ドイツレクイエムのジャケット
今日はドイツロマン派にして新古典主義の作曲家ブラームスの忌日です。古典のソナタやバリエーション、バロックのフーガやパッサカリアを使い、古き古典の精神に、新たなロマンの情緒を織り込んだ数々の名曲を創りました。思い浮かべれば、何十曲もの作品が浮かびます。どれもが基準を満たした粒選りの名作であり、ブラームスに限って言えば、駄作は一曲も無いのです。これほど充実した曲のラインアップは、他のどの作曲家にも観られないもので、真の天才だったことが判ります。最高傑作は、ドイツレクイエム、第1・第4交響曲、ピアノ協奏曲2番、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ五重奏曲、クラリネット五重奏曲、ピアノ小品・op.116・117・118・119、オルガンの11のコラール前奏曲、歌曲「4つの厳粛な歌」を選ぶことが出来ます。どれもが人生を語る芸術作品として一級品で、クラッシック音楽の一時代を代表する傑作です。ベートーヴェンの英雄主義とは一線を画す、庶民的な平和主義を標榜した人物であり、音楽でした。
ブラームスはハンブルクの貧民街に生まれました。父は若く血気に逸った貧乏なコントラバス奏者で、母は父よりも遥かに年上の婦人で、お針子をして働いていたお婆ちゃんのような母でした。父からは音楽的な野望を、母からは常識人の優しい愛を受けて育ったようです。こう言った母から生まれた男児は、極めてマザーコンプレックスに陥り易い性格を持つと言われており、恋はするが、結婚をしない性質になるそうで、ブラームスの生涯独身の身の上は、この時から決まっていたように想像されます。
幼き日、父の薫陶により、ブラームスは音楽の才能を芽生えさせます。しかしブラームス家は貧乏で、ピアノがありませんでした。父は弦楽器か管楽器の演奏家にさせようとしていましたが、ブラームスはピアノを希望したそうで、父は必至にピアノ教師を探しました。運よく丁度良いピアノの先生・オットー・コッセルを見付け出し、ブラームスに引き合わせました。ブラームスの才能を見抜いたコッセルは、態々ブラームス家の近所に引っ越して来て、ブラームスに自らのピアノを自由に弾かせました。ブラームスの上達は凄まじく、コッセルは自分には手に負えなくなり、自分の師匠に当たる高名なエドワルド・マルクスゼンにブラームスを任せました。後に作曲家・ブラームスが誕生する切っ掛けを担ったのがこのマルクスゼンでした。無償でブラームスを教えたマルクスゼン、古典派音楽を中心にブラームスの芸術観を鍛え上げました。10代になると親孝行のブラームスは歓楽街のピアノ弾きとしてアルバイトをするようになりました。酒と煙草に汚れたダンスホール、ブラームスは不健康な場にいたのでした。それでも悪の道には入らず、ひたすら自らを鼓舞して、音楽に没頭しました。ブラームスの出世の足掛かりになったドイツ各都市ドサ周り旅は、この酒場で出会ったハンガリーのヴァイオリニスト・エドワルド・レメーニと始めたものでした。
20歳の頃、シューマンと出会い、当時の音楽界の現状を知り、シューマンの理想に影響を受け、ブラームスはそれを参考に、曲作りをして行きます。ここから恩師マルクスゼンの教えとシューマンの理想を摺り合わせ、ブラームス独自の理念を築き上げて行きます。この時点でほぼ、ブラームスの音楽の指針が定まったのでした。そこから40年、誰もが作らなかった古典とロマンの融合の芸術音楽、新しい道を選んだブラームス、唯一無二のブラームスの音楽が世に残ったのでした。
ブラームスが死んでから124年、現代の世になって、増々ブラームスの音楽は世に光を投げかけています。静かですが、再びブラームスブームが起こっています。私がそうであったように、世の音楽ファンはブラームスに、新しさを感じ始めています。この音楽こそ人々に幸福を与えてくれます。
今日のこの忌日に臨んで、私はブラームスに対し、音楽の幸福を感謝します。心より冥福を祈ります。