなお顔をして、何とお美しい事でしょう??。私の料理の魔力とはこのようなものです???。
posted by 三上和伸 at 22:48| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月14日

音楽の話3 シューマン ピアノ五重奏

 シューマン ピアノ五重奏曲変ホ長調作品44
 昨年のクリスマスプレゼントに我が長女から貰ったものは、CD券(ミュージックギフトカード)でした。子供が成長し大人になると子供からプレゼントされるものが増え、反対にこちらからあげるものは極端に減りました。それは嬉しいような寂しいような、何だか面映ゆい気持ちであり、有り難い事ですが親の立場は益々なくなりつつあるようです。
 先日の仕事の帰りに、私はこのCD券を携え横浜新星堂を訪ねました。この時、新星堂は在庫一掃の半額セールを実施していました。それならばと雑然と棚に並べられた大量の品を哀れな老眼の目で必死に隈なく見定め、私は三組のCDを買い求めました。その一枚としてピアニスト、アルトゥール・シュナーベル(1882-1951)とプロ・アルテ弦楽四重奏団の共演したシューマンのピアノ五重奏曲を選びました。シューマンはブラ−ムスやモーツァルトに次ぐ私の大好きな作曲家で、特にピアノとピアノの入った曲目(協奏曲、室内楽、歌曲等)を気に入っています。このピアノ五重奏曲はピアノと弦楽四部が合奏する曲で、それぞれのパートが美しい旋律を掛け合いながら進みます。常にぴったりと寄り添い互いに慈しみ合い語り合っているように聞こえます。その豊かな官能性と繊細な抒情性…、人間の愛と男の優しさに溢れたシューマンならではの作品で、後のシューマンの致命的な病などまるで感じさせない幸福な音楽です。この幸福が何時までも続けば良かったのにと思わずにはいられない、それ程までの幸福感が横溢しています。但しそれでも第二楽章はやや悲しく、甘い追憶の情緒が溢れます。しかしその悲しみさえ幸福の神に包まれた魂の裏返しに過ぎません。恐らく、愛妻クララとの苦難に満ちた結婚までの日々が思い出されているのでしょう…。ロマン派の室内楽を味わうには絶好の曲であり、愛と優しさを感じさせてくれる名曲です。お勧め致します。
 演奏者は故人であり、CDは古い録音で音質は冴えませんが、その演奏は音楽をする喜びに溢れていて好感が持てます。シュナーベルは小作りですが大変お洒落な演奏でシューマンの世界を優しく開いて聴かせてくれます。
posted by 三上和伸 at 23:49| 今宵の名曲・音楽の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月12日

日本の景色8 成田山新勝寺

 年老いた父の世話を焼く健気な私の母は忙しく、毎年詣でている成田山に父を置いて行けないと私達夫婦に泣き付いてきました。そのため父がデイサービスに出向く日と私達の休みの日を重ねて選んで、母を成田山に連れて行く事にしました。その好都合の日はこの一月十二日をおいて他になく、私達は今日この日に成田山へ詣でる事に決めたのでした。父が出掛けるのを見計らって車で母を迎えに行き、午後、父が帰宅するまでの僅かな時間で成田詣でを成し遂げて戻るべく、急ぎ出掛けました。そしてそれは首尾よく目的を完遂し、母の願いは叶いました。

 成田山新勝寺(成田山、成田不動)
 真言宗智山派の大本山、本尊は不動明王(大日如来が一切の悪魔煩悩を降伏するために変化して憤怒{ふんぬ}の相{形相}をあらわしたもの)。(広辞苑より) 正に厄除けの守護御本尊です。
 
 成田山釈迦堂
釈迦堂
 安政5年(1858年)に建立された旧本堂。この新勝寺には、仁王門、三重塔、額堂、光明堂、そしてこの釈迦堂の計五棟の国の重要文化財に指定された建築物があります。中でもこの釈迦堂は大きく立派です。現在の大本堂は残念ながら現代の工法で建立されたもので、建築的価値云々よりも実用一辺倒と言うものです。これも時代です。(フリー百科事典ウィキペディアより)

成田山は利根川や霞ケ浦に近く、それは当然ながら川魚料理が名物となります。多くの参拝客に振舞われる川魚料理、門前には鰻店や佃煮屋が軒を連ねています。私達も駿河屋と言う店に入り、川魚料理を味わいました。

 新勝寺門前の駿河屋の川魚料理(鯉の洗いと川海老の空揚げ)
川魚料理
 鯉は脂の乗りが素晴らしくしっとりとして、信州の田舎宿で出されるものに比べ格段に旨かったのです。川海老は香ばしく珍味であり、イケるクチには乙な肴でありましょう。値段は驚くほど安価。

 鰻重
鰻重
 脂の乗りが尋常でなく、口に入れると旨味と共にとろけてしまいます。食べる度に興奮を覚え、あっと言う間に平らげてしまいました。お陰で腹は膨れ今夜もお散歩が欠かせなくなりました。こちらの値段はそれなりに高価。

 後記:午後帰路の道すがら、お天気雨に遭いました。これは昔から”狐の嫁入り”と言い伝えられており、私は何時もその表現の愛らしさに感動してしまい、この雨振りが大好きです。待ち侘びてさえいるのです。微かな雨が三度ほど降り、その愛らしい狐の嫁入りが車のフロントガラスを濡らしました。

 お散歩日誌
 歩数 約9000歩
 距離 約7000m
 時間 約90分
 体重 85,6kg
posted by 三上和伸 at 20:58| 日本の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月11日

間奏曲76 サンデーモーニングの微笑み

 今九時二十五分、TBSサンデーモーニングを視ています。そのスポーツコーナーでサブキャスターを担当している私のアイドル唐橋ユミさんが弓道の解説をしていました。彼女お手製の可愛らしい絵の描かれたフリップを指差し説明をしてくれました。弓道には近的(28m)と遠的(60m)の二つがあり、的の大きさもそれぞれに異なるそうです。また弓道の勝敗は的の当たり所によるもの、当たった数によるもの、作法(射法八節)を観て採点するものがあるそうです。更に現在、私達が日常的に使っている言葉の“手の内”や“手心”、”筈”などは弓道から出た言葉だそうで、その成り立ちや意味合いを丁寧に説明してくれました。常に柔らかな笑みを湛え、美しい声で軽やかに述べて素敵でした。そして更に今朝は彼女の全身が映し出され、愛らしい黒のミニのワンピースに灰色のスパッツを身に付けており、心時めく魅力を備えていました。日曜の朝の微笑み、それは私のこの日この週を生きる確かな拠り所となっています。
posted by 三上和伸 at 09:28| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月10日

間奏曲75 横浜の美景

 今日の空は昨日の雨の名残のような雲が覆い、余り見た事のない不思議な空の色をしていました。低い黒雲の上にモクモクと湧き出す輝く入道雲が競り上がり、その上は青い空が見えていました。車中にいた私と妻は「不思議な雲が出ているね、ロマンチックだね」、「えー、ロマンチック? それを言うならむしろ不気味じゃない!」と言い返され、私は己の的外れの言動に暫し恥じ入りました。私は時々思ってもみない事を口にしてしまう悪癖があるようです。それから横須賀の私の父母を訪ね、家の掃除をしてやり、二人を何時もの回転寿司屋に誘い、連れて行きました。ところがここでは反対に二人に奢って貰ってしまい、この日の二回目の恥を掻きました。しかしその親心に免じて有り難く頂戴しました。どんなに年老いたとしても、その親心は尽きないものだと感心し、嬉しく思いました。
 帰路私達は何時ものように大型スーパーマーケット「コストコ金沢店」へ立ち寄りました。その道すがら長浜の瀟洒な野口記念館へ下る坂の上からは、藍色の東京湾が望めました。冬の透明な空気のその先には房総半島がくっきりと浮かび上がり、コンビナートから鋸山までが目前でした。更にその帰路、富岡の丘からは富士の黒いシルエットが浮んで見え、二人して感嘆の声を上げました。横浜と言う土地は、丘に上れば富士が見える、そんな恵まれ所でもあるのです。要は、見ようと行動するか、ただ過ごすかの違いです。

 お散歩日誌
 夜になり北風は益々強く吹きつけ、空気はいよいよ冷たく透明感が増していました。歩くと風が体に突き刺さり、身震いするほどの寒さでした。そのお陰か月例13.6の満月手前の月は東の空に冴え渡り、煌々と私を照らし出しています。私は次第に寒さを忘れ暫し幸福感で満たされました。その120度西には金星が月光に負けじと強く輝き、両手を広げた私の腕の中に、東西の美しい天体二つを取り込む事が出来たのでした。

 *今夜の数値
  歩数 約8000歩
  距離 約5.4q
  時間 約60分
  体重  85.7kg
 カロリー消費?
posted by 三上和伸 at 23:41| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月09日

間奏曲74 雨の金曜日

 今朝起きてまずした事は、窓の外を覗き雪の有無を調べた事でした。今日の天気は雪のち雨の予報が出ていたからで、車で仕事に出ようか、はたまた徒歩にしようか迷いに迷いました。(雪なら徒歩、雨なら車) 屋外へ出て体感温度を感じたり、テレビの最新の予報に首っ引きとなり、思案の結果、思い切って車で行く事に決めました。一番の決め手は体感温度にあり、何となく暖かく感じられ雪は降らないと予測しました。それは見事に的中し、今日の仕事の移動は車でぬくぬくと快適でした。徒歩でしたら寒さと大雨の中、凍え死んでいたでしょう。
 実は今日は私の炊事当番の日でしたが、もし仮に大雪になったとすれば、私は車を乗り捨て歩いて帰宅を強いられる事となり、大幅な帰宅遅延が想像されました。故に朝出る前に妻と相談し炊事当番を代わってもらったのでした。
 食卓に並んだのは、豚カツと美しく刻まれた千切りキャベツ、里芋の煮っ転がしに、昨夜私が作ったカレーでした。「カツカレーにしたら!」と妻。「こんなに美味しいカツはそれには勿体ない!、カツカレーのカツはもっと薄いカツだよ…」と私。ソースと辛子で食べました。娘二人はまだ帰宅せず、二人仲良く食べました。御馳走様!
 追伸、カレーばかり食べている家庭だと思わないでください。
posted by 三上和伸 at 22:49| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月08日

音楽の話2 日本ブラームス協会編 「ブラームスの実像」を読んで 

 一昨日より読み始めた本の一番目の感想文を投稿します。よかったらお読みください。

 第一章 交響曲第一番ハ短調ウィーン初演評 E・ハンスリック著 1876.12.17 
 ブラームスが長い年月を掛け、渾身の力を振絞って書いた第一交響曲はカールスルーエ(ドイツ南部の都市)で最初の初演?がなされました。それは恐らくこの交響曲の試運転の様なもので、ブラームスはその後の大都市での初演を前にして“出来”や“評判”を確かめておきたかったようです。そしてマンハイム、ミュンヘンで好評を博し、いよいよ音楽の都ウィーンでの初演に漕ぎ着けました。1876年12月17日、ブラームスの交響曲第一番はウィーン楽友協会大ホールに轟き渡り、ウィーンの聴衆に深い感銘を与えたのでした。この時、この曲の論評をしたのがウィーン音楽評論界のドン(首領)、エドワルド・ハンスリックでした。
 
 今まで私は、数少ないブラームスを著した書物を読み漁ってきました。ところがハンスリックのウィーン初演評はまだ読んだ事がなく、一度読みたいと願っていたところでした。昨年の暮、横浜中央図書館でその論評の入ったこの書物を見つけ、正月休みに読もうと思い借りて置いたのです。一昨日より第一交響曲の項を読み始め、今その感想を述べたいと思います。 

 ハンスリックはその権威ある存在に拘わらず依姑贔屓が過ぎると言われており、ブラームスを擁護し、ワーグナーを扱き下ろす立場をとってきました。ワーグナーとその一派からは目の敵にされ、ワーグナーの楽劇「ニュルンベルグの名歌手」の中の敵役、哀れな役人ベックメッサーのモデルとして名指しされています。またブラームスはこの偏狭のハンスリックに対し一定の距離を置いて接していたようです。後年、ブラームスは「支持してくれるのは有り難いが、彼は俺の本当の姿を全然分かってはいない」と述べたそうです。しかし私はこの論評を読んでハンスリックは大方のところではブラームスを理解していたように思われました。

 『楽界全体が、これほどまでに切なる思いで、一人の作曲家の最初の交響曲を待ち望んでいたというのも、ほとんど例のないことだ。これはとりもなおさず、ブラームスがとてつもなく高度で、しかも複雑な形式を用い、飛び抜けた作品が書けると信じられていたことを、はっきり物語っている。』の冒頭で始まる論評では、彼はブラームスの交響曲を作曲する上での妥協のない厳しさと一般受けを狙わない正直さ故にこの曲が直ぐには理解されないが、後々繰り返し聴けば解って来る筈であると説いています。それは私も全く同感で、私もレコード及びCDで何千回もこのブラームスの曲を聴いてきた人間で、今ようやくブラームスの全貌が見えてきたところです。またハンスリックはベートーヴェンを引き合いに出し、ブラームスこそは、ベートーヴェンの後期(第九やミサ・ソレムニス、ピアノソナタ第二十八番以降、弦楽四重奏曲第十二番以降などを書いた時期)に最も近づいた人であると述べます。そして『ベートーヴェンの音楽の主たる特質の一つは、相手(聴衆)を魅了するよりも、心服させるという倫理的要素であると言われている。正にこれが、彼自身の音楽と全ての”娯楽的音楽”とを明確に区別するものだが、だからと言って後者が芸術的に無価値だと言うのではない。ベートーヴェンのこの倫理的性格は陽気ななかにも真摯な心を失わず、永遠なる神に捧げた魂をもあらわに見せているが、これはまたブラームスのなかにもはっきりと見出されるのである。』と説くのです。然るにこれだけブラームスを理解しているにもかわらず、何故前述したブラームスの『ハンスリックは俺をまるで解っていない』になるのでしょうか。それは以下の叙述にその理由が決定的に現われていると思います。『ベートーヴェンの様式は、彼の人生が終わりに近づくにつれ、しばしば不透明で乱雑、そして独断的になり、彼の内面は悩める気質の中に埋没していった。』、及び『ブラームスは、感性の美しさを犠牲にしてまでも偉大なもの、厳粛なるもの、重々しいもの、あるいは複雑なものをいささか好み過ぎるようである』に答えがあると思います。ブラームスはそう言った外形的なものに拘ったのではなく、己の思い、己の思想に正直であり、それを音に忠実に具現した結果、偉大なもの、厳粛なるもの、重々しいもの、複雑なものになったのです。その根本の思想は愛(博愛)であり、希望(生きる…)であり、信仰(信頼)です。ハンスリックはブラームスのそこが解らなかったのです。真の芸術家は美しく立派なものを書こうとはしますが、それが目的ではなく、人生の真理の表現を目指しているのです。ベートーヴェンしかり、ブラームスしかりです。
posted by 三上和伸 at 23:55| 今宵の名曲・音楽の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月07日

間奏曲73 お散歩日誌

 今まで万歩計便りとしてきた名称をお散歩日誌に改めます。また漫歩と題した徒歩の旅も万歩計を着け、歩数を記録しようと思っています。更に万歩計を使い慣れたら、その歩数以外に、距離や時間、そしてカロリー消費の数値にも挑戦したいと考えています。乞うご期待!
 今夜は約60分歩きました。大分疲れが出ていますが、頑張りました。ではお休みなさい。
posted by 三上和伸 at 23:52| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月06日

間奏曲72 疲労と焦燥

 あっと言う間に正月を迎え、瞬く間に三が日が過ぎ、私は一昨日より仕事を始めました。昨日今日と仕事に出かけ、今少し疲れが出ています。あの昂りの高かった長い躁の時期は過ぎ、今、鬱のサイクルに入りつつあります。かと言って決して私は躁鬱病ではないのですが、帰宅しても何もする気になれず、椅子に腰掛けうとうとと居眠りをしてしまいました。お散歩も今日は止めにして、まだ休暇中の次女と会話をしたりテレビを観たりもしました。この焦燥と停滞の時期、私は本でも読んで過ごそうと思っています。この様な時、本は極めて有用です。勿論仕事はしますし、それに全力を注ぎます。そして明日には散歩もするつもりです。どんな本を読んだか散歩はしたかは、明日以降のブログでお知らせします。お休みなさい。
posted by 三上和伸 at 23:21| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月04日

間奏曲71 さよなら御節料理

 正月で何が嬉しいかとなると、私は御節が食べられる事を上げます。野菜のお煮しめ、数の子、栗きんとん、黒豆、蒲鉾、そして伊達巻。今上げた料理は全部私が大好きなものです。特に伊達巻には目が無く、食べると幸せを感じます。口に含むとふわっとして噛むと甘さがじわっと出て、とろけてしまいます。そして仄かな玉子と魚の香り、その風味のハーモニーが私を夢中にさせ私はそれを愛して止みません。でも今日はもう四日、沢山買った伊達巻も食べ尽くし今はありません。されど買いに行く勇気はないのです。”食べたいけど買いに行くほどではない” その不可思議な侘びしさに身悶える今日この頃です。
posted by 三上和伸 at 22:37| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月03日

東京漫歩2 両国、隅田川、深川界隈 2009.01.02

 正月二日、私と妻に上の娘も参加して昨秋以来の東京漫歩に出かけました。今回は東京都慰霊堂を始めとした両国界隈、芭蕉に縁の隅田川と深川界隈、そして富岡八幡宮の参拝と多彩な趣向で楽しみました。錦糸町駅から門前仲町駅まで、道程約七qの怒りと悲しみと楽しみに満ちた漫ろ歩きの旅でした。(今回の旅も旅行読売江戸東京散歩を参考にしました。)

 1、野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ) 墨田区亀沢
野見宿禰神社
 錦糸町から両国へ向かう北斎通りの中程に、小さいが渋く質実な神社がありました。野見宿禰とは相撲の始祖とされ、この江戸の相撲の地にも祀られていたのでした。年三度の東京場所では番付編成会議の後ここで例大祭が行われ、その時新横綱が誕生してればこの社殿の軒先で土俵入りが行われるそうです。その渋い趣はやはり目を引くようで、この日も外国人が訪れていました。(フリー百科事典『ウィキペディア』より)

 両国界隈
 私達は両国に至り、まずは国技館へ向かい相撲博物館を目指しました。しかし国技館は正月の間は閉館であり、残念ながら博物館も覗く事はできませんでした。ならば少し時間は早いが昼ご飯にしようと、土地の名物で有名なちゃんこ料理店を探しました。ところが店は幾らもあるのですが皆、正月休業で閉めている店が殆どでした。中でも人気店の巴潟や老舗の川崎も閉めており、残念でした。特に川崎は主人が顔を見せ、「うちは冷凍ものは扱わないので、市場が開いてない今はできません。」と謝りました。それから私達はチェーン展開している江戸沢と言う店に入りました。妻は「冷凍ものでしょ」と首を傾げましたが、私は美味しく感じ満足でした。塩ちゃんこが旨かったのです。そして私達は本日のメイン、東京都慰霊堂を訪ねました。

 1、東京都慰霊堂 墨田区横網
東京都慰霊堂
 関東大震災、そして東京大空襲、その膨大な身元不明者の遺骨を納めたのがここの納骨堂です。その広い講堂の内部は多くの上げ下ろし式の椅子が設えてあり、沢山の人々が法要に訪れる事が想像されました。壁には大空襲の惨状を写した石川光陽氏の写真が掲げられ、当時の生々しい有様を瞬時に知り得えて怒りと悲しみで体が震えました。正面には祭壇が備えられ私は線香を一本捧げました。その線香の香りに私は僅かな慰安を覚え、怒り悲しみから少し逃れられました。そして私は想いました。家族や同胞の命を守るのが私達大人の役目なのにそれが出来ずに殺させてしまったのは返す返すも無念であり無様であると…。今改めて私は怒りをもって戦争反対を誓います。(フリー百科事典『ウィキペディア』より)

 2、吉良邸跡(本所松坂町公園) 墨田区両国
吉良邸跡
 両国駅を南下すると回向院(えこういん)があります。この寺は明暦の大火の後、その犠牲者の無縁仏を供養し納めるために建立されたものです。俗にこの大火は振袖火事と呼ばれており、振袖に纏わる幾らかの怪談じみた伝説が生まれたようです。
 さらに南下をすると今度は吉良上野介の館跡を見付ける事ができます。忠臣蔵の敵役となった殿様ですが、その周囲の民には評判は良かったようです。今でもその元の広大な敷地からはかけ離れた小さな公園として存在している吉良邸跡ですが、それが残されただけでもこの主の民への徳が偲ばれると言われています。この小さな敷地を残すだけでも民の大きな尽力があったようです。園内には松坂稲荷大明神、吉良上野介義央公の追慕碑、吉良家家臣二十士の碑、上野介の首洗い井戸があります。(旅行読売江戸東京散歩より)
 
 隅田川からの湾岸ビル群
隅田川
 新大橋から清州橋にかけての隅田川右岸は隅田川テラスと呼ばれる庭園遊歩道が設置されています。川風は暖かくとても気持ちの良いところでジョギングをしている人や自転車の人、散歩する人などをちらほらと見受けました。私達もゆらゆらと歩き隅田川漫歩を満喫しました。水とビルの風景、正に現代の有様ですね。

 芭蕉の句碑
芭蕉の句碑
 この深川界隈の隅田川沿いは芭蕉が住んだ所(芭蕉庵)であり、そこから全国へ旅に出ていたそうです。今でもここは芭蕉庵史跡展望公園として整備されています。近くには芭蕉記念館や芭蕉稲荷があります。この句碑は隅田川テラスの道端に設けられたもので所処にあり、芭蕉好き俳句好きには答えられないものでしょう。(江東区のホームページより)

 富岡八幡宮
富岡八幡宮
 この旅の終わりに私達は深川不動尊と富岡八幡宮を訪ねました。正月二日であり、その初詣の混雑振りは凄まじく、私は仕舞ったと思い内心パスしようと思いましたが、妻と娘は参拝し御朱印を頂くのだと頑なであり、私はひたすら我慢の子となり、辛抱しました。二人は満足気で、私も二人の様子に満足し「良かったね」と声を掛け喜びあいました。皆笑顔で地下鉄門前仲町駅より家路へ向かいました。
posted by 三上和伸 at 22:52| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月02日

’09庭の花1 スノードロップ

 私が育てている庭の花々は野草が主体です。それは四季の移ろいと共に次々と咲き継ぐ花で、私達に季節を教えてくれます。今年はこの美しい季節の道標を一花一花ここで紹介していきます。2009年の庭の花暦を楽しんでください。
スノードロップ
 スノードロップ(ヒガンバナ科)和名、雪の雫(しずく)
 寒くなると芽を出して何時の間にか咲いている、スノードロップとはそんな奥床しい花です。今年は早々と咲き始めました。その名の謂れは蕾が雪の様に白い雫に見えるためで、愛らしくスノードロップ、雪の雫となりました。雪の雫、それは春を待ち侘びる私達へのささやかな贈り物です。
 何時もながらその一年の一番花はやはりスノードロップでした。
posted by 三上和伸 at 22:31| 庭の花 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月01日

間奏曲70 初詣

戸部杉山神社 
 十年前の正月、私の義父は病の体を推して神社に参拝したいと願い、直ぐ近所の杉山神社でよいから私に車で連れて行ってくれと頼みました。私は快諾し車を回し、杉山神社に連れて行きました。以前はもう少し遠い伊勢山皇大神宮に皆で歩いて参詣していましたが、やっと歩ける状態のこの時には最早これが精一杯でした。その疲労困憊の後姿は今もって私は忘れられません。またその時私の二人の娘はそれぞれに受験を抱えており、共に神社を訪れて合格祈願をしたのでした。義父と家族は各々の願いをこの宮に祈願し託したのです。その一月半ほど後に義父は亡くなり、ほぼ同時期に二人の娘は合格を果たしました。残された私達は何とも複雑な感情に翻弄され悲喜交々嵐の様な折節を過ごしたのでした。これ以降、私はこの戸部杉山神社に因縁を感じこれを大切にし、新年になるとこの宮を家族四人で訪れています。そして亡き義父を心の奥底で偲んでいます。

 万歩計便り
 またしても万歩計が不調をきたし、上手くカウントされません。安物を買った報いであり、腹立たしく残念に思いました。今度は良品を買う予定です、その節に再び歩数を掲載いたします。
 ほぼ7000歩位
posted by 三上和伸 at 21:38| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

間奏曲69 新年のご挨拶

 皆様、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。
 今年がどんな年になるか、楽しみでもあり一寸不安でもあります。皆様にはご健康とご多幸をお祈りします。沢山ブログを書きますので楽しみにしていてください。


posted by 三上和伸 at 00:52| 間奏曲 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする