2008年07月20日

今宵の名曲・この一枚12 リスト

 今宵の名曲12
リスト
 リスト ピアノ協奏曲第一番変ホ長調 マルタ・アルゲリッチ(ピアノ) 指揮:クラウディオ・アッバード ロンドン交響楽団
 パフォーマンスに徹した娯楽音楽の快作

 ベートーヴェンの弟子で、有名なピアノ教則本の著者であるカール・ツェルニーの薫陶を受けたリストは、メキメキとピアノ演奏の腕を上げ、ピアノの神童と誉めそやされました。そして当時の大ベートーヴェンに謁見を許され「音楽とは人を喜ばせ幸福にするもの、それができるのは幸運なのだ、しっかりやりなさい。」と励まされたのです。リストはこの言葉を生涯忘れず己を叱咤激励し、このベートーヴェンの遺訓に准じました。この様に心に掛け替えのない宝を持った者は幸せです。リストの後年の努力と成功はこの時すでに約束されたものだったに違いありません。リストが十一歳の時のウィーンデビュー演奏会での出来事でした。

 幼くして衝撃のデビューを果たしたリストは父と共にヨーロッパ各地を転々とし、演奏旅行に奔走しました。行くところ行くところ大成功を収めリストは神童の名を欲しい侭にし、その名声はヨーロッパ全土を駆け巡りました。しかし父の死と失恋をきっかけに心折れたリストは失意のどん底に陥り、社交界への出入りもやめ演奏会も開けなくなりました。聴衆の前から消えたリストを当時の人々は「リストは死んだ」と噂していたそうです。そんな中、リストはパリでヴァイオリンのパガニーニを知る事になります。パガニーニのヴァイオリンは変幻自在の音色と技巧を駆使した未だ嘗て聴いた事のない衝撃的な音楽でした。正にヴァイオリンの魔術師と異名を取る画期的な演奏だったのです。リストは感動し、激しい衝動に駆られ、「俺はピアノのパガニーニになる」と決意し、以来ひたすらピアノ演奏技法の工夫研究に没頭します。この研究成果は正に絶大であって、その後のリストのヴィルトオーゾ(巨匠)としての地位を確立させ、新たな領域のピアノ作品群を誕生させる原動力となりました。そしてそれはリストを音楽史上の偉大な作曲家の一員に押し上げる力となったのです。また楽器としてのピアノの進歩にもそれが大きく寄与した事を忘れてはなりません。現代のピアノの素晴らしさはリストを始め、こうしたピアノ作曲家並びにピアニストの発想と進言の賜物であると言えます。長らく日本の演奏会用ピアノの能力が低迷していた事実は、このピアノ作曲家やピアニストの有益な進言が得られなかったからであり、日本にリストやショパン、またドビュッシーやラベルがいたら、日本のピアノは五十年早く、今のレヴェルに到達した事でしょう。

 ピアノ演奏の領域に画期的な新技法を開陳したリストは公私共に盛んとなり、パリ社交界へも進出し、その栄華はいよいよ本物となりつつありました。するとそこには必然として女性の存在が浮上してきます。リストと女性、それは彼の父親が一番心配していた組み合わせです。男前であり、その長身の身のこなしや風情はクールであり、しかも新進気鋭のピアニストときては正にスターであり、女が放って置く筈はありません。多くの名家の子女達が取り巻きとなり追っ駆けとなって言い寄りました。しかし流石はエキセントリックな芸術家、うぶな生娘等には鼻も引っ掛けず、専ら貴族の人妻を口説いては不倫に現を抜かしていたのです。あの父親の死に際の予言はここに見事に的中してしまったのであり、リストは生涯女性との軋轢に苦しむ事となります。

 まず初めの女性は、後にリストの三人の子供を産み、しかもその内の次女が後年大作曲家ワーグナーの妻となり、その子供(ジークフリート)を産んだコジマであり、正に西洋音楽史上に自己の血脈の一筋を注入した女性、パリ社交界の花形マリー・ダグー伯爵夫人です。マリーは若く豊潤な美貌の持ち主でありながら、年老いたダグー伯爵と愛のない政略結婚を強いられた身であり、色男リストとの出会いは正に運命的でした。マリーは当時最も有名な社交クラブ・ダグー伯爵家のサロンを主催していました。そこに出入りできるのは文化人やセレブだけであり、それは正に当時の上流階級の社交場であり、リストもショパンもここで自作を披露し名を成して行ったのでした。因みにショパンとジョルジュ・サンドの出会いもこのサロンでした。リストは美しき女主人マリーに恋をし、しきりに口説き始めます。しかし初めマリーはこれを避けていました。もしそれを許したなら抜き差しならぬ関係となり、不倫の烙印を押されてしまいます。マリーはぎりぎりの所で自分を抑えていたのです。しかし欲望の泉は止め処なく溢れ出し、遂に決壊する時を迎えてしまいました。マリーはパリと夫を捨て、リストの下に走り、スイス・ジュネーブに愛の巣を持ちました。パリ社交界はこの二人に非難轟々となり、マリー・ダグー伯爵夫人は多くの知己を失い財産までも無くしてしまったのです。
 駆け落ちをした二人は、仲良く生活を始め、三人の子を儲け暫くは幸福でした。しかしやがて不和が忍び寄り別居するようになります。そしてその五年後には話し合いの末、完全に別れる事になりました。その主な原因はマリーの嫉妬にあると言われています。リストが女性に“持てる”のは当然と熟知していた筈のマリーでしたが、虚栄心の強いマリーはそれを頭で解っていても心で許せなかったのです。私が思うにはリストは成熟した男の持つ思慮と優しさが足りなかったように思われます。己が愛した筈の女性、そのマリーの女性としての資質に理解が浅く、無責任であったと言う事です。リストの恋は盲目の恋だったのです。

 家族と別れたリストはピアニストとしての自分に全精力を注ぎ込み、ピアノ演奏及び演奏技法研究に没頭します。そしてその世間の評価はいよいよ最高のものとなり、リストは当代随一の名ピアニストとして名を成し楽壇の中心となります。そして多くの弟子や取り巻きを抱え、リスト一派の形態をなして行きます。これが後にワーグナーやブルックナーにヴォルフ、さらにリヒャルト・シュトラウスやマーラー等の作曲家達が賛同する新ドイツ派(ワーグナー派)へと発展して行くのです。

 1847年、リストは再び人妻と不倫をします。その女性の名はカロリーネ・フォン・ザイン・ヴィットゲンシュタイン伯爵夫人であり、この人こそは、リストが今日作曲家リストとして世界に名を成していられる要因となった真の恩人と言えるのです。カロリーネはリストにこう言ったそうです。「ピアニストや指揮者などは、死んで時代が進めば何れ忘れられてしまうものよ、作曲をなさい、優れた作品を残せば貴方の名は末代まで残るのよ。永遠の命が与えられるのよ。」と…。この優れた進言に私はこの女性の芸術への愛と造詣の深さを感じ、関心させられました。ピアノ演奏に固執し作曲にそれ程興味を示さなかったリストですが、これを切欠に作曲にも精を出すようになります。リストの佳曲、名曲のほとんどがカロリーネと出合い(1847年)ワイマールで同棲し始めた(1849年)以降に作られた作品であり、如何にカロリーネの存在が大切であったかが知られます。しかしリストには女性との幸福は難題のようです。カロリーネとヴィットゲンシュタイン伯爵との離婚は宗教上難しく、紆余曲折の末、1861年成立不可能となりました。これに失望したカロリーネはワイマールのリストの下を去り、宗教生活に入ってしまったのです。捨てられたリストも修道僧となり、その後僧籍を得て黒衣を纏うようになりました。よって晩年のリストは僧衣を纏ったピアニストとあだ名されるようになったのです。私が思うにはここにもやはりリストの人を己に瞠目させようとする、芝居掛かった目立ちたがりの性格が表れているよう感じるのです。(可愛いですが?やや、醜悪です。)

 ピアノ協奏曲一番はこれまで述べてきた彼の性格なり、芸術の趣向なりがよく表された佳曲に思います。派手好きで人を驚かせるのが大好きな気取り屋の目立ちたがり屋、そして濃密なロマンティックとそれ故の女好きなところ、更に飽きる事のないピアノ演奏技法への探究心、そんなものが綯い交ぜとなり、極めて解りやすく颯爽とした音楽です。肩の凝らない娯楽の粋を極めた佳い作品と思います。

 ピアノのアルゲリッチはこの曲には打って付けのピアニストで、ロマンチックで爽快な快演奏をしています。 
posted by 三上和伸 at 22:04| Comment(0) | 今宵の名曲・音楽の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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