久し振りでブラームスのヴァイオリン協奏曲ニ長調op.77を聴きました。ブラームスの大曲の中では、私が一番聴かない曲です。協奏曲とは、比較的砕けた音楽で、独奏楽器の華々しいテクニックやオーケストラとの駆け引きを楽しむジャンルです。しかしブラームスは、そんな生易しい遊びの音楽は書く気になれなかったのかも知れません。どんな曲にも全力投球をしてしまう作曲家でした。ですから、このヴァイオリン協奏曲は屈折が多く、聴き辛い曲なのですね。特に第1楽章がそうで、その際たる部分が展開部です。
第1、第2交響曲を成功させたブラームス、交響曲と言う長年の憑き物を落としました。最早並ぶ者が無い大家となりました。好き放題が出来るようになり、積年の憧れだったイタリア観光旅行も済ませ、その帰りに避暑地で、当代一のヴァイオリンの巨匠・サラサーテの演奏を聴いたのでした。確かブルッフのヴァイオリン協奏曲でした。ブラームスは大変感動し、「俺も一つヴァイオリンの協奏曲を作ってみたいものだ」と願い、親友のヴァイオリニスト・ヨーゼフ・ヨアヒムにヴァイオリン奏法の奥義を伝授をしてもらい、ヴァイオリン協奏曲を書き始めました。
ところがヨアヒムはこのブラームスのヴァイオリン協奏曲に夢中になり、あれこれ自説を述べ、やたら注文をし、何と初演の期日まで決めて、ゲヴァントハウスと契約まで取って仕舞ったのでした。ブラームスは辟易しましたが、何とか期日に間に合わせ、初演する事に成功したのでした。ヴァイオリンのテクニックによる巨匠性(ヨアヒムの主張)とブラームスの真摯な音楽性の主張が火花を散らして、この曲がかなり難解なものになって仕舞った事に、否めないものがありました。
紆余曲折の複雑な第1楽章の鬱憤を晴らすかのように、第2楽章はブラームスの愛の情熱が溢れ出します。そして第3楽章に至っては、ハンガリーのリズムが諧謔に弾けます。漸く歓喜の協奏曲になりました。
この曲は、後進の作曲家にも大きな影響を与えており、曲の管弦楽部の充実に括目されたフィンランドのシベリウスは、自作のヴァイオリン協奏曲のオーケストラ部分を書き直しました。そしてチャイコフスキーは、この曲を聴いた感想をパトロンのメック夫人に「私の好みに合わない、詩情が欠けている、それなのに深遠さを装っている」と手紙で述べています。この逸話は私には良く解ります。チャイコフスキーはもっと聴衆に分かり易い詩情を持つ劇的な音楽が好みでした。ブラームスの深い人間愛の情熱が判らなかったのでした。この音楽は、チャイコフスキーには、私と同じように、判り辛い音楽だったのです。でもね、何回も聴いている内に、ブラームスの心が解って来るのです。第一印象だけでは芸術は判らないのです。簡単に判断して良否を断じるのは可笑しな事で、決してやってはいけない事です。