“お伊勢参り”や“京詣で”と言う、庶民の空前の旅ブームに乗っかって描かれた東海道五十三次。その東海道の十七番目の宿場街が由比(由井)でした。歌川広重はこの由井を描くに付けて、この宿場から暫く京に向かった先にある箱根に次ぐ東海道の難所、由井・薩埵(さった)峠から望む富士を選びました。
その昔の由井には、薩埵峠越えの道はありませんでした。南アルプスが駿河湾に雪崩込んで切れ落ちるのが由井の断崖海岸、そこにあるのは道ではなく、岩礁の渚でした。その東海道を行く人々は、この岩の渚をピョンピョンと飛び越えて行かなければなりませんでした。海が荒れれば通行不能、あの日本海北国街道の“親知らず・子知らず”の断崖海岸に因んで、ここは“東海道の親知らず”と謂れ恐れられてきました。そこで江戸期になると東海道の整備が行われた際に、この由井も整備の対象に上がり、山を巻く新しい東海道が出来ました。それがこの薩埵峠越えの道です。喘ぎながら登った峠、そこに開かれた雄大な富士の姿、登った誰しもが大いなる感動で心震え涙したと謂われています。

写真左手の森の中に僅かに道らしきものが見えます。これが薩埵峠越えの東海道です。現在は車も通れますが、当時と変わらぬ位置にあるそうです。ここも歴史の道ですね。私達はあの道を登った(上った)のですよ、但し車で…。何とその時の運転手が我が妻で、私と夏子はただただ励ますだけ! でもね、沈着冷静なこの人だったから無事通過できたのです。この絶景を拝め、美味しい桜えびも胃袋に入れる事が出来たのです。ありがとう、御苦労さま! 私でしたら、絶叫で、駿河湾の渚(左から東海道線線路内、一国、東名道道路内)に転落していたでしょう。桜海老の餌になったりして…。
この景色の唯一最大の傷は渚の文明の刻印。それでもこれが良いか悪いかを論じる積もりはさらさらありません。私達だって眼下の東名高速を利用してこの峠に立っているのですから… されど、江戸人達のように、絶景を前に、感涙に咽び歓喜の絶叫を上げる事は、最早出来ないでしょう。それが罪と罰? 大きな代償は当然…
広重の浮世絵には海に沢山の帆掛け船が浮いていました。ありました、現代でも…、帆は小さいですが可愛い漁師舟が…。私は遠く、江戸の世に思いを馳せました。そんな麗らかな日和でした。

山と言えば富士、でもその脇に富士の足下を支える(富士の三足、愛鷹山、足柄山、足和田山)山があるのをご存知ですか? これがその一つの愛鷹山。活動を停止した死火山で、大凡、九のピーク(峰)がある低いが大きな火山です。登山道もあり、第一級の眺望を有する山だそうで、まず、北に富士山、東に箱根山、南に伊豆半島と駿河湾、遠くに太平洋。そして西に日本の屋根・(南)アルプス、想像しただけでも鳥肌?が立ちますね。