2011年05月28日

音楽の話45 ブラームス歌曲「まどろみはいよいよ浅く」について 2011.05.29

 先日取り上げた「歌の調べのように」op105-1と同時期に作られた歌曲、あの美しきアルト歌手ヘルミーネ・シュピースに捧げられた名歌曲「まどろみはいよいよ浅く」op105-2を紹介しましょう。この二曲は性格のまるで違う好一対の歌曲と言えます。「歌の調べのように」は明るく活発で一寸蠱惑的な乙女の風情を描いた曲です。グロートの詩も意味深く見事で若き乙女の香りがそこはかとなく漂っています。反対に「まどろみはいよいよ浅く」は深い悲しみに沈んだ女を著わした曲と言えます。ヘルマン・リングの詩は極めて直接的な表現でそこにロマンの想像性や詩的創造性が足りない気がします。何故ブラームスはこのように取るに足らない詩に歌を付けたのでしょうか。それにはブラームスの詩の選び方に独特な個性があった事が起因しています。ブラームスは詩の芸術としての善し悪しよりも歌を付け易いリズム感のある詩を好んで使っていたようです。その端的な表れは民謡を好んだ事、民謡に曲付けをしたりドイツ民謡集の編纂にも大きな貢献をしました。取るに足らない詩「まどろみはいよいよ浅く」もそのようなブラームスの嗜好には都合のよい詩であったのでしょう。詩から受ける印象よりも何十倍も魅力的なイメージにして正にこの詩を大変身させています。ブラームスにとっては詩より自分の音楽的イメージが大切であり、自分の音楽こそは詩の何倍もの意味を表現できると確信を持っていたのです。

さて「まどろみはいよいよ浅く」ですが、常に悲しみの感情を深く潜行させていきます。二度感情を高ぶらせますが、直ぐそれも萎えて悲しみの中に沈んで行きます。その歌そのピアノ伴奏のどの一音を取ってみても、それは深い悲しみに覆われています。ブラームスもこの女主人公の悲しみに心底共感しています。心底同情もしています。そしてそれはやがてもっと偉大な芸術的境地へと駆け上がって行きます。この悲しみを万人のものとする普遍性を…。その普遍性こそがブラームスの芸術的境地・諦観なのです。

当時、若かったヘルミーネはどうやってこの歌を歌ったのかしらネ。まあ、「歌の調べのように」は地で行けたでしょうが、この歌は恐らく想像を駆使しての骨の折れる歌唱だった筈です。でもブラームスを虜にしたその人その歌唱、とんでもない想像力の持ち主だったのかもね。美しきヘルミーネの写真を紹介したいのはヤマヤマですが著作権があってままなりません。私が絵を上手なら描いてさしあげるのにネ? 残念です。ホントに愛らしく素敵な女性です。

まどろみはいよいよ浅く ヘルマン・リング・詩

わがまどろみはいよいよ浅く、
わが憂いは、ヴェールのように
震えながら、おおいかぶさってくる。
私はよく夢の中できく、
あなたが戸口の外で叫んでいるのを。
誰も皆寝静まって、
戸を開ける者もいない。
私は目を覚まして、
むせび泣く。

そうだ、私は死なねばならないだろう。
私が蒼く冷たくなったとき、
あなたは別の女に接吻するだろう。
五月のそよ風がふく前に、つぐみが森でうたう前に、
もう一度、私に会うつもりなら、
おお、早く来てください!   志田麓・訳詩
posted by 三上和伸 at 18:20| 今宵の名曲・音楽の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする