2012年02月27日

湘南漫歩5-8 早春の海辺巡り・愛宕山と石碑群 2011.02.17

@愛宕山から浦賀湾を望む(中程に東叶神社)
愛宕山からの浦賀港
燈明堂に別れを告げ、元来た道を戻り、今度は分岐を海沿いにとれば、そこは近年開業し出したヨットハーバーで、しかもその背後には白亜の高層のマンションが立ち並び、南フランスかアマルフィかエーゲ海?を何やら想わす異国情緒を醸していました。かつては浦賀ドック一辺倒の城下町であった港湾の町浦賀も、新たな波が寄せ、新しい顔が出来上がりつつあります。そしてそのマンションと言うのが、確か以前、横須賀出身の某有名若手俳優が高層階から落下する事件が起きたところであり、当時何度となくテレビニュースに登場していたものです。まあ、兎にも角にもその前を通過し、旧・紺屋町界隈に到達しました。

A咸臨丸出航の地の碑と中島三郎助の碑、そして与謝野夫妻の歌碑
咸臨丸の碑 
今回は残念ながら、私とした事が浦賀奉行所跡の川間地区を訪ね損ねました。幕末の開国の歴史に大きく係わったこの重要ポイントを私は外してしまいました。と言うのも、父の生まれ故郷であるこの浦賀川間地区は、私にとっても幼い日に慣れ親しんだ土地、しかし何故か心が騒ぎ、足を踏み入れられませんでした。恐らく変貌が怖かったのかも知れません、昔のあの大切な思い出が消えてしまいそうで…。臆病な私は失望するのが怖かったのでした。

その代わり、かつて一度も登った事のない愛宕山に登りました。ここは石碑の宝庫であり、歴史上名高い時事とそこで活躍したそれぞれの人物達を思い偲ぶ事ができます。先ずは、咸臨丸出港の地の碑(昭和35年建立)。品川沖を出発した咸臨丸は、ここ浦賀で準備を整え、1860年1月19日、アメリカへ出帆したのです。咸臨丸は、日米修好通商条約批准書の交換のための米軍艦・ポーハタン号を護衛する目的で、勝海舟や福沢諭吉、ジョン・万次郎などの日本の俊英を乗せ、日本船として初めてサンフランシスコまで、太平洋を横断したのでした。

そしてその咸臨丸を修理した事もある、元浦賀奉行所与力の中島三郎助の碑(明治24年建立)。中島は後の浦賀ドックの基礎を築いた事でも名高い幕末の志士です。剣術や砲術に長け、造船などの機械技術にも明るく、才気ある傑物であったと謂われています。佐幕派であり、最期は戊辰戦争の函館五稜郭で無念の討ち死にをしました。

そしてさらに与謝野寛(鉄幹)と晶子の歌碑(昭和59年11月3日建立)があります。昭和10年の3月3日に与謝野夫妻と同人の方々は観音崎、浦賀、久里浜へ吟行の旅をしたのだそうです。その時詠まれた歌が石碑に刻まれています。尚、この月の26日に鉄幹は没しました。恐らく、以下の歌は鉄幹の白鳥の歌(最期の)…。

参考までに、以下の歌が碑に刻まれています。

黒船を恐れし世などなきごとし浦賀に見るはすべて黒船 寛(鉄幹)

春寒し造船所こそ悲しけれ浦賀の町に黒き鞘懸く 晶子

posted by 三上和伸 at 23:25| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする