源氏の統領・源頼朝には強い信仰心がありました。天下分け目の戦の連続、その心の平静を保つには信仰が欠かせなかったのかも知れません。それは守り神である八幡神・鶴岡八幡宮を鎌倉幕府の中心に据えた事や、歴代の源氏の祖や戦火に倒れた敵味方の兵士の御霊を弔うために、次々と大寺院を建立した事に表れています。頼朝が建てた大寺院は三寺あり、八幡宮の近在の雪ノ下と二階堂に二寺あり、そして最後の一寺は、実朝の代で鶴岡八幡宮内に建立された八幡宮神宮寺があります。
三大寺院の最初に建てられたのが勝長寿院(ちょうしょうじゅいん、1185年建立)でした。平家に殺された頼朝の父・源義朝の菩提を弔うための寺院、大御堂(おおみどう)と呼ばれ、現鎌倉市雪ノ下の大御堂が谷にありました。源氏の菩提寺の一つでしたが、焼失と再建が繰り返され、やがて足利(室町)時代になると足利氏の庇護も薄くなり、結局廃寺となりました。
三大寺院の二番目に建てられたのが、今回紹介します永福寺です。永福寺と書いて呉音読みで「ようふくじ」と読みます。鎌倉幕府成立の為に、平家や奥州藤原氏との長年に亘る戦いがありました。弟の源義経との争いもありました。頼朝はそれらの多くの戦死者を敵・味方を問わず弔うために、現鎌倉の二階堂に永福寺を建立(1194年)したのでした。功成り名を遂げた頼朝でしたが、ここまで多くの犠牲者を出しました。頼朝の心を苛むものは、頼朝のために死んだ巨万の兵の怨霊でした。その御霊と亡霊を抑え込むために、頼朝は永福寺を建てたのでした。
三大寺院最後に建てられたのが頼朝の死後、頼朝の命に依り、鶴岡八幡宮内に神仏習合の神宮寺(1208年建立)が建立されました。これは明治の代まで続いたのですが、明治の神仏分離策の廃仏毀釈によって寺の全てが破壊されました。文化財破壊の明治政府の最も愚かな政策でした。鎌倉は歴史上の多くの財宝を失いました。
永福寺復元想像図
頼朝が平泉で観た中尊寺の大長寿院(二階大堂)を模して建てたのが、この二階建て大堂・二階堂です。北(写真右)に薬師堂、南に阿弥陀堂を配し、その両脇には翼楼が従っています。三つの堂は廻廊(複廊)で繋がっており、宇治の平等院さながらの景観が望めたでしょう。
そしてその東側前面には200mを超える池が造られ、中島も橋も存在していました。この全体の構図は、同じ平泉の藤原秀衡が建てた無量光寺を模したとされており、無量光寺は京(宇治)の平等院を模したとされています。結局、鎌倉永福寺は、結果として京の平等院に似た構造を持つ寺院だったのでした。
遺跡発掘の説明板
長く放置され荒地だった永福寺跡を、鎌倉世界遺産獲得の決定打にしようと、遺跡発掘が行われました。史跡指定の翌年の1967年度から土地の公有化を推進し、2007年以降に、復元整備工事を始めました。2017年6月、二階堂、阿弥陀堂、薬師堂の基壇(礎石)と苑池の復元が完了し、公開されました。
苑池
鎌倉二階堂の谷戸に広がる永福寺跡、周囲の一部は住宅地となっていますが、四方を山に囲われた鎌倉らしい立地をしています。大伽藍の基壇が復元され、その前に大きな池が掘られています。
基壇・翼楼 基壇翼楼 遣水、池の水源
基壇 基壇 手前から薬師堂・二階堂・阿弥陀堂の基壇の並び
復元された永福寺跡
数々の礎石が置かれた基壇、復元はここまでだそうですが、その大伽藍の巨大さが想像されます。焼けず残っていれば国宝・世界遺産に当然成るべき稀有の遺跡です。