2009年12月06日

音楽の話11 ブラームス「ハンガリー舞曲」

 厳しい音楽の修行を終えて二十歳になったブラームスは世に出るために放浪の旅を決意しました。丁度知り合ったばかりのヴァイオリニストのエドワルト・レメーニと共に一旗揚げようとハンブルクを出発したのです。ドイツ各地でどさ周りの演奏会を開いては名を売るために奮闘しました。ヴァイオリンとピアノの二重奏が主体であり、モーツァルトやベートーヴェンなどのソナタの名曲や極たわいのない舞曲や娯楽作品も曲目に取り上げられたようです。その折、ハンガリー生まれのレメーニからはハンガリー・ジプシーの舞曲・チャルダッシュの数々を教え込まれ演奏しました。ブラームスはそれらのピアノパート譜を作り二重奏作品として五線譜に認め大切に保管しました。勿論何かの役に立てようとはこの時点では思い及ばなく、ただ愛するだけでしたが?

 レメーニとは結局その数ヶ月後にワイマールのフランツ・リスト(42歳)の邸宅で袂を分かちました。レメーニはすっかりリストにかぶれそこに居付き、ブラームスは一人失意の内にリスト邸を後にしました。リストはブラームスの天才を見抜けず、また貧乏育ちのブラームスもその金満なリストの生活振りに反発を覚え、芸術にもそりが合わぬものを痛感し、自ら下向したのでした。そしてその数ヶ月後に今度は一人でジュッセルドルフのロベルト・シューマン(43歳)を訪ね、首尾よく世に出る事に成功したのです。シューマンは音楽雑誌に「新しい道」(古典主義とロマン主義の結合の道を示唆する)と題して論文を寄稿し、ブラームスとその音楽の存在を世に知らし示しました。二十歳のブラームスは一躍ヨーロッパ楽壇の寵児となったのです。

 それから十六年後の1869年にレメーニから教わった大好きだったハンガリーのチャルダッシュをピアノ四手用に編曲し「ハンガリー舞曲集」(10曲)として出版をしました。これが大当たりをとり楽譜が売れに売れ、ブラームスの元には多額の印税が転がり込みました。(それでもしたたかな楽譜出版商に上手い事儲けられ、後にブラームスは「俺がもう少し利口ならばその儲けで城が建っただろうに」と述べたそうです)。しかしそれを妬んだレメーニからは、盗作であると訴訟を起こされ、二人は裁判で争いました。挙句の果ては、楽譜にはブラームス作曲とは記されておらず編曲となっていたので、ブラームスの言い分が通りました。ブラームスはこれに懲りて第二集(11曲)を出す時にはよりオリジナルのものを増やしたそうです。でもそのお陰かちょっとつまらなくはなりました。

 それでもこの大当たりは後のブラームスの財産となり、ブラームスは作曲の印税だけで生活が成り立つ音楽家では稀有の存在となりました。ハンガリー舞曲はブラームスの作曲家として成り立ちの重要なバックボーンの一つとなったのでした。

 哀愁と躍動と歓喜、ハンガリー舞曲は遍く人を引き付けるブラームスの代表作です。屈折した気難しい音楽を沢山書いたブラームスですが、この曲集とワルツ集だけは誰の心にも優しくしみ込んでくるブラームスのエッセンスがあります。そこには普段のブラームスの快活な横顔が見えます。

 ピアノ四手(連弾)、ピアノソロ、管弦楽用と多彩な編曲があり何れも大いに楽しめます。
posted by 三上和伸 at 23:13| 今宵の名曲・音楽の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする