2008年05月16日

今宵の名曲この一枚7

 今宵の名曲ー7
 シューベルト 歌曲集「冬の旅」全24曲D.911 ヘルマン・プライ(バリトン) カール・エンゲル(ピアノ)
 青春の慟哭 不滅の歌曲
 シューベルトが生きた19世紀初頭のヨーロッパは、フランス革命の余波に揺れる不安定な社会情勢の中にありました。シューベルトが住むウィーンも不穏な空気が漂い、革命分子の弾圧が日常化し決して住み良い都ではなかったようです。また、当時は産業革命の真っ只中にあり、若い職人の放浪の旅に依り成り立つ修行の制度・マイスター制が崩れ始めていました。大規模な工場生産が起こり、職人達は旅を捨て都市に留まる事を強いられ、工場労働者として働かざるを得なくなりました。そして、職人の技と誇りを失い掛けていたのです。
 そんな矛盾に満ちた暗い世相の中、閉塞感や焦燥に苛まれる若人達の心情を、詩人ウィルヘルム・ミュラーは一人の青年(自分自身かもしれません)の孤独な心の旅として詩集「冬の旅」を著し、表現しました。この詩物語は確かな職もない、しかし放浪せずには居られない青年の失恋から始まります。

 ある町で美しい娘に出会い恋をした青年は、幸せの絶頂にありました。ところが計算高い娘は、町の金持ちの所へ嫁に行くと言出だし、青年を裏切りました。思いが叶わぬ青年はいたたまれず町を飛び出し、真冬の原野を彷徨います。そこは正に雪と氷の世界、青年は町に住む娘に未練を残しながらも、厳しい冬の旅に旅発つのです。そしてある時は性懲りもなく娘を想い甘い追憶に溺れ、またある時は己が境遇に怒り心頭に達し恨み辛み述べ立てます。しかしどれもこれもどうにも成らなくなると、世をはかなみ慟哭し、無念の涙を流すのです。やがて青年は絶望し厭世観に取り付かれ、そこに死の誘惑が忍び寄ります。生か死か、激しい葛藤が起こります。勇気を振り絞り生きようするが、心は直ぐに萎えて死に憧れる、ギリギリの所まで追い込まれて行ったのです。しかしその時、苦悶する青年の前に辻音楽師なる老人が現れたのです。彼は見るからにみすぼらしく、かじかんだ指でオルゴールを廻します。その足に靴はなく素足のまま氷の上をよろめいて歩いています。そして投げ銭の皿には一銭の金も入っていません。誰一人そのオルゴールを聴く者はなく、彼を見る者すらいないのです。ただ野犬どもが老人の周りを取り囲みうろついているのでした。この時、青年は想いました。「ここに仲間がいた、自分よりも辛い人がここにいた。僕は世界一の不幸者ではなかったのだ。」青年は微かな連帯感を覚え、この旅で初めて人の温もりを感じたのです。そしてそこに、生きる希望が見え始めたのでした。
 
シューベルトは以上の内容の詩に曲を付けました。それはシューベルト最晩年の1827年(前半の12曲)と28年(後半の12曲)の事です。死を目前にして生を間に合わせるかのように一気に、そして完璧に書き上げたそうです。因みに後半の12曲の出版はシューベルトの死後に行われました。
 シューベルトはこのミュラーの詩に深い共感を覚えていました。それはシューベルトもこの時代に生き、同じ空気を吸い、同じ悩みを抱えていたからでしょう。しかもこの時、シューベルトは不治の病に侵されていたのです。シューベルトは強い思い入れで、この主人公を音で描写します。それはあたかも己の運命に重ね合わせるように描き、この主人公に愛を注ぎます。そしてその愛は時代を超え地域を越えて、21世紀の私達にも届くのです。その力強さこそが大芸術の証であり、技と魂の真価なのです。「冬の旅」それは正に不滅の歌曲です。

 バリトンのプライは見事に「冬の旅」を歌いこなしています。彼の明るい声と真摯な歌への取り組みはこの歌曲の主人公にぴたりと重なります。それは鮮烈な驚きを与えてくれます。
posted by 三上和伸 at 22:59| 今宵の名曲・音楽の話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする