私は元来、繊細な心で我儘な性格を持ち、人に気兼ねをする人間なので、他人と一緒の旅は苦手です。それで大抵は妻や娘達、そして父母と旅をしてきたのですが、娘達は成人し父も老衰で動けなくなったので、今では妻と二人の二人三脚の旅が多くなりました。二人きりであれば、たとえ旅先で喧嘩をしようとも直ぐに許し合え仲直りができ、そしてそれがより強固な信頼を得る切欠となる事も充分知り得たのでした。これからの人生もこのよき相棒と様々な地を巡り、心に刻みつけられる感動に出会いたいと切望しています。年老いて動けなくなるまで、二人で旅して居たいと思います。
今回は、世界遺産・日光の神仏と文化に触れ山谷の紅葉を愛でる旅を計画しました。そして思いどうり、この地の興味の尽きない風光風土を堪能する事ができました。
1、二荒(山)神社
日光の守り神・男体山を御神体とする山岳信仰由来の神社です。その起源は、勝道上人が男体山(二荒山)の開山を果たした折節であり、この日光の地に祭られました。さらに男体山山麓の中禅寺湖畔に中宮祠があり、男体山山頂には奥宮があります。(日本旅行社、日光案内図より)
鬱蒼とした杉の巨木に囲まれた、古式床しい神社でした。東照宮の絢爛とは好対照をなしており、静けさの中で参拝をする事ができました。その静寂の祈りが心の落着きを取り戻せるのです。
2、化灯篭(唐銅灯篭)

二荒山神社の山内にある唐銅の灯篭。お化け灯篭と称されて有名になりました。その名の由来には三つの伝説があるそうで、その一つをここで紹介します。{昔、この燈篭が蓑を着、笠を被り、化け物のように夜な夜な山内を出歩いていたそうだ。これを見た社家や僧侶は驚いて「ふざけた灯篭だ」と言って刀で切りまくったのだそうだ。それで今もこの様に灯篭には刀痕が鮮やかに残っているのだ。}(日本旅行社、日光案内図より)
3、見ず、言わず、聞かずの三猿

神厩舎の長押(なげし)に飾られた彫刻で、猿が馬を病気から守ると言う信仰から猿が題材に選ばれたそうです。左から右に八面の猿の彫刻があり、猿が生まれてから子を産むまでを物語風にあらわしたものです。その真意は人に教訓を与える事で、人間を猿に見立てて風刺したものです。その第二面が「小さい(子供の)時には悪い事は見ず、言わず、聞かず」の三猿で、特に有名です。(日本旅行社、日光案内図より)
4、神厩舎

神馬は従来、木の柵や木立に繋がれて過ごしていました。ところが東照宮造営にあたり、初めて神馬のために厩舎が建てられました。それがこの建物・神厩舎です。(日本旅行社、日光案内図より)
この日は厩舎の中に、つぶらな瞳で美しい毛並みの愛らしい白馬が繋がれていました。これが神馬でしょうか? 美味しそうに… 夢中になって飼い葉を食んでいました。
5、陽明門

絢爛豪華な正に目を奪う門、東照宮建築の白眉と言えます。日の暮れるまで見ても見飽きないとの事で「日暮門」とも呼ばれたそうです。その陽明門の名は、京都御所十二門の内の名称を朝廷から頂いたもので、正面の額「東照大権現」の書は御水尾天皇の筆によるものです。門をくぐり抜け、向って右から二番目の柱一本は渦巻状の紋様が他の十一本とは逆で、これは魔除けの逆柱と言われています。(日本旅行社、日光案内図より)
この宮の設計者・天海和上は家康を神に祭り上げ、徳川の権勢を盤石のものとする為、この東照宮を建立しました。それは前代未聞の財と人力を注ぎ込み、最高の墓を造る事で徳川の威光を世と朝廷に示したのです。
私はこの東照宮を訪れるのは今回で三度目ですが、何故かその都度、心の落ち着きを得られた試しがありません。それはその雑踏のせいと私は思い込んでいましたが、どうもそれだけではなさそうなのです。この建築様式のこれでもかこれでもかと言った押しの強いパフォーマンスの圧力に、私は居心地の悪さを禁じ得ないのだと気付いたのです。何故か判りませんが、芸術とは異なる何か得体の知れぬ強い力が加わっているように感じるのです。そこに優れた宮の持つ、心鎮める深い奥行きが無いと感じます。
6、眠り猫

彫刻師・左甚五郎作の猫の彫刻。東回廊の潜り門にあります。構図は“牡丹の花に眠る猫”で、牡丹の咲く頃は猫が最も眠くなる季節だそうです。(日本旅行社、日光案内図より)
そんな楽しい彫刻ですが、猫は隙が無く怜悧に見えます。完璧に彫られていて完成度が高く、美しいと感じました。
猫の彫刻、誰の発案だか知りませんが、実に興味深いものです。
7、輪王寺の数珠

私は宗教に疎く、この意味で信仰があるとは言えません。そしてそれはこの私と同様に、大方の日本人の現状でしょう。しかし自然を愛し、芸術を愛する私はそれらに心寄せて深く味わい、その時の心境は清らかで祈りの法悦と何ら代わる所はありません。世の平和を祈り、家族の幸福を祈る、この祈りとは正に人の心に開花した善であり、信仰心と同意語に思われます。また道祖神を巡ったり、神仏に手を合わせると何故か心が癒され、軽やかな心持ちになれます。自然であれ芸術であれ神殿であれ仏像であれ、どんなものにも神(善)は宿るのであり、それを認識できるかできないか、それに心開くか開かないかは見る側の眼力(心眼の力)の有る無しによるのです。然らば私は宗教は持たないが、己が心で信仰心を持っていると言っても誤りではないでしょう。
また、私は世事にも疎く、世の慣習や行儀作法が苦手です。それは私の親の躾が悪かった事もありますが、私自身がその様な儀礼や常識の知識に関心がなかったからなのです。還暦間近になっても恥ずかしながら、私は数珠の一つも持たなかったのですから…。そんな私を半ば諦め、半ば憐れんでいるのが妻であり、今回、私に輪王寺の数珠を買ってくれました。有り難く頂いて心改めて居る所です。