*多くの大作曲家の中でも、その自らの作品の取り扱いに於いて、ブラームスほど変わっている作曲家はいないと想われます。それは、ブラームスが遺作を残さなかった作曲家であった事です。他の大方の大作曲家達は、自作の管理のルーズさから、作品が方々に紛れ、後の世に発見され、遺作として発表される機会が往々にしてあります。しかし徹底して作品管理を行ったブラームスの場合は、皆無に等しいと言う事です。何しろ、若い時代に恩人に献呈した未発表の楽譜でさえも、後年有無を言わさず取り返して破り捨てた人だそうで、その徹底ぶりが偲ばれます。その理由は、自尊心の強さ故の異常な自己批判にあり、自分の意に満たない作品を未来に残すのは恥と考えていたからです。全ての未発表の草稿は遺書を書くのと同時に、死ぬ前に整理して焼き捨てたのだそうです。恐らく、捨てられた作品を現存の作品に付け加え、作品ナンバーを並び変えるならば、優にOp.200(現存はOp.122)に達するだろうと想われます。故にブラームスとは、自作を完璧に管理した最初で最後?の大作曲家だったようで、依って極端に言えば、ブラームスには出来損ないの駄作はないのです。全てが傑作乃至名作及び秀作・力作・佳作と言えます。ベートーヴェンの中期が“傑作の森”と言われていますが、ブラームスにもそれが当てはまります。しかも、全期に亘ってそう言う事ができます。まあ、ベートーヴェンに比べたら、ブラームスの作品は歌曲に比重が偏り、大曲の絶対量はベートーヴェン(大量の傑作ピアノソナタがある)に劣りますから、ブラームスにそのような形容の名称は与えられなかったのです。
*さて、最高傑作とは、傑作中の傑作を言うのですから、まずここでブラームスの傑作を30作に絞って私が選んで並べてみます。
☆器楽曲
◎交響曲・協奏曲
*交響曲・協奏曲は同時代(ロマン派)以降の他の作曲家の追随を許さぬ傑作揃いですから、全てを選びます。
1、交響曲第1番ハ短調Op68
2、交響曲第2番ニ長調Op73
3、交響曲第3番ヘ長調Op90
4、交響曲第4番ホ短調Op98
5、ピアノ協奏曲第1番二短調Op15
6、ピアノ協奏曲第2番変ロ長調Op83
7、ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op77
8、ヴァイオリンとチェロのための二重協奏曲イ短調Op102
*ブラームスは交響曲でも協奏曲でも、長調・短調の調性の仕分けは半々にして残しました。誠、これほど整然と分けられて並んでいるところを見せられると驚きを隠せません。更に、交響曲のハ(1番)ニ(2番)ヘ(3番)ホ(4番)の並びは、そのまま大好きだったモーツァルトの「ジュピター」(交響曲第41番)の第4楽章の冒頭のテーマに重なります。恐らくブラームスは音楽の魂をそこから学び取り、それを自分の交響曲の精神の柱に据えたのです。これらを総合して鑑みれば、ブラームスの並々ならぬ自作の個性化への拘りが見え、強い管理意欲が見えてきます。一作一作を個性際立つ完璧な作品に仕上げて未来に残す、ブラームスは常にそれを念じていたと、私は確信しています。
〇ピアノ協奏曲第1番二短調Op15
ピアノ協奏曲第1番Op15(1854〜1858年)は、若年の作で、その深い内容に比してオーケストレーション等が中期以降の充実には達していませんが、恩師・シューマンの達ての懇願で、初めシンフォニーとして着想されただけあって、空前のスケールを持った協奏曲です。しかもそこに直接シューマンの死(1856年、精神病院で)が重なっており、シューマンへの思い(第1楽章)とクララ(シューマンの妻)への愛(オフレコ?で第2楽章をクララの優しい肖像と名付けた)が激しく渦巻いており、正に音楽史の一齣(1ページ)を証明する傑作です。
〇交響曲第1番ハ短調OP68
交響曲第1番の着想の原点を探れば、やはり第1ピアノ協奏曲と同様にローベルト・シューマンとの出会いに遡ります。あの時、瀕死(自殺未遂と精神病院での死)のシューマンから強く要望されたのが交響曲の作曲でした。その後直ぐにブラームスは2台のピアノのためのソナタとして着手し、それにオーケストレーションを施し、交響曲へと編曲しようと試みましたが、何分オーケストレーション(管弦楽化)の経験不足による未熟さから、この交響曲の試作は巧く事が運ばず、紆余曲折の末、幾つかの楽想(テーマ、モチーフ)を第1ピアノ協奏曲やドイツレクイエムに転用してしまいました。それでもまた別のテーマで交響曲の試みは継続されており、漸く40歳を超えた辺りから軌道に乗り始め、最大の難物・フィナーレに取り組み出し、とうとう1876年(43歳)に、長い産みの苦しみの末に完成に漕ぎ付けました。着想から20数年の歳月を用し、宿願の交響曲第1番は世に送り出されたのでした。その忍耐と努力、そしてその桁外れの執念は驚異的と言わざるを得ず、見事シューマンの大願に応えたのでした。
ソナタ形式の達人が作ったソナタの権化と思われる怒りに満ちた第1楽章(シューマンへの返答、シューマンはこのような整然とした論理的なソナタ楽章を夢見ていた)、愛とロマンに身悶える第2楽章(クララへの愛)、典雅なブラームス特有のアレグレットの(スケルツォとは異なるフィナーレへの序奏的な繋ぎの楽章)第3楽章、人間愛が爆発する感動的な第4楽章(クララへの愛から人間愛・万物愛〈博愛〉へ昇華)、ベートーヴェン(論理的、超人的)とは違った音楽(よりロマン的)であり、魂(より庶民的)ですが、ここに偉大なシンフォニーの系譜は繋がったと私は確信しています。シューマンに促がされて20余年、ベートーヴェンの第9からは半世紀(52年)後、とうとう真のシンフォニーは復活したのです。
ブラームスの交響曲には副題は皆無ですが、私はこの曲に“復活”の名を与えたいと願います。復活の名は他にあり、あるシンフォニー(マーラーの第2)に使われていますが、真にその名に相応しい傑作は、この曲を措いて他に無いでしょう。私は、ブラームス作曲交響曲第1番ハ短調「復活」と、自信を持って称します。
〇交響曲第2番ニ長調Op73
ブラームスの創作の季節は夏(因みに秋から冬が音楽会シーズン、春はイタリア旅行)、それもウィーンではなく風光明媚な地方の避暑地、三十代後半より夏は地方に長期滞在(5月〜10月)をして、大曲を中心に仕上げるようになりました。しかも自分の別荘のように決まった家は持たず、その年の気分で候補地(若い頃は毎年変わり、特に気に入ると2〜3年続け、晩年に至るに従ってイシュルに定着)を絞り、家は賃貸物件(貸別荘)を借りていました。勿論ピアノも搬入しますがこれも賃貸、何しろ物に振り回されず身軽に動くのがブラームスの信条でしたから…。この時代には、このようなブラームスの意向に見合う賃貸業者が確かに存在していたようで、比較的簡単に移住?していたようです。
1877年(44歳)、第2交響曲を一夏(6月〜9月)で完成させた地が、オーストリア南部にあるヴェルター湖畔の村・ペルチャッハでした。兎に角、快適に過ごすブラームスの創作意欲は凄まじいものがあったらしく、大曲の第2交響曲を僅か3ヶ月余りで脱稿し、それと同時に「新・愛の歌」ピアノ四手用Op65a、歌曲Op69、70、71、72―3と4、モテットOp74-1、二重唱のバラードとロマンスOp75-1、歌曲OP86-3、四重唱曲Op92-1などを完成させました。第1交響曲の難産とは打って変わって比較にならない健筆速筆、如何にこの曲のアイディアがブラームスに嵌ったか、窺い知る事が出来ます。
元々自然愛好が強かったブラームスですが、この風光明媚な別天地・ペルチャッハはブラームスに改めて自然の中に住む喜びを与えてくれました。だからその山と湖の風光が、この交響曲に自然と入り込んでいるのは当然と言えましょう。角笛のホルンに小鳥のフルート、水面はチェロで森はコントラバス、さざ波にはヴィオラを使い、風はヴァイオリン、正にこの曲は牧歌と言って良いでしょう。それとも恐れ多くもベートーヴェンから拝借して田園?…。
されどこの交響曲にはベートーヴェンにないあるブラームスの感情があります。それは正しく一年前の第1交響曲の大成功がもたらした強く確信的な思いでした。自信に溢れたブラームスにはもう恐れるものはなく、自由自在、天才のほとばしりは止まるところを知らず、激しい創作意欲を燃やし始めました。その絶好調の最初の作品がこの第2交響曲だったのでした。第1楽章は、無骨な舞踏と優雅な歌が織り成す情熱のラプソディー(狂詩曲)、雄叫び(益荒男、巨人、勇者)と哀願(手弱女、美女、優美)が激しく交錯します。第2楽章は独白の歌、優しく、愛しく、尚も痛々しい愛慕の歌…、静かな森に木霊します。第3楽章は愛らしいワルツ、素朴で健やか…、田舎者のワルツ…、私とお前のワルツ…。第4楽章は息せき切った熱狂のダンス、踊り狂ったその先に歓喜のファンファーレが押し寄せます。そのエンディングは正に圧巻、これぞ勝利のファンファーレ。
さてこの第2も副題を付けると致しましょう。「牧歌」、「田園」もしくは「第二の田園」。まあそれらも良いですが、やはり自然よりはブラームスの思いを重視しましょう。これは単なる自然讃美のコマーシャル音楽ではなく、あらゆる感情が積み重なった人間賛歌のシンフォニーなのですから…。従って、「歓喜」、「勝利」、「勝利の歌」。どれも適切。私としては交響曲第2番ニ長調「勝利の歌」Op73、これでどうでしょう? 「ドイツレクイエム」、第1交響曲、傑作を次々と…。最早ブラームスは押しも押されもせぬ西洋音楽の第一人者、得意の絶頂と言って良いでしょう。そんなブラームスが答えた所信表明のシンフォニー、正に断固とした勝利宣言でした。
〇ヴァイオリン協奏曲ニ長調 OP77
第1交響曲(1876年)の大成功で、ヨーロッパ楽壇の頂点に上り詰めたブラームスは、自信を深め、その翌年からの10年は正に順風満帆、毎年のように大傑作をものにして行きました。この10年で作られた作品には交響曲3曲(第2、第3、第4)、協奏曲3曲(ヴァイオリン協奏曲、第2ピアノ協奏曲、二重協奏曲)の他に室内楽曲6曲(第1ヴァイオリンソナタ、第2ピアノ三重奏曲、第1弦楽五重奏曲、第2チェロソナタ、第2ヴァイオリンソナタ、第3ピアノ三重奏曲)などが含まれており、都合12曲の大曲が生み出されています。特にその創作の核心のシンフォニーとコンツェルトの大曲はこの10年で大半が生み出されており、正に黄金の10年と称するに値すると言えます。誠ベートーヴェンの“傑作の森”に匹敵する激しい創作意欲の爆発が見られた時代であり、絶好調のブラームスがそこに現れているのです。
1877年、第2交響曲を完成させた直後の9月に、ブラームスは避暑地ペルチャッハからバーデンバーデンに移動し、そこでたまたまサラサーテ(当代随一のヴァイオリンの巨匠)のヴァイオリン演奏を聴く機会を得ました。その艶やかなヴァイオリンの音色、超絶の技巧、ヴァイオリンの能力を極限まで発揮させる演奏にブラームスはすっかり感心して、自分も一つヴァイオリン協奏曲と作ってみたいと本気で思い始めました。その後、早速盟友の大ヴァイオニスト・ヨーゼフ・ヨアヒムに相談してヴァイオリン演奏の奥義を教えて貰い、それを参考にしてヴァイオリン協奏曲の構想を練り始めました。
年が変わり1878年の春(4月のひと月間)に、ブラームスは念願だったイタリア旅行(第一回目)を敢行します。これもこの時代のブラームスの自信の表れと推測できます。大成功と言う大きな区切りを果したブラームスは自信満々・自由奔放、愈々生活面でもやりたい放題が出来る身分となったのでした。この旅行は完全に私的なもので正に今で言う観光旅行、仕事半分の演奏旅行とは訳が違います。自由気儘にラテンの飯を食らい、散策し捲って各地の建造物や美術作品を鑑賞し尽くしました。ブラームスは当時のイタリア音楽(主にイタリアオペラ)には全く興味がなかったようで、ひと月間、ひたすら食い物物色と自然観光、そして市街探訪と美術建造品探索に明け暮れていたようです。その印象がこのヴァイオリン協奏曲やその後の作品(第1ヴァイオリンソナタ、第2ピアノ協奏曲、「哀悼歌」、第2ピアノ三重奏曲、第1弦楽五重奏曲、「運命の女神の歌」、第3交響曲)に反映されていきます。それらはブラームスの生来の快活さやお茶目さが際立った時代の産物だと、言えるかも知れません。そして陽光煌めくイタリアが如何にブラームスを鼓舞しまた反対に癒しを与えてくれたか、その陽性なラテンの空気に溢れた作品群を聴いてみれば、窺い知る事ができます。この時期の作品は、本来ブラームスが持つ特有の暗い北ドイツの空気感が失せ、明朗闊達な南欧の空気が幅を利かせています。「哀悼歌」や「運命の女神の歌」のような悲劇的な内容の作品にしても、イタリアのラテンの空気が横溢しています。ブラームスの音楽には稀な透明な響きがそこにはあるのです。第1交響曲(1876年、悲劇から希望の愛へ)から第4交響曲(1885年、例外的に暗すぎる噴怒の曲、晩年の北ドイツへの回帰の始まり)までの10年間は、ブラームスの生涯で太陽の季節と言って良いと思います。
〇ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 OP83
第1、第2交響曲で、決定的な成功を収めたブラームスは、最早並ぶ者の無い大作曲家として、自由を謳歌し始めます。降り掛かる詰まらぬ雑事を無視して、憧れのイタリアに観光旅行に出掛けます。お伴は親友の大学教授で外科医のテオドル・ビルロートで、イタリアに詳しいビルロートを案内役に仕立てて、ひと月(1878年の4月〜5月)の旅を楽しみました。ブラームスも予め、イタリアの歴史や美術建築を学び、資料も集めて、準備万端整えて、汽車でイタリアに向かいました。
イタリアの印象は格別でした。ブラームス言によれば、「魔法を掛けられたような毎日」の記録(手紙)が残っています。この素晴らしい印象を無駄にしたくないと考えたブラームスは、その経験をピアノ協奏曲の作曲に織り込もうと考えました。但し、ヴァイオリン協奏曲が先に着手され、この年の秋にヴァイオリン協奏曲OP77は書き上げられ、初演がなされました。次の年(1879年イシュルの別荘)には、ヴァイオリン協奏曲の副産物であるヴァイオリンソナタ第1番「雨の歌」OP78が作曲され、ピアノの名曲の「二つのラプソディー」OP79も作られました。その後、積年の音楽活動の功績が讃えられ、ブレスラウ大学(当時はドイツ領、現ポーランド)から名誉学位を授けられ(1879年)、その返礼に大学祝典序曲(1880年)を作曲しました。こう言った名誉ある授与には、本当は、大曲の交響曲の返礼が普通であったようですが、ブラームスの交響曲は広く深く推敲されなければ完成されない難物、名誉学位如きで書ける簡単な代物ではなかったのです。ブラームスは、もっと軽く考えて、楽しい学生歌を繋ぎ合わせた「大学祝典序曲」OP80を書きました。しかも、これとほぼ同時に、「悲劇的序曲」OP81も作曲しました。ブラームス曰く「楽しいものと悲しいものを対で書きたかった」の言葉を残しています。多忙を極めていましたので、大曲のピアノ協奏曲は後回しにされていました。
1881年の正月は、ブレスラウ大学に出向き、名誉学位の授与式に参列しました。1月4日には返礼曲の大学祝典序曲と新作の悲劇的序曲、そして第2交響曲を指揮しました。その後は2曲の序曲を広めるために、演奏旅行に出て、ドイツ各地やオランダまで足を延ばしています。落ち着いたところで、第2回目のイタリア旅行に出ます。3月25日に出発で、ブラームスとしては初めてイタリア語を学んで、旅に臨んだと言う事です。お仲間は、ビルロート(外科医)、M・ノッテボーム(ベートーヴェン研究家)、A・エクスナー(法律学者)、ウィーンの知識人ばかりの男友達が同行していました。途中、用事があり、皆は帰って仕舞ったようで、ブラームスはフィレンツェで2週間の一人旅を味わったそうです。自由の身になって、イタリア飯、イタリア建築、イタリア(ルネサンス)美術などを心置きなく味わったそうです。
ウィーンに戻ったブラームスは、5月から10月までの創作のための別荘をウィーン近郊のプレスバウムに求め、愈々この地で、第2ピアノ協奏曲の作曲に熱中します。しかし、その前に前年にベネチアで他界した友人の画家・フォイエルバッハ追悼のため、美しい合唱曲「ネーニエ(哀悼歌)」を作曲しました。ドイツの詩人・シラーの詩に付けた美しき者も死に行かなければならないがテーマの曲、哀れな友・フォイエルバッハのためにラテンの響きで、その魂を悼みました。
イタリアの風光を織り交ぜた最もイタリアを意識した曲・第2ピアノコンチェルト。建築物の大理石をイメージした古典の堅固で勇壮な第1楽章、まるで汽車の車窓の風景を切り取った、流れるようなスピード感溢れる第2楽章、街のカフェでコーヒーを啜りながら在りし日の追憶に涙する第3楽章、イタリア娘に声を掛けて散歩をしたり、はしゃぎ回る第4楽章…。あらゆる感情が渦巻いています。コンチェルトには珍しい4楽章制、50分を超える巨大な構造空間を有します。コンチェルトのキングです。
*1881年に第2回目のイタリア旅行をした後、避暑地のプレスバウムで第2ピアノ協奏曲OP83と「ネーニエ」OP82を完成させました。そしてその他にも、もう一曲、重要な歌曲集を書いています。それは、OP84の「ロマンスと歌曲」で、その5曲の内の第4曲が、ブラームスの歌曲の中でも屈指の名曲の「甲斐なきセレナード」です。ピアノ作品の「二つのラプソディー」OP79と歌曲の「甲斐なきセレナード」は、当時のブラームスが手放しで自慢する傑作でした。その後(1883年1月)、この曲を得意とする若きアルト歌手・ヘルミーネ・シュピースが現れます。ブラームスは一目でヘルミーネを気に入り、親娘ほど年齢が違う二人は恋に落ち、この娘は、その後、多くのブラームスの歌曲(狩人・乙女の歌・花は見ている・あそこの牧場に・すぐ来てね・別れ・歌の調のように・まどろみはいよいよ浅く・嘆き)と交響曲第3番を書かせるのです。
*1882年は、ハンス・フォン・ビューローとのコンサートツアーから始まりました。マイニンゲン・オーケストラの指揮者であったビューローには、第2ピアノコンチェルトの試演に、このオーケストラを使わせて貰い、世話になったので、二人でこのオーケストラを率い、ブラームスのピアノコンチェルト2曲の演奏旅行をしたのでした。二人とも指揮者でピアニストであったので、第1番ニ短調OP15は、ビューローがピアノ、ブラームスが指揮、反対に第2番変ロ長調OP83は、ブラームスがピアノ、ビューローが指揮と、役割分担を決めて臨みました。ベルリン・キール・ハンブルクで、演奏を行い、そこで二手に別れて、ブラームスはミュンスター、ユトレストを経由してウィーンに戻りました。ウィーンにはフランツ・リストが聴きに来ており、ブラームスは第2コンチェルトの総譜をリストから求められ、出版社から贈らせています。夏は避暑地をイシュルに定め、ピアノ三重奏曲第2番ハ長調OP87と弦楽五重奏曲第1番ヘ長調OP88、そして最後のオーケストラ伴奏付の合唱曲「運命の女神の歌」OP89を作曲しました。二つの室内楽は、どちらも明るい長調で書かれており、ほぼ同時期(初夏)に脱稿されています。この春はイタリアに行ってなく、直接避暑地に入り、一気に書き上げたようでした。問題は「運命の女神の歌」で、これはラテン(イタリア・ギリシャ)シリーズの最後を飾る作品で、古代ミケーネの雰囲気を醸し出した合唱曲です。傑作であり、何れ「ブラームスの名曲」の枠で記事を書きます。
〇交響曲第3番ヘ長調 OP90
ヘルミーネ・シュピースと初めて出会ったのが、1883年1月のクレ−フェルト(ドイツ北西の都市)で、ヘルミーネは、ブラームスの信頼するバリトン歌手・ユリウス・シュトックハウゼンの指導を受けていた才能豊かな若いアルト歌手でした。見目麗しく機知に富んだシュピースは、ブラームスの音楽に強い関心を抱いていて、ブラームスの前で「甲斐なきセレナード」を歌って聴かせたそうです。ブラームスはイチコロとなり、虜となって、夏の創作の別荘を、シュピースが住むヴィースバーデンに決めてしまいました。機会を作ってはシュピースと会えるように画策をし、二人は愛し合うようになりました。この時代、ブラームスは有名人であり、何処に行っても顔の知られた存在であり、忽ち、二人には噂が立ち、ゴシップのネタになりました。それでも二人はそんな事に意を介さず、仲良く逢瀬を重ねたのでした。もう結婚は衆目の必然でした。しかし、二人は結婚せず、シュピースは、唯自分のために数々の傑作歌曲を書いてくれるブラームスを許していました。でも本当はブラームスの求婚を待ち侘びていたそうです。可哀想なシュピース、それでもこの女性、凄いのですよ。クララ(ピアニスト)・アガーテ(令嬢)・ベルタ(歌手)・ユーリエ(シューマン三女)・エリザベート(ピアノの弟子)・ヘルミーネ(歌手)、ブラームスの恋の遍歴は色取り取りですが、その捧げられた曲の数は圧倒的に、このヘルミーネ・シュピースが多いのです。その最たる曲は、「すぐ来てね」、「歌の調のように」、「まどろみはいよいよ浅く」、「ヴァイオリンソナタ第2番」そして第3交響曲、名曲ばかり、傑作ばかりなのです。21世紀のブラームス愛好家の私にも、ヘルミーネは素晴らしい贈り物をくれたのです。ヘルミーネ!讃!
愛する人のいる快適なヴィースバーデンの地、普通の人なら有頂天になって仕舞うのに、ブラームスはやはり根っからの作曲家でした。早朝に起きて風呂に入り、コーヒーを淹れて葉巻(シガー)を吹かす、これが毎朝のブラームスの習いです。午前中は第3交響曲に熱中します。ブラームスの作曲は、ピアノの前で行わず、譜面台の前に立ってします。モーツァルトは大きなテーブルの上に楽譜を並べてしましたが、ブラームスは巨大な譜面台を使っていたそうです。頭にある音をピアノで確かめるのではなく、そのまま頭から譜面に書き降ろしていきます。最後に、ピアノ室に入って出来栄えを確かめたそうです。
午後は近くのレストランに昼飯に、友達やヘルミーネと連れ立ってレストラン飯にありつきます。飯の後は散歩、ブラームスは登山はしなかったですが、歩くのは好きで、五線譜と筆記具を片手に、野を散歩したそうです。きっと、ヘルミーネと長い散歩をしたようです。そしてその後は、もっぱら仲間内のサロンでコンサート。多くの歌曲や室内楽が演奏されたそうです。
夜は友や後援者たちが催す招待飯、ブラームスが年々肥満して行ったのは、このレストラン飯と招待飯の所為と言われています。
ヘルミーネと、こんな快適な夏を過ごしていたブラームス、そしてこの夏は第3交響曲を書こうとしていたブラームス。この第3交響曲が楽観的な楽しいものになったのは当たり前でした。古典とロマンの要素を取り入れて、見事に融合させた交響曲、簡潔の中に情熱が溢れています。
そして、この曲にはブラームスのモットー(スローガン)が明確に表示されています。第1楽章の冒頭で、管楽器が一斉に鳴らすF-A♭-Fの音型、これがドイツ語の”Frei aber froh”(自由だが喜ばしく)を表し、この自由だが喜ばしくがブラームスの平素持っているモットーと言う事です。これは第1(C-C#-C)や第2(D-C#-D)で使われたモチーフよりは、もっと意味深いもので、この曲の全編に亘って表れるこの曲のテーマと言えます。
しかもF-A-Fのへ長調ではなくて、F-A♭-Fのヘ短調で現れます。ここがブラームスの音楽の意味深い所で、悲喜交々が綯い交ぜになった、様々な感情を表そうとするブラームスの作曲技法なのです。自由だが喜ばしく、時として、歓喜と悲哀が相剋する、それがブラームスの音楽なのです。ベートーヴェンの第8とシューマンの第3を思わせる爽快なダイナミックス(活動性)と、モーツァルトと想わせる慈悲の心、生活を楽しむ、普段着のブラームスがそこにいます。
*楽器編成
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット(1・4楽章)、ホルン4、トランペット2(1・4楽章)、トロンボーン3(1・2・4楽章)、ティンパニ(1・4楽章)、弦楽五部
第2第3楽章は、コントラファゴット・トランペット・ティンパニを使っていません。正に楽章ごとに、硬(1・4楽章)軟(2・3楽章)を変化させ際立たせています。爽快な第1楽章、劇的な第4楽章、森の芳醇な第2楽章、鎮魂の歌の第3楽章、快哉と哀悼が入り混じっています。
第1楽章 アレグロ・コン・ブリオ(生気を持って快速に)
ヘ長調、6/4拍子、ソナタ形式
簡潔極まりないソナタ形式の楽章、冒頭にブラームスのモットーが鳴り、幕(曲)は一気に切って落とされます。快活で壮大、ソナタ形式の枠組みで、ブラームスの情熱が迸り出ます。
第2楽章 アンダンテ
ハ長調、4/4拍子、自由なソナタ形式
ブラームスの自然愛好が現れた楽章、シュピースと散歩して、小鳥の歌と、野の花を愛でたに違いありません。五線譜を持ち歩くブラームスですから、シュピースに歌わせる多くの歌曲のインスピレーションを得て、楽譜に書き込んだ事でしょう。地味で鄙びていますが、美しさはこの上ありません。大人にしか判らない墨絵のような音楽です。
第3楽章 ポコ・アレグレット
ハ短調、3/8拍子、三部形式
「自分だけが幸福で良いのかしら」、そんな思いで、死者のための悲歌を書きました。この曲をテーマにした小説、この曲をカバーした音楽が後の世に数多出ています。希代の名旋律です。有名なところでは、フランソワーズ・サガンの「ブラームスはお好き」、その映画の「さよならをもう一度」、「バビロンの妖精」、フランク・シナトラ、サンタナ、大貫妙子、平原綾香が詩を付けて歌っています。
第4楽章 アレグロ・ウン・ポコ・ソステヌート(やや抑えて快速に)
ヘ短調ーヘ長調、2/2拍子、自由なソナタ形式
最も闘争的な楽章、ウィーンフィルで初演した、指揮者ハンス・リヒターの言「これはブラームスの英雄だ!」の根拠となった楽章です。しかし、結尾は緩く静かな回想的な音楽です。様々にその理由を発信する評論家もいますが、これがブラームス本来の音楽の性質。硬軟、悲喜、理想と現実、このどれもが表裏一体となっているのがブラームスの音楽です。気負わずに、己の英知と価値観で、音楽と対していたのです。
*第3交響曲Op.90の出版が1883年、その2年後の1885年に第4交響曲op.98が完成しました。この間は、大曲は無く、主に歌曲と合唱曲が生まれています。Op.91の伴奏にヴィオラが入った女声(アルト歌手、ヨアヒム夫人・アマーリエ・ヨアヒムのために作曲)のための独唱歌曲、Op.92の四重唱曲、Op.93の合唱曲、そしてOp.94・95・96・97の4集は独唱歌曲です。更にその後の第4交響曲の後に出版されたOp.105.106.107と合わせて、恋人であったアルト歌手のヘルミーネ・シュピースに関係がある曲が含まれています。二つの交響曲の隙間には、多くの傑作歌曲が生まれたのでした。
ブラームスの趣味の一つは読書で、聖書を筆頭に、あらゆる分野の書物を読み漁っていたようです。社会の動静や物事全般に強い興味を抱いていたようで、その博識ぶりはクララを始め、友人の間では有名でした。新聞も熟読しており、仲間内で交わされた日清戦争の論議でも、大半は清国の勝利と論じていましたが、ブラームス一人が日本贔屓で、日本が勝つと断言していたそうです。事実1895年に日本の勝利で終わりました。ブラームスは常日頃、戦争のような社会悪を憎んでいました。人種差別による紛争など、人間の愚かさを断罪していました。但し交響曲のような絶対音楽では、その社会的芸術的思想は音でしか測れませんが、言葉を付けた音楽ではブラームスの思想が容易く観えて来ます。最晩年に遺書のようにして書いた聖書の言葉をテキストとした歌曲「4つの厳粛な歌」Op.121では、ブラームスの哲学が観えて来ます。人間とは何か、動物とどう違うのか、世界には大きな虐げ(戦争)がある、死とは何か、死の苦しみ、死の救いとは何か、そして人間は愛を持ち、希望を持ち、信仰を持って生きるべきである。人間の存在意義と生と死を見詰めています。これがブラームスの哲学であり、この第4交響曲の思想のバックボーンとなっています。この当時、非常に興味を持っていたギリシャ悲劇の影響もあり、この極めて思想的・闘争的な交響曲が生まれたのでした。
〇交響曲第4番ホ短調Op.98
◎管弦楽曲
*ブラームスには交響曲以外の管弦楽作品は多くはありません。しかも当時としてはオーケストレーションが地味で、傑作と言えるのはハイドン変奏曲の一曲だけと言って良いでしょう。他に大学祝典序曲と悲劇的序曲がありますが、傑作と言うには軽いでしょう。まあ、秀作・力作が相応しいと思います。それに2曲の管弦楽用のセレナーデ(Op11、Op16)、こちらは若年の作、交響曲への下準備としての習作の意味合いが濃厚です。それでもブラームスとしては珍しい砕けた開放感のある良い曲であり、私は愛聴しています。佳作と言って良いでしょう。
9、ハイドンの主題による変奏曲Op56a (Op56bは2台ピアノの作品)
◎室内楽曲
*ロマン派室内楽はブラームスの独壇場と言って良いでしょう。よくブラームスは、交響曲のような室内楽を書いた作曲家と言われています。それは、好意的な見解の中らずと雖も遠からず”で、小編成の室内楽作品でも、大編成の交響曲に準ずる重い内容のものを書いたからだと想われます。ブラームスの室内楽は、単なるサロンの遊びの音楽とは一線を画す、人生を語る交響曲のような音楽だったのです。また反対に、地味なオーケストレーションの交響曲は、多くの人々(対立する反対派・ワーグナー等)から、まるで室内楽のような交響曲だと揶揄されたのです。但しこれも中らずと雖も遠からず”で、朴訥な田舎者のブラームスは、けばけばしく飾り立て、格好よく見栄を切り、アジテーション高く聴衆を扇動する大仰なオーケストレーションを性格上使えなかったのです。地味にしかし深く愛と人生を語るシンフォニー、たとい室内楽の延長線上にあろうとも、それは最高の交響曲、それが判らず揶揄した反対派は、ロバ(王様)の耳だったのです。このようにブラームスの室内楽と交響曲は同一線上にあり、より社会性・普遍性が高い動機であれば交響曲に、より個人的な動機によれば室内楽へと書き分け、管理していたのです。結果的にブラームスの室内楽は、交響曲を完成した前後に書かれる事が多いのですが、それは交響曲を書く為に準備したモチーフ(テーマ)を余すところなく使い切った証として知る事が出来ます。ブラームスの場合、一曲の交響曲を書くには大量のモチーフ必要としたのであり、余ったモチーフを無駄にする事無く、室内楽に転用したのです。
10、弦楽六重奏曲第1番変ロ長調Op18
11、ピアノ五重奏曲ヘ短調Op34
12、クラリネット五重奏曲ロ短調Op115
13、ピアノ四重奏曲第3番ハ短調Op60
14、弦楽四重奏曲第3番変ロ長調Op67
15、ピアノ三重奏曲第1番ロ長調Op8
16、ホルン三重奏曲変ホ長調Op40
17、ヴァイオリンソナタ第1番ト長調Op78
18、チェロソナタ第1番ホ短調Op36
*やはり室内楽でも、長調・短調を均等に選び、曲作りがなされています。しかも、多種・12種類もある楽器編成の内の一つの楽器編成による曲数は多くて3曲まで、その個性化を念頭に入れた執拗な計画性と管理性は並外れたものがあります。全24曲が内容の濃い秀作であり、9曲にして選ぶのは困難がありました。一番の選びどころは存在感の有無(優劣、だから傑作)にしました。全ジャンルの中で、弦楽五重奏曲とクラリネットソナタを選べなかったのが心残りですが、仕方がありません。その存在感が今一つでしたから…。
◎ピアノ曲
*19世紀はピアノの時代と言われています。発明から100年が過ぎ、進化の最中にあったピアノは益々高性能となりました。それと同時に産業革命の進展により富裕層が増大し、ピアノの需要が爆発的に伸びました。それらに呼応するように優れたピアニスト及びピアノ教師、そしてピアノ曲作曲家が輩出し、多くのピアノ作品が作られ演奏されました。シューベルト、メンデルスゾーン、ショパン、シューマン、リスト、そしてブラームスと、ピアノを得手とする作曲家が煌星の如く現れ、史上最大最高の輝かしいピアノの時代を形作ったのでした。
そんな時代の最後を飾ったのがブラームスで、先輩5人の後を引き継いで立派なピアノ作品を生み出し、世に報いました。但し、ブラームスに於いては、常に言える事ですが、生まれた年代が遅すぎた作曲家だったという事です。多くの先達が多くの作品を残した後に生まれた作曲家、ブラームスが得る残された余地は少ないものでした。だから、ブラームスは過去に遡り昔の音楽を研究したのでした。まずシューマンに始まってシューベルト、ベートーヴェン、モーツァルト、ハイドン、バッハ、ヘンデル、そして更に昔のバロック以前の者達の足跡も…。そこでブラームスは古の音楽技法に着目をし、古い形式の中に新たな発展の余地を認め、そこに近代の息吹を吹き込もうと想い立ちました。そこで出会った音楽形式とは、様々な様式の変奏曲(フーガ、カノン、パッサカーリアやシャコンヌ等)でした。ピアノ用の変奏曲、数は少ないですが、バッハやベートーヴェンには優れた鍵盤用の変奏曲がありました。勿論、ロマン派の時代にもこの様式の曲(メンデルスゾーン等)は無きにしもあらずでしたが、種類も傑作も少なく、ブラームスはそこにピアノ音楽の新天地を見出したのでした。
ブラームスのピアノ変奏曲は全部で7曲現存します。以下に記し、如何にブラームスが変奏曲に入れ上げてたかを紹介致しましょう。全てが初期から中期の初めにかけての作品です。
シューマンの主題による変奏曲Op9
自作主題による変奏曲Op21-1
ハンガリー歌曲による変奏曲Op21-2
ピアノ連弾用:シューマンの主題による変奏曲Op23
ヘンデルの主題による変奏曲とフーガOp24
練習曲:パガニーニの主題による変奏曲(2集)Op35
2台ピアノ用:ハイドンの主題による変奏曲Op56-b
19、ヘンデルの主題による変奏曲とフーガOp24
20、練習曲:パガニーニの主題による変奏曲(2集)Op35
21、二つのラプソディーOp79
22、(晩年の)ピアノ小品 Op116(7曲)、Op117(3曲)、Op118(6曲)、Op119(4曲)
*「二つのラプソディー」は生前のブラームスが最も愛好していたピアノ作品。誰にでもこの曲の演奏を進め、自らも好んでよく弾いていたと伝えられています。確か、エジソンの臘管レコードに自らの演奏で録音した史実が伝えられています。その原盤は残されていないようですが?
*晩年のピアノ小品は、ブラームス晩年の心境を吐露したエッセイのようなもの。正に音楽と人生を極めた達人の思いが綴られています。個人的に申しては何なのですが、これらの20曲は私の宝物です。苦悩で泣きたくなるとここに誘われます。感動と涙を持ってしばしば聴いています。
◎オルガン作品
*バロックを愛し、バッハに憧れたブラームスは、やはり素晴らしいオルガン独奏曲を書きました。若き頃のシューマンの死を目の当たりにして書いたもの凄いフーガ4曲…。そして今度は自分の死に目に書いた世にも優しい11のコラール前奏曲。正にオルガンと言う楽器は人間の死と共にあるのですね。オルガンは魂の響き…
23、11のコラール前奏曲Op122(オルガンソロ)
☆声楽曲
*ブラームスはよく器楽の作曲家と想われ、そんなイメージが定着していますが、とんでもない、ブラームスの創作の沃野には、器楽の領域と遜色のない広大な声楽曲の美田が広がっているのです。有伴奏、無伴奏(アカペラ)を含む100曲を超える重唱及び合唱曲と200曲を超える独唱歌曲、ドイツレクイエムの作者ブラームスこそ、ロマン派の最大の声楽曲作曲家と褒め称えても、それは過言とは無縁の言動でありましょう。
◎合唱曲・重唱曲
24、ドイツレクイエムOp45(ソプラノ、バリトン独唱、混声4部、オーケストラ、オルガン)
25、愛の歌・ワルツOp52(18曲、四重唱、合唱、ピアノ四手)
26、「祭典と記念の格言」Op109と三つのモテットOp110(無伴奏≪アカペラ≫混声8部、4部・8声部)
*人間の生と死を見詰めた音楽・ドイツレクイエム。これ以上優しさに溢れた音楽を私は未だに知り得ません。「幸なるかな」と歌いだされる冒頭の歌を聴けば、不思議に苦悩は安らぎ幸福感で満たされていきます。愛する者を失った絶望した人の魂を鎮める、不幸を幸福に変える魔力を持った真の傑作です。
*「愛の歌」・ワルツは、皆で寄り添い皆で合わせて歌う、重唱・合唱の喜びを味わせてくれる青春の歌です。ピアノ伴奏までも連弾なのですよ。ブラームスはある娘に恋をし、熱い思いを胸に幸せに包まれてこの曲集を作曲しました。お気に入りの詩人・ダウマーの詩に付けて…。そして「愛の歌」のタイトルが眩しい、刷り上がったばかりのその楽譜をこの娘に捧げたのでした。ところがこの娘はブラームスの思いを知らず、ある男と婚約を済ませてしまっていました。失恋の痛手を負い怒りに震えたブラームスは、ある曲を作曲する事で、その苦悩から己の心を救い出したのでした。その曲こそが彼の名作「アルトラプソディー」です。アルトの歌声がどれ程ブラームスを癒した事か…、偲ばれる逸話です。結局、この娘は大した者で、音楽史上の功労者ですよね。何しろ大作曲家ブラームスに恋心と失恋を合わせて味あわせ、二曲の傑作合唱曲を書かせてしまったのでしたからね…。この娘こそシューマンとクララの三女・ユーリエ・シューマンで、写真で見る限り、母・クララ似の美しい女性です。シューマンの残した四姉妹の中では最たる美人であったようで、唯一家庭を持った女性でした。確か、イタリアの貴族の男と結婚したとか…。
「アルトラプソディー」Op53とその他の「運命の歌」Op54、「運命の女神の歌」Op89、そして美しい「ネーニエ(哀悼歌)」Op82の優れた合唱曲もこれに付け加えたかったのですが、残念、落選させました。これらの合唱曲は真のブラームスファンの特別の名作。この燻し銀は私達の物…、誰にもあげない?。
*アカペラの曲は、合唱の原点に位置する曲種。この天国的な透明感は、平均律調律法では出せない和声(純正調)の響き、正に天上の音楽であり、ヨーロッパの教会に木霊する清澄な響きです。
◎独唱歌曲
*長年、ブラームスの歌曲を聴き続けていると、何と全ての歌が好きになってしまうのです。それは大袈裟に言うのではなく、それほど心に通う美しい歌達だからです。滑らかなカーブを描く旋律、素敵なピアノ伴奏、もう心が溶けていくのが分かります。ホントに好きで好きで堪らない歌曲、全200曲全部を取り上げたい、これが今の私の正直な思いです。でも仕方がない、心を鬼にして選択します。
27、歌曲・初期
Op3-1「愛のまこと」、Op7-1「まことの愛」、Op7-5「悲しむ娘」、Op14-1「窓の外で」、Op19-4「鍛冶屋」、Op19-5「エアリアンハープ(アイオロスのハープ)によせて」、Op32-1「夜中に飛び起きて」、Op32-9「私の女王よ」、OP.33歌曲集「マゲローネのロマンス」、Op.43-1「永遠の愛」、Op43-2「五月の夜」、Op46-4「ナイチンゲールに」Op47-3「日曜日」、Op48-7「秋の気配」
28、歌曲・中期
Op49-4「ゆりかごの歌≪ブラームスの子守歌≫」、Op57-3「私は夢を見た」、Op57-4「ああ、このまなざしをそらして」、Op58-6「小路にて」、Op58-8「セレナード」、Op59-3「雨の歌」、Op59-6「お休み安らかにおやすみ」、Op59-7「傷ついた私の心」、Op59-8「君の青い瞳」、Op63-5「我が恋は緑」、Op63-8「郷愁U」、Op69-2「嘆きU」、Op69-7「海を越えて」、Op70-1「海辺の庭で」、Op70-2「ひばりの歌」、Op70-3「セレナード」、Op71-5「愛の歌」、Op72-1「昔の恋」、Op72-2「蜘蛛の糸」、Op72-3「おお、涼しい森よ」、Op72-4「失望」
29.歌曲・後期
Op84-1「夏の夕べ」、Op84-4「甲斐なきセレナード」、Op85-1「夏の夕べ」、Op85-2「月の光」、Op85-3「乙女の歌」、Op84-6「森のしじまに」、Op86-2「野にひとりいて」、Op86-3「夢にさまよう人」、Op86-4「荒れ野を越えて」、Op86-6「死への憧れ」、Op91-1「ひそかな憧れ」、Op91-2「聖なる子守歌」、Op94-1「40歳になって」、Op94-2「現れ出でよ愛する影よ」、Op94-4「サッフォー風頌歌」、Op95-4「狩人」、Op95-6「乙女の歌」、Op96-1「死は冷たい夜」、Op96-2「僕たちはさまよい歩いた」、Op96-3「花は見ている」、Op96-4「航海」、Op97-4「あそこの牧場に」、Op97-5「すぐ来てね」、Op97-6「別れ」、Op105-1「歌の調べのように」、Op105-2「まどろみはいよいよ浅く」、Op105-3「嘆き」、Op105-4「教会の墓地で」、Op106-3「霜が降りて」、Op106-4「我が歌」、Op107-2「サラマンドラ」、Op107-3「乙女は話しかける」、Op107-4「ねこやなぎ」
30、歌曲:「四つの厳粛な歌」Op121
第1曲「人の子等に臨むところは獣にも臨むからである」 伝道の書から
第2曲「わたしはまた日の下に行われるすべてのしいたげを見た」 伝道の書から
第3曲「ああ死よ、おまえを思い出すのはなんとつらいことか」 シラ書から
第4曲「たといわたしが人々の言葉や御使たちの言葉を語っても」コリント人への第一の手紙から
*ブラームスは、死を間近に控えたところで、もう一度、あのレクイエムのような音楽を書きました。今度は大規模なものでなく、歌とピアノの歌曲として、未来の人々に聖書の言葉を借りて遺言を残しました。人間の存在意義、戦争の悲惨と愚、死とは何か、そして人間はどう生きるべきか。この歌は厳しく人間を断罪しています。ブラームスが言いたかったのは、「愛と信仰を持って希望に満ちて生きなさい」と言う事、ありふれた事ですが、それが一番難しい、永遠の宿題ですね。しかし、それを意識するかしないかで、人間の一生は大きく異なるものになります。心の何処かにきちんと意識を持って、生きて行きましょう。
さて、ブラームスの最高傑作はどの曲でしょうか? 交響曲第1番ハ短調、交響曲第4番ホ短調、ドイツレクイエム、四つの厳粛な歌、11のコラール前奏曲、(晩年の)ピアノ小品などが、私の思いに叶う作品です。どうしても一つ上げるとするならば、人間の優しさを前面に押し出した「ドイツレクイム」…、この優しさこそが人間の最大の価値、これは人類の傑作の一つです。