2019年11月11日

音楽夜話 ブラームスの信念 2019.11.11

先日、19世紀に始まった日本とオーストリアのお付き合いに、ウィーン在住の作曲家がある程度の関わりを持ったと申しましたが、その折り、作曲家ブラームスとその他の作曲家による対立について少し触れました。何故、ブラームスが孤立をして、他の作曲家達とそりが合わなかったのか、説明致します。

ベートーヴェン・シューベルト亡き後の19世紀のドイツオーストリアの音楽界には、二つの潮流ができました。一方が保守的なメンデルスゾーン・シューマン派、片方が革新的なリスト・ワーグナー派でした。遅れてやって来たのがブラームス(20歳年少)であり、シューマンに見出されたが故に、保守派の仲間入りとなりました。ところが、メンデルスゾーンとシューマンが早死にしたために、直ぐに保守派の頭領に押し上げられてしまいました。音楽界はワーグナー派とブラームス派が対立する形となり、それはワーグナーが死ぬまで続きました。ワーグナーがオペラ・楽劇を得意とし、新しい音楽・標題音楽を目指したのに比べ、ブラームスはワーグナーがやらない、その他の伝統的な絶対音楽のジャンル全てを担いました。ワーグナーが死んだ後、ワーグナー派の残党がブルックナーを担ぎ出し、ブラームスと対抗しましたが、所詮、役者が違い、ブラームスが死ぬまで、ブラームスが第一人者となり、欧州音楽界に君臨しました。

ブラームスには絶対的な信念がありました。それは少年時代に培ったもので、その核心は、ゲーテやシラーの大芸術家の箴言(しんげん、いましめ・教訓・格言)でした。「大衆の温和な反応は、中庸な芸術家にとっては励みになるが、天才にとっては侮辱であり、恐ろしいものだ」(ゲーテ)、「真の天才は、時として他人の賛辞で、慰めを見出すこともあるが、想像力に溢れる感情を得れば、直ぐにそのような松葉杖にすがる必要がなくなる」(シラー)。結論は、”芸術に精通していない大衆に阿る(媚びを売る)ような作品は書いていけない”と言う意味が籠められています。売らんがための良心を売った芸術は、くだらないものだから、書いてはいけないと、ゲーテやシラーは言っているのです。ブラームスはそれに忠実でした。ですからブラームスはリスト・ワーグナー派を嫌ったのです。彼らの大向こう受けを狙ったパフォーマンスを心底馬鹿にしていたのです。

ブラームスはウィーンの奨学金制度の審査員をしていた時期があります。ドボルザークを始め多くの若い作曲家(後の哲学者・ニーチェもいました)が応募してきました。当時ブラームスは作曲の良し悪しを見極める権威だったのです。そこで多くのパフォーマンスを狙った楽曲を落選させていたのです。それに業を煮やしたワーグナー派がブラームスに対抗するため、音楽評論を生業としていたフーゴ・ヴォルフにブラームスの作品をこき下ろさせたのです。それには一時ワーグナー派の面々も溜飲を下したのでした。しかし、歌曲の天才だったフーゴ・ヴォルフは精神を病み、ブラームス批判は下火となりました。憎しみを持ったフーゴ・ヴォルフはブラームスの真実に目を瞑り、耳を塞いだのでした。ブラームスは、敵対したのではなく、”詰まらないものは書くな”と警告していたのです。

大衆迎合の芽があることを、ブラームスは直感で悟り、そう言った作品を拒絶したのだそうです。ブラームスのリアリズムの信念は、ゲーテとシラーの意思を受け継いだものなのです。

それでもそこから生き残った作曲家は少なからずいます。ブラームス批判の急先鋒であったフーゴ・ヴォルフ(歌曲)、グスタフ・マーラー(シンフォニー)、アルノルト・シェーンベルク(無調・十二音技法、ワーグナー・ブラームスの両方に理解を示す)などです。

参考:三宅幸夫・ブラームス
posted by 三上和伸 at 18:59| 音楽夜話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする