2009年01月18日

音楽の話4 日本ブラームス協会編 ブラームスの「実像」より ブラームスのピアノを読んで

 1、ブラームスの生きた時代とピアノの進化
 ブラームスは1833年にドイツのハンブルクに生まれ、1897年オーストリアのウィーンで没しました。この64年間の欧州音楽界はロマン派の全盛期から近代へと移行し始めた時期に区分されます。このブラームスの生きた時代は産業革命の更なる隆盛の時と重なり、富裕層の増大により、ピアノの需要が爆発的に伸びた時期でもありました。多くのピアノメーカーが創業し、競い合い、優れたピアノが次々と産み出されていったのです。ささやかなフォルテピアノの時代から現代のピアノに遜色のない近代ピアノまでのピアノ革新の時代…。この時代を生きた最高の証人、希代の大音楽家ブラームスがそれと如何に関わり、それらのピアノをどの様に使ったか、この論文がそれを教えてくれました。 

 2、ブラームスの所有したピアノ(愛器)
 ブラームスが自宅で長期間所有したピアノは、2台がよく知られています。何れも小型のグランドピアノでウィーンで作られた旧式のものです。一台目は1856年にクララ・シューマンより譲られたピアノで1839年製造の“グラーフ”でした。音域は6オクターブ半。下1点「は」から4点トまで。シングル・エスケープメント方式のアクション(打弦機構)を持つ、総木造り、皮張りハンマーのものでした。このグラーフピアノは1862年までブラームスが下宿先で使い、その後はブラームス所有のまま点々と置き場所が変わり、1873年シューマン夫妻とブラームスが使ったピアノとしてモーツァルトやベートーヴェンのピアノと並んでウィーン万国博覧会に出展されました。さらにその後はウィーン楽友協会の所有となり、今日ではウィーン美術史美術館に貸し出されているそうです。調律ピン・ピン板周りの故障らしく、現在は調律不能、使用不能だそうです。
 二台目は1872年ブラームスが新しいアパートに引っ越した際、ウィーンのピアノメーカー・シュトライヒャーから借り受けたグランドピアノです。この”シュトライヒャー”もやはり弦の平行張り及びウィーン型のシングル・エスケープメントアクションを持つ小型のグランドピアノでした。ブラームスはこのメーカーのピアノを高く評価し愛好しており、クララを始め様々な友人知人に勧めています。そしてこのピアノはブラームスの生涯最後のピアノとなり、この主の死をも見守ったピアノです。ところがこのブラームスのシュトライヒャーは、ブラームスの死後、数奇な運命を辿る事になります。ここでは本文を掲載しその顛末をお教え致します。『ブラームスの死後、友人たちは彼のアパートがそのまま記念館として保存される事を望んだが、1906年建物は取り壊されてしまった。ブラームスの部屋にあった家具調度品のほとんどは家主が持ち続け、後にウィーン楽友協会が譲り受け保管する事になった。結局それらはウィーン市の歴史博物館に送られたが、第2次世界大戦のおり、ほとんどの家具が破壊されブラームスのシュトライヒャーも激しい損傷を受けた。現在残ってるのは、一本の脚と譜面台、それが全てである。』 真に残念であり、戦争の愚かさをこんなところでも知る事となるのです。そして戦争はブラームスの最も忌み嫌うものだったのです。

 *グラーフピアノ演奏の録音
 ウィーンのピアニスト、イェルク・デームスがグラーフピアノを使い演奏した録音が残されているそうです。それはデームス自身が所有している1839年製のグラーフを使用した録音で、極めてコンディションのよいピアノだそうです。曲目は「ベ−トーヴェン ディアベリ変奏曲」(Archiv 2708 025)、エリー・アメリンクとの「シューマン歌曲集 国内盤ハルモニア・ムンディBVCD5OII」、「シューマンの幻想小曲集作品12より抜粋」(HMS17 064,29 29069/7,また30 485K)です。

 3、ブラームスのピアノ感、使用したピアノのあれこれ
 ブラームスが所有したピアノは以上の二台の外はこの論文に登場しませんが、彼が演奏会やピアノ工房での試演で弾いたピアノは数限りなくあり、その感想や要望は多くこの本文に書き込まれています。その一部を選んでここに書き出してみます。

 *『ブラームスの書簡集、あるいは記録などを見ると、この作曲家は長いキャリアのなかで、実に様々なピアノを弾いていた事がわかる。彼はその時点時点でのピアノ製造の最新の進歩過程を、自ら世間にデモンストレーションしていたのであった。』(本文より)

 *少年期のブラームスは、貧しい家庭の事情があり、家にピアノがなく師の家やピアノ工房を訪ねてはピアノの稽古に励んでいたらしいのです。その師がオットー・フリードリッヒ・ヴィリバルト・コッセル(コッセルはブラームスの天才を見出した最初の師で、ブラームスを教えるためわざわざブラームス家の近所に引っ越して来て、ピアノをブラームスに使わせたと言われています。)であり、そのピアノメーカーがハンブルクのバウムガルテン・ウント・ハインスで、後にブラームスは自身の第一ピアノ協奏曲のハンブルク初演(1859年3月24日)で、このメーカーのコンサートグランドを使いました。

 *ピアノアクションにはシングル・エスケープメントとダブル・エスケープメントの方式があり、フランスのエラールが特許(1808年、1821年再特許)をとったダブル・エスケープメント方式が次第に優勢となりつつありました。ブラームスも1850年代よりエラールに親しんでおり、高い評価を下しています。上記のピアノコンツェルトも初めはエラールが使えないので初演を一年延期したくらいでした。(結局は使えず、バウムガルテン・ウント・ハインスを使いました。)この頃クララ・シューマンもイギリス公演の折り、エラールを寄贈され所有しており(1856年)、クララの家でもブラームスはエラールを弾いています。またイギリスのブロ−ドウッドも1867年にクララにピアノを寄贈し、ブラームスはクララの家でクララとこのピアノで連弾を楽しんだと伝えられています。(ピアニスト、フローレンス・メイ回想録より)
 当代随一の女流ピアニストには多くのメーカーが接近し、自社の広告塔になるように望んだようです。 

 *エスケープメント方式
 鍵盤を押し下げるとその奥(先)は梃子(てこ)の原理で押し上げられ、その動力がアクションを押し上げ、同時にハンマーを突き上げ(ジャックと言う梃子で)て打弦します。しかし弦に当たる瞬時手前でハンマーがアクション(ジャック)から自由に解き放たれなければハンマーは弦を押しつけて振動を止めてしまい音は鳴りません。そのハンマーの弦への押し付けから逃がす仕組み(ジャックをハンマーから外す仕組み)をエスケープメント方式と呼ぶのです。そして解き放たれたハンマーはその運動の惰力(惰性)で弦を打ちます。シングル・エスケープメントは逃がすだけであり、従って同音連打は鍵盤を一度元に戻さなければ次の音は鳴らせません。ダブル・エスケープメントはハンマーを逃がし打弦した後、”レペテイションレバ−(反復梃子)”で少しハンマー(ハンマーの根元にある鹿革のローラー)を持ち上げ、ジャック(直接ハンマーを突き上げる梃子)とローラーの接触を解除し、ジャックを瞬時に打弦可能な元の位置に戻す仕組みです。鍵盤を元の位置まで戻さなくても再び打弦できる機構であり、素早い同音連打が可能となるのです。(難しいでしょうか?)深くお知りになりたければメールを下さい。
 メールアドレス otonotanoshimi_mikami@yahoo.co.jp

 *1862年には”ベーゼンドルファー”で演奏会を開いたと記録が残されています。しかし1865年から1875年まではウィーンでの演奏会には主にシュトライヒャーを使用しています。この年代ではベーゼンドルファーよりシュトライヒャーを高く評価し、好んで使っていたようです。ベーゼンドルファーはこの雌伏を肥やしとし、やがて世界の名器へと躍り出るのです。

*1985年のアメリカに於いて、アメリカにある1868年製のシュトライヒャーピアノを使って、初期鍵盤楽器講座の演奏会が行なわれました。ピアニスト・セス・カーリンはこの時ブラームスの「ヘンデルの主題による変奏曲作品24」を演奏しました。カーリンは「木目調の音……より人間的、有機的」と称しました。そして「高音部は天使のように甘く、鐘の音のよう」と絶賛しました。更に第22変奏の「オルゴール風」では、「まるでチェレスタのようだ」と述べています。ブラームスのピアノ作品のオーケストラのような多彩な音色を表すには、格好のピアノだと述べたそうです。

 *1875年以降からのブラームスは、ウィ−ンの演奏会ではほとんどベーゼンドルファーを弾くようになりました。それはシュトライヒャーの経営の衰えが深刻さを増した事によります。品質でもこの頃はベーゼンドルファーに太刀打ちできなくなっていたのであり、やがてシュトライヒャーは会社を閉じます。またブラームスは私的な演奏会(サロンでの)ではしばしば、”エールバー”ピアノを弾く機会が増えました。それはこのエールバーのサロンでは自作の管弦楽曲のピアノ連弾での試演が企画されたからで、第2、第4交響曲や第2ピアノ協奏曲の披露演奏がなされました。

 *ブラームスは演奏旅行のお陰で、各地でヨーロッパ製及びアメリカ製のコンサートピアノを弾く機会を得ました。それを列挙すると、以下の顔ぶれとなりました。中々の有名メーカーが並んでいます。ベヒシュタイン、ブリュットナー、シュタインヴェク、クレムス、トラウ、リップ、クナーベ、イバッハ、バッハマン、マント、ヤコビ、スタンウェイ。

 *1881年、ブラームスの第2ピアノ協奏曲はベーゼンドルファーを使ってブダペストで初演されました。その後間もなくシュツトガルトで行われる同曲の演奏会にブラームスは友人にピアノの確保の注文をしています。「“ベヒシュタイン”か“スタンウェイ”をシュツトガルトに運んでくれないか、運送料は払うから」と…。この年代はベヒシュタインを殊の外、信頼していたようです。
 当時のベヒシュタインは現代のピアノに匹敵する優れたものであったと言われています。低音弦の交叉張り、一体型の鋳鉄製フレーム、ダブル・エスケープメント(シュワンダー型)。ベヒシュタインは強く、ビロードのような音を持つと言われたそうです。この協奏曲の指揮を任されたハンス・フォン・ビューローは「弱音が素晴らしく均一で、音に喜びがあり、しかも弾き易い……私達はタッチと音色の陰影が必要とされる場面で、様々な演奏の場を提供されるのだ」と賛辞を送っています。
その後のブラームスは度々ベヒシュタインを使っていたようで、その信頼は厚かったようです。またニューヨークの“スタンウェイ&サンズ”もハンブルク経由で入って来るようになり、ブラームスは試し弾きをしています。その感想は残念ながらこの本文には入っていませんがきっと気に入った事でしょう。また更にブラームスはボストンの”メイスン&ヘムリン”のピアノの開発にも間接的に関わっています。それと言うのも以前に、このメイスン&ヘムリンのピアノ設計者となるピアノ・デザイナー、リヒャルト・ゲルツと親しくなり、ピアノについて様々な意見交換をしたのでした。恐らくゲルツはブラームスに多くの教えを請い、感化されていたと思われます。きっとメイスン&ヘムリンにはブラームスの息吹が吹き込まれているのでしょう。著者もメイスン&ヘムリンはブラームスの無骨さに相応しいと述べています。

 *最後にブラームスのベーゼンドルファーへの賛辞を記しておきましょう。52才の夏、ブラームスはル−トヴィッヒ・ベ−ゼンドルファーに文書でこう述べています。「ベーゼンドルファーの何と言う素晴らしさ、それは鬱陶しい雨降りを、夏の晴天に変えてくれるのです」と。
 ブラームスは多くのピアノメーカーを育てたと思われます。時には厳しく、また時には熱心に、ピアノの真実を教えたに違いありません。それはベーゼンドルファーやベヒシュタイン、スタンウェイが見事に21世紀まで世界の名器として生き残った事に証明されています。
        ジョージ Sボザース、スティーヴン Hブレディ著  
posted by 三上和伸 at 23:13| 今宵の名曲・音楽の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする