2021年10月25日

音楽歳時記 ブラームス交響曲第4番初演の日(1885.10.25) 2021.10.25

ブラームスの第4交響曲は、第1交響曲のように、長い年月を掛けたものではありませんが、少なくともその数年前から着想を持ち、計画を立てていたようです。当時読みふけっていたギリシャ悲劇にも影響を受け、当時までヨーロッパで起こった多くの戦争・紛争を顧み、戦争と平和を想い作曲されたようです。

ブラームスは若い頃から、音楽史上に成すべき道を模索していました。西洋音楽はバロック期から隆盛を極め、古典・ロマンへと変遷を重ねてきました。ところがブラームスが活躍を始めたロマンの時代は、受け狙いの虚飾に満ちたエンターテイメントが持て囃されるようになり、ソナタもバリエーションも衰退していました。華美に偏り、表面的な効果ばかりが追い求められていました。古典復興を願うブラームスは、当時の作曲家とは袂を分かち、過去の偉大な音楽を学び直し、そこに新しい可能性を見付け出したのでした。バロックのバリエーションと古典のソナタを多用し、確固たる形式美と人間的な精神の表出を両立させたのでした。ブラームスの価値は何だ?と問われれば、節度を守った形式の中に、人間の善意と優しさを籠めたことです。アカデミックだけで無い、人間本来の優しさが全作品に籠められたことです。

交響曲第4番ホ短調は、そんなブラームスの思いが100%表された曲です。四つの交響曲の中で、私が一番に挙げるブラームスの最高傑作の一つです。古典とバロックを見詰め直し、ソナタ(1・2・3楽章)とバリエーション(第4楽章、バロックに多く見られるバリエーションのシャコンヌのフィナーレ、バッハから主題を借用したバッハの主題による変奏曲)で作られた交響曲です。第1楽章は戦争の悲惨、第2楽章は葬送行進曲、第3楽章は喧噪と第4楽章への繋ぎ、第4楽章は平和への希求と人間への絶望、虚無と諦観が溢れます。但し、フィナーレは力強く感動的です。それはどんなに悲しくとも人間への励ましに溢れています。傑作の中の傑作です。

1885年のこの日、ドイツのマイニンゲンで、初演されました。ブラームスの指揮、マイニンゲンオーケストラの演奏でした。聴いても解らなかった人が多くいたそうです。そう、地味でありますし、複雑で難解でしたからね。でも百回聴いて、一回でも解れば好い音楽です。解った時は、あの第九と同じような感動があると実感するでしょう。明の第九と暗の第四、第九と並んで、交響曲史上の宝です。
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2021年10月23日

音楽歳時記 ベルナルド・ハイティンク亡くなる 2021.10.23

一昨日の10月21日に亡くなりました名指揮者ベルナルド・ハイティンクはオランダ生まれの指揮者で、ヨーロッパやアメリカで活躍しました。日本にも数回訪れまして、素晴らしい演奏を繰り広げました。一昨年に引退したばかりで、悠々自適の生活の中で、齢92歳にして亡くなりました。ネットでも報道されまして、その存在の大きさが知れます。

特に素晴らしいのがブルックナーの交響曲演奏で、ブルックナーの権威として存在していました。私の持っているブルックナーの交響曲全集では第0番から第9番までの全てが収まっていまして、時より聴いてきました。ブルックナーの交響曲は、晩年の7番(ホ長調)・8番(ハ短調).9番(ニ短調)が素晴らしく、キリスト教の神が創った宇宙(世界)を表現する絵巻物的な交響詩でした。それをものの見事に表出したハイティンク、キリスト教への深い信仰の証です。

ベルナルド・ハイティンク指揮、ブルックナー交響曲全集、世界最高のオーケストラの一つドレスデンシュターツカペレの演奏でした。

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2021年10月21日

音楽歳時記 ショパンコンクール、日本人二人入賞 2021.10.21

長らく名ピアニストを誕生させてきたショパンコンクール、2021年は日本人の二人のピアニストが受賞しました。日本人の演奏の特徴は正確性、勢いに任せて弾くのではなく、緻密に丁寧に表現をします。良く日本人は手先が器用であると言われています。しかしそれは、正しく日本人の特性を判断した言葉ではありません。細部に光を当て、その全容を丁寧に表現していく、それは日本人の職人の世界からも受け継いだものです。ピアノ芸術の音響のすばらしさを漸く会得してきた新世代ピアニストたち、ヤマハではなくスタンウェイを弾いて入賞した二人のピアニスト、先ずは世界音楽の奥義を極めたのは演奏家でした。ヤマハよ、音に対する執念が足りない、現時点ではスタンウェイの王座は揺るぎが無かったですね。二人のショパン演奏、素晴らしい音鳴りでした。
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2021年10月17日

音楽歳時記 フレディリック・ショパンの忌日 2021.10.17

フランス人の父とポーランド人の母を持って、ワルシャワ近郊の村で生まれました。貴族の末裔であった母はピアノを持って嫁入りしたので、ショパンは生まれながらにピアノの傍で生活しました。演奏以前に殊更、ピアノの音が好きだったようで、何時もピアノの下に潜り込んで、微かに響く音鳴りを楽しんでいたという逸話が残っています。ショパンのピアノ人生はこの頃から始まっていたようです。

パリで社交界に交わり、マリー・ダグー伯爵夫人(リストの愛人)のサロンで、ジョルジュサンドと出会いました。暫くすると愛人関係となり、やがて一緒に住むようになります。この愛人関係は、サンドの子供との軋轢を生み、ドロドロとした愛憎劇となります。しかしサンドは病弱なショパンを良く支え、数限りないピアノ曲の創作を支援しました。今日、数多のショパンの名曲が聴けるのは、サンドのお陰があるかも知れません。

最後はサンドとも別れ、鬱病を発し、経済苦もあり、病状(肺結核とも言われる)を悪化させます。1849年のこの日(10月17日)の午前2時にショパンは亡くなりました。39歳でした。
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2021年10月12日

音楽歳時記23 サントリーホール開場 2021.10.12

1986年のこの日、日本初のクラシック音楽専用ホールのサントリーホールが開場しました。これはカラヤンの意見を参考に設計され、舞台を囲むように摺り鉢状に客席が設えられたヴィンヤード型ホールです。私は着いたことがありませんが、舞台の後ろ側に座れば、指揮者の顔は観えますが、演奏者は全て背を向けています。出る音楽に違和感は無いと思われますが、チョイと不思議な感覚はありますね。嘗て私はここで、小泉和裕指揮で東京都響のブルックナーの第7シンフォニーを聴きました。その素晴らしい音響は今も耳奥に残っています。ブルックナーは正に音響の交響楽作家、人は様々に論評していますが、エンターテイメント性に本質があります。その情熱に鼓舞されるのではなく、音響に酔い痴れるのです。

開館公演はヴォルフガング・ザヴァリッシュ指揮のN響だったそうです。


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2021年10月06日

音楽歳時記22 ファドの女王・アマリア・ロドリゲス忌日 2021.10.06

ファドはポルトガルの歌謡曲、その女王と呼ばれたアマリア・ロドリゲスの忌日が今日この日です。1999年のこの日に、アマリアは79年の生涯を閉じました。死去した際、ポルトガルは三日間の喪に服しました。それ程、愛されていたのです。

ポルトガル語の抑揚を捉えた歌いまわし、独特の小節(こぶし)が切れを増します。良く通る声で、様々な人生を語り歌います。正に正真正銘の歌姫と言って良いでしょう。一国に唯一人の歌姫。今、妻がポルトガル旅行で買ってきてくれたこの歌姫のCDを聴いています。久方ぶりで、アマリアの歌声に酔い痴れています。ブラボー!
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2021年08月22日

音楽歳時記21 ヘンデル「メサイア」書き始める 2021.08.22

オペラやオラトリオ(声楽(独唱・合唱)と管弦楽で書かれる演奏会形式で上演される歌物語)を作曲したバッハに並ぶバロック音楽の大作曲家です。無駄な深刻さを現さず、歌に独時の美しさを持った作風を示しました。私はバッハより美しい音楽を書いたと思っています。その最大傑作(オペラに多くの作品がありますが、大半が一般的に普及していません)がこのオラトリオ「メサイア」です。テキストは「聖書」と「英国国教会祈祷書」の詩編が採用されており、イエス・キリストの生涯を扱ったものです。ドイツ生まれのヘンデルですが、イギリスに帰化しており、言語は英語です。ヘンデルはこの曲によって己の宗教観を露にしています。ヘンデルは速筆で、この2時間半の大曲を僅か24日間で書いたと記録されています。途轍もない天才でした。一番有名なのが「ハレルヤコーラス」です。誰もが興奮して、スタンディングオベーションをしてしまう希代の名曲です。
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2021年08月04日

音楽歳時記20 モーツアルト、コンスタンツェと結婚 2021.08.04

1782年のこの日、26歳のモーツアルトは20歳のコンスタンツェ(ソプラノ歌手)と結婚をしました。悪妻と名高いコンスタンツェでしたが、実はこれは後年の研究者の悪意あるこじ付けだったようで、浪費癖はコンスタンツェより、モーツアルトの方が甚だしかったようです。

女癖のあったモーツアルトは初め結婚の相手はコンスタンツェの姉と決めていたようでしたが、事はうまく運ばず、結局手近にいたコンスタンツェと結婚したのでした。それでもモーツァルトはコンスタンツェを気に入り、大変に愛していたようでした。

モーツァルトの死後、遺児を育てその上、他人と再婚しましたが、これがコンスタンツェ悪妻の根拠となりました。しかしそれは、生活のために、程よい再婚相手を探したのであり、夫の手伝いもあり、モーツアルトの遺作を世に広め、モーツアルトの著作権を守る活動もしていました。コンスタンツェは長命であって、80歳まで生きました。

婚礼はウィーンのシュテファン寺院で行われました。モーツアルトの葬式もここで行われています。
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2021年05月20日

音楽歳時記19 クララ・シューマンの忌日 2021.05.20

19世紀のドイツの女流ピアニスト。若き日は、モーツァルトやベートーヴェンを得意とし、R・シューマンと結婚してからは、シューマン演奏の権威となりました。シューマン亡き後、年下のブラームスと盟友となり、19世紀ドイツ音楽の黄金期を創りました。巨匠性のF・リストなどとは対極にある良識派の当代随一の名ピアニストでした。辣腕のピアニストであったブラームスでさえも、「クララは手の筋肉と関節の柔らかさ、それに指の腹の弾力が凄い、私などとても敵わない、素晴らしい音を紡ぐ」と言わしめた無敵なピアニストでした。

クララは1819年の9月13日にドイツ(ザクセン王国)のライプツィヒで生まれました。父親は高名なピアノ教師のフリードリヒ・ヴィーク、母親は歌手でした。娘クララの才能に目をつけたヴィークは、娘を売り出して一儲けしようと企み、執拗にピアノを学ばせ、一世一代の女流ピアニストに育て上げました。クララは、5歳からピアノを始め、9歳でゲヴァントハウスでモーツァルトのピアノ協奏曲のソリストを努めました。それからは多くの貴族や知識人、それに芸術家の前で古典の名曲を弾き、あの最晩年のゲーテもクララのピアノのファンでした。その頃、シューマンが住み込みで、ヴィークの弟子になり、毎日クララと顔を突き合わせていました。当然、恋が芽生え、ヴィークに反対されても恋を貫き、父と裁判で争っても、それに勝ち、二人は結婚したのでした。クララ二十歳、シューマンが三十歳の時でした。

結婚後のクララは相次いで妊娠をし、8人の子の母親になりました。それでもその合間を縫って演奏活動をし、家計を助け、超多忙な生活を送っていました。やがて夫のシューマンの精神が病み出し、不安な日々が続きました。その時、シューマンとクララの前に若き(20歳)ブラームスが自作を携えやって来ました。クララは夫と共にブラームスのピアノ(ピアノソナタなど)を聴き、強い感銘を受けました。シューマンの作曲はどちらかと言うと、産みの苦しみで悶えるタイプで、クララは「作曲とは苦しみの中で産み出されるもの」と理解していましたが、ブラームスは歓喜を持って易々と曲を創り出していました。クララもシューマンも、これこそが天才であると悟り、ブラームスに希望を見い出し、ブラームスに肩入れして行くのです。

シューマンの死後、クララとブラームスは親しい関係になりました。それが何処まで上り詰めたかは確証がありません。精神だけかも知れないし、肉体もあったかもしれない。でもそんな事はどうだって良いでしょう。私が思うには、この交友はクララが死ぬまで続いたのですから、最早家族同然と言って良いでしょう。男女の関係があったとしたら、家族ぐるみの付き合いなんか出来なかった事でしょう。そしてクララが最も愛していたのが残されたシューマンの作品たちでした。シューマンのピアノ曲はクララへの愛が封印されています。それを真から知っていたブラームスは、恋愛感情だけでなく、この夫婦に、深い尊敬の念も持ち合わせていたのです。1896年のこの日、クララはフランクフルトで没しました。ブラームスもそれから一年後にクララを追うようにウィーンで死にました。ブラームスの音楽にはクララの声が木霊しています。音楽とは気高いもの、そうクララは語っています。
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2021年05月07日

音楽歳時記18 ブラームスの誕生日 2021.05.07

19世紀のロマン派にして新古典主義者の作曲家ヨハネス・ブラームスは、北ドイツのハンブルクに生まれました。ベートーヴェンが死んでから6年後の1833年の5月7日の事でした。ブラームスのルーツは、ハンブルクより更に北の町ハイデにあったとされます。ここはデンマークのユトランド半島の付け根に当たる所で、正にドイツ低地の湿原地帯にありました。北海の怒涛や風、湿原の霧や雨に花の香、そして鬼火、そんな自然の荒野がブラームスのルーツです。勿論大都会ハンブルクの貧民街で生まれたブラームスですから、年中、湿原を訪ねたりはしていませんが、祖父の故郷ハイデは時より訪ねた事でしょう。ブラームスの音楽には、ここ低地ドイツの香りがします。(写真やどなたかの旅行記でしか知り得ませんが…)

人種的には勿論ドイツ人でしたが、ブラームス(Brahms)の名からして、その祖先にはユダヤやケルトの血が混ざっていたと思われます。宗教はルター派のプロテスタントで、生まれて直ぐに洗礼(聖ミカエル寺院)を受けました。そして聖書を与えられ、それは生涯のバイブルとなりました。敬虔なと言うよりも、科学的な猜疑心で宗教を考え、闇雲な信仰はありませんでした。冷静沈着な宗教心で、聖書から多くの言葉を選び、楽曲のテキストとして使いました。聖書はブラームスの思想と人間性の大半を形作ったと思われます。

金髪で青い瞳、背は低かったようですが、その美男降りは有名で、後年の厳つい髭親父とは全く別人の趣があります。大変にモテたそうで、次々と恋はしましたが、老年の母親を持つ身のマザーコンプレックスからか、結婚は出来ず仕舞いで、ベートーヴェン同様に、ブラームスの血は残せませんでした。まあ、一族唯一の天才として、決定的な成功を修めたのですから、良しとしましょうかね。

貧乏なコントラバス奏者の長男として生まれ、父親から楽才を認められ、貧乏ながらも、優秀な教育者を見付けて貰い、最上の教育を施されました。10歳代でピアノ技法を極め、演奏会にも出ていました。興行師にも目を付けられ、スカウトもされ、アメリカに渡る話もありました。しかし、それを師匠に止められ、作曲法も学び始めました。ソナタ・ヴァリエーション・フーガなどの古典を学び、対位法を極め、折り紙付きのプロの作曲家に成長しました。孝行者で、貧しいブラームス家の家計の一部を、歓楽街のピアニストのアルバイトで補いました。そこは煙草の煙と酒の匂い、そして游女の誘惑もありました。美男子だったブラームス、女が放ってはおかなかったはずです。
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音楽歳時記17 ベートーヴェン第9初演の日 2021.05.07

7年の歳月を掛けて完成したベートーヴェンの交響曲第9番ニ短調「合唱付き」Op.125が初演されたのが、1824年のこの日です。

ベートーヴェンの交響曲は奇数番号(3番・5番・7番・9番)が英雄的(男性的)な作風で、偶数番号(4番・6番・8番)が牧歌的(女性的)な作風を示しています。しかも、5番(67)・6番(68)と7番(92)・8番(93)の作品番号が隣通しで、対で作曲された形跡があります。男(英雄的)と女(牧歌的)がペアを成して、故意に硬と軟に分けられて作曲されたのです。

最後の硬(第9)と最後の軟(第10)を書こうと思っていたはずですが、第9と同時に大曲の「ミサ・ソレムニス」を作りかけていたベートーヴェンには、もう第10を書く余裕はなく、第10はミサ・ソレムニスに代わってしまったのでした。

第9を書く時点で、自らの最高傑作は「英雄」と称していましたが、それよりも尚素晴らしい、第9を完成させました。第9こそ、あらゆる交響曲の最高の傑作、高らかに世界平和を歌う別格の人類の宝です。
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2021年04月07日

音楽歳時記16 ベートーヴェン「英雄」初演の日 2021.04.07

ベートーヴェンが尊敬するナポレオン・ボナパルトをイメージして書いた交響曲。大荒れのフランス革命に翻弄されたヨーロッパでしたが、ベートーヴェンは英雄交響曲を書いて、フランス革命を総括しました。

生前(第五・運命を書いた後)に、「一番の自信作は?」と問われたベートーヴェンは、即座にこの英雄を示しました。「第五では無いのですか?」の問いにも、断固として英雄を上げたそうです。この先「第九」を作りますから、その時は「第九」と答えたでしょうが、この時点では、何と言っても「英雄」だったそうです。従って英雄は、ベートーヴェンの2番目の傑作と言う事ができますね。

ソナタ形式の権化の第1楽章、葬送行進曲の沈痛な響きが胸を締め付ける第2楽章、狩りの雰囲気が横溢する第3楽章、変奏曲の名人・ベートーヴェンが残した雄大なバリエーション・フィナーレ、全楽章、文句なく英雄的であり、巨大な傑作です。

私的(非公開)には1804年の12月に演奏されましたが、公的(公開)には1805年の4月7日に、ウィーンのアン・デア・ウィーン劇場で初演されました。


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2021年04月06日

音楽歳時記15 瀧廉太郎、ライプツィヒ音楽院を目指し出発 2021.04.06

「荒城の月」や「花」などで有名な西洋音楽黎明期の作曲家・瀧廉太郎が、ドイツのライプツィヒ音楽院を目指して、ドイツへ旅立った日が1901年のこの日でした。ブラームスが死んでから4年目の春でした。才能に恵まれていた廉太郎の「荒城の月」はドイツでも認められ、ベルギーの讃美歌にもなった記録があるそうです。メンデルスゾーン開校の音楽院で、5カ月の研鑽を積みましたが、肺結核を患い、志半ばで帰国を余儀なくされました。1903年の6月29日に、故郷大分で亡くなりました。

*ライプツィヒ音楽院
1843年に大音楽家・フェリックス・メンデルスゾーンに依って開校されたドイツで初めての音楽大学です。メンデルスゾーンが死ぬまで院長を務めていました。ロベルト・シューマンも一時、教授を務めました。

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2021年04月04日

音楽歳時記14 ピエール・モントゥー誕生日 2021.04.04

少し古い指揮者の話ですが、フランスの名指揮者に、ピエール・モントゥーがいました。1875年の今日に生まれ、亡くなったのが1964年7月1日でした。1911年から有名なバレエ団・ディアギレフのロシアバレエ団の指揮者を務め、ストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」、「春の祭典」、ラベルの「ダフニスとクロエ」、ドビュッシーの「遊戯」などのバレエの初演を振りました。超難曲の初演の指揮をする事は、並大抵の事ではなったようですが、見事にその重責を果たしたそうです。若い頃にはブラームスに会って、ブラームスの前でヴァイオリンを弾いたそうです。それがモントゥーの生涯の誉れで、人に語っていたそうです。

生粋のフランス人には珍しく、生涯、ブラームスの音楽を愛し、交響曲第2番ニ長調op.73を指揮するのが最大の楽しみだった男でした。後進の指導もシッカリやって、ネヴィル・マリナー、アンドレ・プレヴィン、デイヴィッド・ジンマンなどの名指揮者を育てました。臨終の時が泣かせます。N・マリナーが駆け付けた時、「死んであの世に行ったら、ブラームスに謝らなくてはいけないんだ。『何度やっても上手く弾けなくて、すいません』と…」と言い残し、ドイツレクイエムのスコアをしっかり抱きしめて死に臨んだと言う事でした。私には解ります、その気持ちが…、私が死んだら簡単な葬式で好いから、「ドイツレクイエムの第4楽章『あなたの住まいはなんと気持ちのいいことでしょう』を、リピートで流し続けて欲しい」と頼もうと思っています。
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音楽歳時記13 ピアノ調律の日 2021.04.04


音叉・A=440Hz
音叉 A=440Hz
音名A(イ)は音階の基準とされています。ピアノ鍵盤の順では49番目で、その周波数は440Hzと決まっています。ピアノ調律をする際、49Aを弾き、音叉を鳴らし、その音叉の音程440Hzに弦の高さを合わせます。それを基準に全音の調律をして行きます。 音階内の全ての音の高さを決めるには倍音を使って調律します。

今日はピアノ調律の日。4月はApril、4日は4とすれば、A=440(エイプリルの4月4日)となりますね。ですから今日はピアノ調律の日と言うそうです。

基準音Aの周波数は昔から様々に変化しています。現代ピアノでは、コンサート用は442Hzに調律されていることが多いです。ドイツなどの音楽界ではもっと高く443Hzに調律されているそうです。張力が上がれば、ピアノの音も高テンションになり、華やかな音に変ります。

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2021年04月03日

音楽歳時記12 ブラームスの忌日 2021.04.03

ブラームスドイツレクイエム・ジュリーニ指揮のウィーンフィル
ドイツレクイエムのジャケット
今日はドイツロマン派にして新古典主義の作曲家ブラームスの忌日です。古典のソナタやバリエーション、バロックのフーガやパッサカリアを使い、古き古典の精神に、新たなロマンの情緒を織り込んだ数々の名曲を創りました。思い浮かべれば、何十曲もの作品が浮かびます。どれもが基準を満たした粒選りの名作であり、ブラームスに限って言えば、駄作は一曲も無いのです。これほど充実した曲のラインアップは、他のどの作曲家にも観られないもので、真の天才だったことが判ります。最高傑作は、ドイツレクイエム、第1・第4交響曲、ピアノ協奏曲2番、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ五重奏曲、クラリネット五重奏曲、ピアノ小品・op.116・117・118・119、オルガンの11のコラール前奏曲、歌曲「4つの厳粛な歌」を選ぶことが出来ます。どれもが人生を語る芸術作品として一級品で、クラッシック音楽の一時代を代表する傑作です。ベートーヴェンの英雄主義とは一線を画す、庶民的な平和主義を標榜した人物であり、音楽でした。

ブラームスはハンブルクの貧民街に生まれました。父は若く血気に逸った貧乏なコントラバス奏者で、母は父よりも遥かに年上の婦人で、お針子をして働いていたお婆ちゃんのような母でした。父からは音楽的な野望を、母からは常識人の優しい愛を受けて育ったようです。こう言った母から生まれた男児は、極めてマザーコンプレックスに陥り易い性格を持つと言われており、恋はするが、結婚をしない性質になるそうで、ブラームスの生涯独身の身の上は、この時から決まっていたように想像されます。

幼き日、父の薫陶により、ブラームスは音楽の才能を芽生えさせます。しかしブラームス家は貧乏で、ピアノがありませんでした。父は弦楽器か管楽器の演奏家にさせようとしていましたが、ブラームスはピアノを希望したそうで、父は必至にピアノ教師を探しました。運よく丁度良いピアノの先生・オットー・コッセルを見付け出し、ブラームスに引き合わせました。ブラームスの才能を見抜いたコッセルは、態々ブラームス家の近所に引っ越して来て、ブラームスに自らのピアノを自由に弾かせました。ブラームスの上達は凄まじく、コッセルは自分には手に負えなくなり、自分の師匠に当たる高名なエドワルド・マルクスゼンにブラームスを任せました。後に作曲家・ブラームスが誕生する切っ掛けを担ったのがこのマルクスゼンでした。無償でブラームスを教えたマルクスゼン、古典派音楽を中心にブラームスの芸術観を鍛え上げました。10代になると親孝行のブラームスは歓楽街のピアノ弾きとしてアルバイトをするようになりました。酒と煙草に汚れたダンスホール、ブラームスは不健康な場にいたのでした。それでも悪の道には入らず、ひたすら自らを鼓舞して、音楽に没頭しました。ブラームスの出世の足掛かりになったドイツ各都市ドサ周り旅は、この酒場で出会ったハンガリーのヴァイオリニスト・エドワルド・レメーニと始めたものでした。

20歳の頃、シューマンと出会い、当時の音楽界の現状を知り、シューマンの理想に影響を受け、ブラームスはそれを参考に、曲作りをして行きます。ここから恩師マルクスゼンの教えとシューマンの理想を摺り合わせ、ブラームス独自の理念を築き上げて行きます。この時点でほぼ、ブラームスの音楽の指針が定まったのでした。そこから40年、誰もが作らなかった古典とロマンの融合の芸術音楽、新しい道を選んだブラームス、唯一無二のブラームスの音楽が世に残ったのでした。

ブラームスが死んでから124年、現代の世になって、増々ブラームスの音楽は世に光を投げかけています。静かですが、再びブラームスブームが起こっています。私がそうであったように、世の音楽ファンはブラームスに、新しさを感じ始めています。この音楽こそ人々に幸福を与えてくれます。

今日のこの忌日に臨んで、私はブラームスに対し、音楽の幸福を感謝します。心より冥福を祈ります。

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2021年03月21日

音楽歳時記11 バッハの誕生日 2021.03.21

今日はヨハン・セバスティアン・バッハの336回目の誕生日(1685年3月21日生)です。折しも、ピアノが考案されたのがこの当時だったので、ピアノもバッハと同い年位の年齢を持っています。同年代のバッハとピアノ、されど、バッハはピアノが大嫌いだったそうです。不安定な音色、あやふやなタッチ、誕生間もないピアノは幼稚で、バッハの偉大な音楽には不釣り合いだったようです。

年代的にみれば、バッハはバロック時代の最後に存在した作曲家で、真のバロック様式の音楽を完成させた人でした。対位法を操り、ポリフォニー(多声音楽、幾つもの異なる旋律(動機)を編んで作る音楽)の技法を確立した人です。しかも、あらゆる音楽形式(フーガ、パッサカリア、シャコンヌ、ソナタ、ダンスなど)を試した人で、オペラ以外の音楽ジャンル(管弦楽組曲、協奏曲、クラヴィーア作品、オルガン作品、ソナタなどの室内楽作品、カンタータ、ミサ、オラトリオ、受難曲などの声楽曲作品)を踏破しました。日本では音楽の父と称され、古典・ロマン・近代・現代の音楽に多大の影響を及ぼした作曲家でした。最大のライバルはヘンデルですが、正にロマン派のワーグナーとブラームスの関係に似ていて、ヘンデル(ワーグナー)はオペラ、バッハ(ブラームス)はオペラ以外の全てのジャンルで勝負をしました。

最高傑作は「マタイ受難曲」、次に「ミサロ短調」、現存する200曲(実数は250曲、50曲紛失)のカンタータ、更に「管弦楽組曲4曲」、「平均律クラヴィーア、2巻・48曲」などの飛び切りの名作があります。他の作曲家とはスケールが違います。
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2021年03月20日

音楽歳時記10 イプセン誕生日、グリーグ「ペール・ギュント」組曲 2021.03.20

1828年のこの日が、ノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンの誕生日です。近代演劇の創始者であり、シェイクスピア後の最大の劇作家でした。その代表作に、伝説の国民童話を基にした「ペール・ギュント」があり、イプセン自らがノルウェーの代表的作曲家グリーグに依頼をし、その劇付随音楽を書いて貰いました。その劇付随音楽は23曲ありましたが、グリーグは、その中の8曲を二つの組曲に書き直して、発表しました。どれも美しい旋律が鏤められている傑作で、北欧童話の冷涼な雰囲気が横溢しています。私は、グリーグの音楽の中では、一番好きですね。

第1組曲
1曲、「朝」
朝の爽快なモロッコ海岸の風景が描かれています。

2曲、「オーゼの死」
ペール・ギュントの母オーゼの死、弱音器を付けた弦楽器の悲痛な歌です。

3曲、「アニトラの踊り」
アラビアの酋長には娘がいて、名をアニトラと言いました。名を聞いただけでも想像がつく妖艶な娘でした。アニトラがエロティックな踊りを披露します。クネクネと体をくねらせて…

4曲、「山の王の宮殿にて」
悪魔たちに殺されそうになったペール、危機を脱出して難を避けました。

第2組曲
1曲、「イングリットの歎き」
ペール・ギュントに誘拐された花嫁イングリットの嘆きの歌。ペールはどうしようもない悪党でした。

2曲、「アラビアの踊り」
アラビア風のエキゾチックな音楽、この洒脱な音詩、グリーグはチャイコフスキーに負けない、アイディアを持っていましたね。

3曲、「ペール・ギュントの帰郷」
一財産を築いたペールでしたが寄港の途中で船は難破しました。無一文になって帰郷したのです。

4曲、「ソルヴェーグの歌」
清純な娘ソルヴェーグこそが大切な存在だったのですが、彼女を捨てて放蕩三昧に耽ったペール・ギュント。落ちぶれて帰って死の床に就きます。最後の愛すべき女だったソルヴェーグが、この哀れな男の死に際に、子守り歌を歌ってくれました。万感の思いで歌うソルヴェーグ、深い情念に溢れた清らかな歌でした。

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2021年03月17日

音楽歳時記9 ショパン・第1ピアノ協奏曲初演 2021.03.17

ロマン派のピアノ曲で第1の作曲家は誰?と問われれば、私はショパンを挙げるでしょう。短い生涯ながら、多くの傑作ピアノ曲を作りました。対抗馬としてはシューマンを挙げる事にしましょう。どちらも詩的情緒を持ち、ピアノの音響の美しさや新たなピアノ音楽の可能性を追求した作曲家でした。二人を分ける違いは、そのエンターテインメント性に依ります。人の心と感覚に真正面から入って来るショパン、一寸斜に構えたシューマン、その表現力に若干の差がありました。分かり易さはショパン、より内面を掘り下げた複雑なシューマン、どちらを愛するかは聴き手の趣味によるもの、私はどちらも大好きで、甲乙は付けられません。

1830年のこの日、20歳のショパンが初演したのがピアノ協奏曲第1番ホ短調op.11でした。ワルシャワ音楽院で一緒だった美しい歌手のコンスタンツェ・グワトコフスカの面影が投影されたこの曲、ショパンがオーケストラを扱った貴重な曲で、高い評価を得ました。そのピアノの甘い旋律は正にコンスタンツェへの恋の証、美し過ぎます。ピアノの響きに新たな可能性を見い出せます。ショパンは新しいピアノ音楽を生んだのです。この後ショパンは成功を夢見て祖国を離れ、ウィーン、そしてパリへ向かい、破格の名声を勝ち取るのです。パリ社交界へのデビュー、そこで出会ったジョルジュ・サンドとの恋と同棲、そして死、波乱万丈の生活の果てに多くのピアノ曲の宝が生み出されました。ショパン!讃!



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2021年03月13日

音楽歳時記8 メンデルスゾーンヴァイオリン協奏曲初演 2021.03.13

ヴァイオリン協奏曲はピアノ協奏曲と並んで、多くの作曲家が挑んだジャンルです。バロックから現代に掛けて、多くの名曲が生まれています。ヴィヴァルディ、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、パガニーニ、メンデルスゾーン、シューマン、ヴュータン、ラロ、ブラームス、サン=サーンス、ブルッフ、チャイコフスキー、ドボルザーク、シベリウス、バルトーク、プロコフィエフ、ショスタコーヴィッチなどの名の知れた作曲家が作っています。中でも人気のあるのが、ベートーヴェンのニ長調、メンデルスゾーンのホ短調、ブラームスのニ長調、チャイコフスキーのニ長調、それにシベリウスの二短調などです。特にベートーヴェンとメンデルスゾーン、ブラームス、チャイコフスキーは三大(四大)ヴァイオリン協奏曲と言われて人気のある曲です。その中で、最も気品に満ちた優しいセンチメントがあるメンデルスゾーンのホ短調は、ヴァイオリンの美しさを余すところ無く表現した特別の傑作です。

この曲は、メンデルスゾーンが指揮を執っていたライプチヒのゲバントハウス管弦楽団のコンサートマスター・フェルディナント・ダヴィッドのために書かれた曲でした。名士にして大音楽家のメンデルスゾーンは超多忙な人生を送った人で、このコンツェルトも遅筆で、中々完成されなかったのでした。六年の歳月を費やし、とうとう1844年の9月に完成し、初演は翌1845年のこの日にライプチヒゲバントハウスで初演されました。しかし健康を害したメンデルスゾーンは、指揮棒を取る事が出来ず、副指揮者が代わって初演を務めました。初演は大成功でした。
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2021年03月07日

音楽歳時記7 モーリス・ラヴェルの誕生日 2021.03.07

フランス近代の大作曲家・モーリス・ラヴェルの誕生日が、1875年の今日この日です。音楽愛好家の父の勧めで、ラヴェルは幼い頃から音楽家を目指しました。エリック・サティーの影響もあり、ドビュッシー共々フランスの近代音楽の創出に力を注ぎました。フランスのエスプリ(精神・才知)に富んだ斬新な作風を示し、見事な管弦楽法(オーケストレーション)で名曲を残しました。「ボレロ」・「スペイン狂詩曲」・「ダフニスとクロエ」組曲・「亡き王女のためのパヴァ−ヌ」などが知られています。舞曲が得意でしたね。特筆すべきは、ロシアの作曲家・ムソルグスキーのピアノ版の「展覧会の絵」を編曲して、オーケスロラ版を書いたことで、ムソルグスキーの精神を色彩豊かな管弦楽で表現しました。
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2021年03月04日

音楽歳時記6 チャイコフスキー・バレエ白鳥の湖・初演 2021.03.04

チャイコフスキー・バレエ・白鳥の湖op.20
初演:1877年3月4日 モスクワ・ボリショイ劇場バレエ団

蘇演(蘇らせて演じる):1895年1月15日 サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場バレエ団

ドイツのムゼーウスの童話「奪われたヴェール」を基にして書かれたバレエ組曲。くるみ割り人形と同じく元の話はドイツの童話でした。チャイコフスキー最初のバレエ曲で、初演はなされたのですが、評判が悪く、お蔵入りとなったそうです。しかしチャイコフスキーの死後、蘇演され、評判を取り、バレエと言えば白鳥の湖と言われる名曲となりました。白鳥のテーマは、一度聴けば誰でもすぐ憶えて仕舞うほどのインパクトのある美しい旋律です。この曲に魅了されて、クラシック音楽の門を潜った人は数知れません。私もそうでした。
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2021年03月01日

音楽歳時記5 フレデリック・ショパン誕生日 2021.03.01

ワルツ・ノクターン・即興曲・前奏曲・バラード・スケルツォ・ピアノコンチェルトなど、多くの傑作ピアノ曲を作曲したショパン。1810年のこの日、生まれました。自宅にはグランドピアノがあり、幼いショパンはピアノの音が大好きで、何時も暇さえあれば、グランドピアノの音響板の下に潜り込んで、ダンパーの効きが悪いピアノの反響音を聴くのが好きであったそうです。不思議に入り混じったピアノの音響が、ショパンのピアノ音楽の原点になったそうです。

ショパンにとって大切だったことは、故郷・ポーランドの音楽を世に認めさせることでした。音楽の召使のようにパリの上流階級の中で生き、挫折や不幸を味わった人生でした。ダグー伯爵夫人のサロンで出会った男装の麗人のジョルジュ・サンドとの愛と別れ、後世の私が傍から観ても怪しげで、危なげな愛人関係でした。それでもショパンがあれだけの数の傑作をものにできたのは、間違いなくサンドの庇護があったからだと思われます。しかし何故、ショパンはサンドから捨てられたのでしょうか? 謎ですが、賛美に溢れた絢爛の作曲家人生の陰で、ドロドロの愛憎劇があった事は確かなようです。サンドは余りにもショパンを独占し、所有物として専有化して仕舞ったのでした。別れた後、哀れショパンは直ぐ死の床に就いたのでした。
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2021年02月28日

音楽歳時記4 アンドレ・プレヴィン忌日 2021.02.28

今日は名指揮者アンドレ・プレヴィンの忌日(2019.02.29)です。ベルリンでユダヤ系ドイツ人として生を受けました。勿論、ナチスドイツの影響で、フランスからアメリカへと渡り、アメリカ人の市民権を獲得しました。クラシックとジャズに造詣が深く、ピアニスト(ベーゼンドルファーを弾いていた)で指揮者、それに作曲家としても大成しました。良く日本にもやって来て、N響などと素晴らしい演奏をしていました。特に忘れられないのが、最晩年に来日した時に、指揮棒を振った、ブラームスのドイツレクイエムでした。深い愛着を示した、名演奏でした。

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2021年02月27日

音楽歳時記3 ベートーヴェンの第8交響曲が初演 2021.02.27

1814年のこの日、ベートーヴェンの交響曲第8番ヘ長調op.93がウィーンで初演されました。ベートーヴェン自身が大交響曲と呼んだ第7と同時期に書かれたのが第8交響曲でした。そしてベートーヴェンはこの第8を小交響曲と呼んだのでした。第7と比べると、演奏時間も短く、古典の簡潔化が一層進んだシンフォニーで、音楽の巨大化を目指していたベートーヴェンとしては、ここで伝統的な古典音楽に立ち返り、古典交響曲の総括をして、自身の創作の一里塚としたようです。この後、第9やミサソレムニス、及び大ピアノソナタを書いて、最晩年の巨大趣味を実践して行きます。

全楽章が長調で書かれており、第1楽章が簡素なソナタ形式、第2楽章がスケルツォ、第3楽章がメヌエット、第4楽章がロンドで書かれています。明朗闊達で、胸の空くようなリズムで刻まれています。
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2021年02月26日

音楽歳時記2 ジュゼッペ・タルティーニ忌日 2021.02.26

旧暦睦月の十五 十五夜の月(幾望の月)2021.02.26 19:54
旧暦睦月の十五夜の月(幾望)

1770年のこの日、イタリアのヴァイオリニスト・ジュゼッペ・タルティーニが亡くなりました。タルティーニは初め修道士を目指していましたが、同時に学んでいたヴァイオリン演奏で頭角を現し、激しい訓練の末、名ヴァイオリニストとなりました。多くの生徒を持ち、和声や音響学の権威ともなり、名を成しました。

18世紀バロックのタルティーニを後世に伝えた最大の産物(証拠)は、「悪魔のトリル」と題された自作のヴァイオリンソナタの存在です。特にその悪魔のトリルと言われた部分は、第3楽章のアレグロ・アッサイに3回に亘って現れます。ダブルストップ(重音奏法、高音で二本指を使ってトリルをし、同時にもう一つの旋律を弾く)の激烈な運指をする難曲で、その悲劇性と相俟って、ヴァイオリン曲の傑作と言われています。後年、現代のヴァイオリニスト・フィリッツ・クライスラーに依るカデンツァは特に素晴らしく、名曲を残したタルティーニ、そしてクライスラーの冥福を祈りましょう。
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2021年02月17日

音楽歳時記1 プッチーニ歌劇「蝶々夫人」ミラノスカラ座で初演 2021.02.17

1904年のこの日、日本の長崎を舞台にした、プッチーニの三大オペラの一つの「蝶々夫人」が、ミラノスカラ座で初演されました。東洋の異国趣味を巧みに生かしたプッチーニ・オペラの代表作であり、アリア「ある晴れた日に」はオペラ・アリアの傑作であり、こんな旋律はプッチーニにしか書けないものでした。内容は詰まらない男の裏切り物語であり、結局、蝶々は深く傷つき、子どもを残して死んでしまいます。

*第一幕
軽率で色狂いのピンカートンにぞっこんの蝶々さん、ピンカートンは気紛れで、蝶々さんを誘惑します。長崎の山手の邸宅に、愛の巣を構えます。そして蝶々さんは、難関を経て、異教の外国人と結婚をします。子も身籠り、生まれ、幸せの絶頂を迎えますが、ピンカートンは職務で、アメリカへ帰って仕舞います。

第2幕
アメリカからはピンカートンの別れの手紙が届きました。それでも純情な蝶々さんはピンカートンを諦めきれません。そんな蝶々さんに思いを寄せる男(ヤマドリ)もいて、蝶々さんに求婚をしますが、蝶々さんはピンカートンへの愛に準じて取り合いません。「ある晴れた日に」は、寄港するピンカートンの船に向かって、そんな蝶々さんの純愛に溢れた思いを高らかに歌っています。やがてピンカートンは長崎に姿を現しました。だが新しい金髪の夫人を連れて…。蝶々さんは子供を残し、自殺します。

ある晴れた日
遠い海の彼方に
ひとすじの煙が立ち上り
船が現れる
白い船は港に入り
礼砲を鳴らす

見える?彼が来るわ!
でも私は迎えにいかない
あの丘のふもとで
あの人を待つ 長いこと
どんなに長くても辛くないわ

やがて町の人混みの中から
一人の男が 小さな点のような人影が
丘の方へやってくる

あれは誰かしら?
ここへ来たら何て言うかしら?
彼は遠くから「蝶々さん」て言うわ

私は返事をせずに隠れるの
半分は冗談で・・・ 半分は
会えた嬉しさで死んでしまわないように
すると彼は少し心配になって叫ぶの

「可愛い妻よ、バーベナの香りの」
昔からそう呼ばれていたから

(女中スズキにした台詞)
きっとそうなるわ
あなたに約束できる
だから不安にならないで
私は信じて彼を待つわ

本当の愛を解らない男、悲し過ぎますね。


posted by 三上和伸 at 11:24| 音楽歳時記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする