2011年09月09日

音楽の話52 N響アワー、フォーレのレクイエムを視聴して 2011.09.04放送分

 地デジ化で自分のテレビが観られなくなってからN響アワーを楽しめず、ブログにもその話題が載せられなくなりました。でも今回のフォーレ・レクイエムは何としても視聴したく思い、次女に頼んで録画をして貰いました。ところがその録画したものを観るのにタイミングが合わず中々観られませんでした。テレビ鑑賞の時間は家族誰でも大体同じ夜の時間帯なのでチャンネル権のない私はビデオはあっても観られなかったのです。ウォーキングの時間を削れば何とかなったのですが…、そうもいかず…。それでも昨日、一昨日、先一昨日と細切れですが何とか観る事ができました。そこでその感想を今夜述べたいと思います。

 まずは素晴らしい演奏、感動しました。入祭唱が響くや否や私は南フランスの片田舎の教会に連れ去られました。暗い聖堂に一条の光が差したようにレクイエムの奉献唱(第二曲)は響き渡ります。柔らかくくぐもった音色、バリトンの独唱でさえ柔らかい…、しかしそれは決して混沌と濁っているのではなく透明です。何とも矛盾した言い方になってしまいますが、それ程柔らかく繊細な響きなのです。「聖なるかな」と歌い出されるサンクストゥス(第三曲)、これほど憧れに満ちたフランス音楽が他にあるでしょうか?、ハープの伴奏と弱音器を付けたヴァイオリンが本当に美しい…、夢心地のようです。全曲の白眉、ソプラノ独唱を持ったピエ・イエズス(第四曲)、フォーレの音楽家としての最高のアイデアが迸り出た曲、私は聖母マリア様が歌ってくれているように錯覚しました。哀悼の音楽なのに、私は罰当たりにも幸せ(法悦)を感じてしまいました。永遠の安息を願うアニュス・デイ「神の子羊」(第五曲)とリベラ・メの「我を解き放ちたまえ」(第六曲)、死に行く人間の願望と見送る人の哀惜、それが相俟ってこの音楽としては人間的な色彩を帯びます。生けるもの全てへの共感と憐憫が感じられました。そして最期は天国にて(第七曲)、天使が死者の霊を天国に導きます。優しいフォ−レの優しい音楽、決してがなりたてる事のない静かで奥床しい風情、知性と気品に溢れています。それは受けよう売ろうと言う下心のない精神、そんな清潔な音楽がこの世に存在する事を知るのも大切な経験です。

 最後に、作曲が仕事の解説者はいみじくもこう述べました。「フォーレは誰のためにレクイエムを作曲したのか? それは自分のためである」と。「自分に書いたから、このような素晴らしい曲が書けたのだ」と。正にその通りでしょう。その創作の手前に捧げるべき人がいて、その創作の先に聴衆がいるのです。その作曲の動機は父や母の死でしょう。しかし、自分が好み愛せる自分が聴きたい音楽を書いたのです。偉大な創作家にはそれしかないのです。解説者はそれを骨の髄まで知り尽くしているのです。司会の女子アナは分からないようでしたが…。
posted by 三上和伸 at 22:42| 今宵の名曲・音楽の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする