2017年05月05日

東京漫歩… ブリューゲル「バベルの塔」展、皇居東御苑 2017.05.05

端午の節句に立夏の吉日の今日、久し振りの東京漫ろ歩きをしてきました。東京都美術館の「バベルの塔」展と皇居東御苑を駆け足で巡って来ました。立夏の強い日差しの中、暑さにめげながらも歩き通しました。されど昨日のNちゃんYちゃんとのアスレチックスな遊びが尾を引いていて、我等二人、足が御座って(いかれる、まいっている)這う這うの体でした。兎に角カフェや休憩所を多用し、水分と休息を補って行程を完遂しました。帰路の横須賀線で座れたのをこれ幸いとしてウツラウツラし、好い休憩となりました。無事に帰れました。

ブリューゲルのバベルの塔のポスター
ロビーに飾ってあった「バベルの塔」の絵、圧倒されました。旧約聖書の創成期第11章の中に記述されている物語を絵にしたものだそうです。高さ500mの塔だそうで、石とレンガとアスファルトで出来ているそうです。バベルの塔は天空の城ラピュタに多くの影響を及ぼしたそうです。

江戸城本丸天守跡
江戸城天守閣跡(天守台)
正にこの東御苑は徳川幕府の核心でした。この天守閣は3度焼けたそうですが、その後平和な世の中になった故、天守閣の必要性が無くなったと判断されたそうで、徳川時代の後半210年は天守が無かったのだそうです。


posted by 三上和伸 at 22:04| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月29日

鎌倉漫歩6 江ノ電に乗って 江ノ電の電車 2012.04.29 

江ノ電 江ノ電 江ノ電
鎌倉、江の島(江ノ島)、藤沢の旅と言えば、江ノ電…。横須賀線も馴染み深いですが、やっぱり!、江ノ電ですね。ごっとんごっとんとのんびり走る電車、人家の軒先や一部路面を走ったり、海の直ぐ横を走ったりで、意外性と驚きの楽しみ一杯の路線です。連休二日目の今日は好天に恵まれ、私の旅心が疼き、妻を誘って鎌倉湘南の江ノ電の旅に出ました。

江ノ電の車両は新旧色取り取りで可愛く、ホントに眺めて楽しい電車です。これに匹敵する首都圏の私鉄では他に、都電荒川線や東急世田谷線、そして京急の赤い電車があるだけです。誠に鉄道少年の夢を乗せて走ってくれています。大好き!感謝!

追伸:明日は満福寺の茶房・義経庵で食べた“しらす丼”を紹介します。
posted by 三上和伸 at 23:03| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月08日

湘南漫歩5-11 早春の海辺巡り・鴨居港と観音崎 2012.02.17

素敵なパン屋さんでこれまた素敵なオーナーに出会えて、ご機嫌で観音崎を目指しました。途中鴨居の岸壁からは先程までいた燈明堂が望め、嬉しさが込み上げてきました。海はいいな〜

@対岸に燈明堂、その後ろに東京湾フェリー
燈明堂を望む
三時間ほど前に訪ねた燈明堂を、対岸の鴨居港から眺めました。岩礁の渚には佇む人がいて、あれは三時間前の私?と何だか時間旅行でもしているような、妙な錯覚を覚えました。しかも丁度東京湾フェリーのしらはま丸も後ろを横切っており、益々、時間を行ったり来たりで、錯覚を強めました。心は浮遊し、体は脱力感で軽かったのでした。ああ楽し、これぞ一人旅の醍醐味、自分の孤独がいとおしくなりました。

A観音崎灯台
観音崎灯台
江戸の昔にあったのが、主要港湾・浦賀を導き示す燈明堂。しかし明治の世には東京湾奥の横浜が主要港湾になり、灯台も新たにこの観音崎灯台に受け継がれました。日本初の洋式灯台の観音崎灯台は、その白亜の塔を誇り高くひけらかし、海の銀座・浦賀水道を見守ります。湾上からは一際その光は目立ちます。かつてフェリー船上から観た夕闇を切り裂く光は輝かしく、今も私の心の瞼に残像を映しています。

B浦賀水道を進む巨大タンカー
タンカー
誠、浦賀水道は日本屈指のラッシュアワー的航海路、海の銀座と呼ばれて久しいものがあります。船好きは、日がな一日ここで眺めて飽きる事はないそうです。浦賀ドックに務めていた私の伯父は、ある日そんな機会に私に舟の種類を教えてくれました。あれは貨物船、それはカーフェリー、あのデカイのが原油タンカー、美しいのが豪華客船、細かいのが釣り船だね…。優しい伯父は父の兄でした、懐かしい…。

この先、観音崎バス停で今回の海辺の旅は終了しました。足はパンパン、腰もギクシャク、本当は走水神社経由で馬堀海岸駅まで歩く予定でしたが、自重しました。それでも久里浜駅から観音崎バス停まで、漫歩計は26000歩を示していました。まずまず、歩けましたね。距離では15q位かしらネ! 走水神社は次回の湘南漫歩で…。
posted by 三上和伸 at 23:30| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年03月03日

湘南漫歩5-10 早春の海辺巡り・東西叶神社と浦賀の渡し 2012.02.17

旅もいよいよ佳境を迎え、今話題の東西の叶神社を浦賀の渡しで西から東へ結んで辿り、二つの叶神社を詣でました。この道程で参拝を済ませれば、“願いが叶う”の叶神社の叶うの御利益が得られるとの言い伝えを、実践する事になります。果たして、私の願い?は叶えられるでしょうか? 何の願いかって? 大見栄を切れば世界平和、小さく願えば我が家の幸福。そして私を含めた人間の愚かさからの脱却と再生…。
  
@西叶神社
西叶神社
東西の叶神社としては、この西叶神社が古くからあり、浦賀の総鎮守の位置にあったそうです。御祭神は誉田別尊(ほんたわけのみこと・応神天皇)及び比売大神(ひめのおおかみ)と息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと・神巧皇后)を併せた八幡大神とするそうです。

1181年、神護寺文覚上人が、京都石清水八幡宮より勧進し、源頼朝の源氏再興を願って創建されました。そして後の1186年に、源氏再興の大願が叶った事から、叶大明神と称されるようになったそうです。源氏縁の神社だったのですね。 

A浦賀の渡し
渡し船 船中からの眺め
浦賀の渡し・愛宕丸   海の彼方に房総の鋸山が観える
浦賀は、細長い入り江状の港湾を巡るようにして東西と北に町があり、西と東の間には海があります。従って、東西の交通は湾を北へぐるりと回らなくてはならず、不便がありました。その不便を補うために、古くから渡し船がありました。

始まりは、伊豆下田から奉行所が浦賀に移されてしばらくのちの頃、享保10年(1725年)には運航されていたそうで、船は一艘で船頭は二人だったそうです。明治になると、東西浦賀の17町内会の共同体が運営するようになり、公営交通機関となりました。この頃の営業時間は朝6時から夜10時までで、運賃は1厘5毛、夜間はその倍額だったそうです。大正時代になると最盛期を迎え、一日の利用客は1000人にも達したそうで、もう一つ300メートル内湾に別のルートがあったそうです。

昭和18年4月には浦賀町が横須賀市と合併し、横須賀市からの委託運営となりました。昭和30年代後半には機械化され、相変わらず木の船でしたが、ポンポン船となりスピードアップも図られました。私が多くこの渡船に乗ったのはこの機械化の前後で、幼子の時代は二人の船頭で一人が櫂(かい・平たい棒状の漕ぎ棒)を操り、もう一人が舵を定めていました。ギッチラコ、ギッチラコと進み、水面がすぐ目の前にたゆたい、海の怖さと爽快さの記憶が今も私の体に染みついています。その後は勿論ポンポン船も乗りました。でも、あの手漕ぎのスリルと爽快さはもうありませんでした。そして今回の渡し船もすこぶる安心の乗り物、スリルとは無縁のものでした。因みに、何故私がこの渡し船にかなりの頻度で乗ったかと言うと、三上家の墓(菩提寺)が東浦賀あったのですが、当時の父の実家は西浦賀にあったからでした。お墓参りの帰りに父の実家に立ち寄る事も多く、それでこの渡しも多く利用したのでした。

現在の船は強化プラスティック製で、平成10年8月9日初就航の愛宕丸です。ダイアはなく、船着き場に船があれば、直ぐ乗れますし、対岸にあればブザーを鳴らし呼び寄せる事ができます。営業は、朝7時から夕6時まで、料金は大人150円、子供50円、その他(自転車等ペットも?)50円です。

因みに、航路は“浦賀海道”と名付けられ、歴とした水上の市道(2073号線)だそうです。海の市道、何とも素敵ですね!

B東叶神社
東叶神社
元禄元年(1688年)に浦賀が東と西に別れた時に西浦賀にある西叶神社から分祀されて建てられた神社だと言う事です。御祭神は西に同じの誉田別尊(ほんたわけのみこと・応神天皇)です。社殿は本殿と拝殿(写真)に別れてあり、本殿は深い森(神奈川県指定・常緑広葉樹林)の山上にあり、藪椿の森を含め、極めて神秘的です。また、勝海舟縁の井戸もあり、大層楽しめるお社です。

Cシロヤブツバキ(白藪椿)
シロヤブツバキ
私の愛する屈指の花の一つ藪椿、その原生の白花…、何て素敵なのでしょう。大分以前に、私が初めて白い藪椿に出会ったのが、この東叶神社の神の森でした。あの感動を再び、そして三度、四度…、何度観ても最初の感動が波のように私に押し寄せてきます。私は深い感動と感謝を籠めて、この写真を写しました。ありがとう、そしてまた来年もネ…。何時までも元気で私と会ってね…。

参考:ウェブサイト「横須賀の文化と歴史・浦賀の渡船」(横須賀市観光情報「ここはヨコスカ」)
参考:叶神社公式ホームページ

posted by 三上和伸 at 23:58| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月28日

湘南漫歩5-9 早春の海辺巡り・浦賀紺屋町の蔵 2012.02.17

浦賀紺屋町の石蔵と漆喰塗の蔵
石蔵 漆喰塗の蔵
江戸(東京)湾の玄関口に当たる浦賀は、天然の良港としての恵まれた地形持ち、江戸後期には、下田から奉行所も移され、絶大な繁栄を誇っていました。当時の産業としては農耕の肥料としての干鰯の生産が主で、町には多くの干鰯を貯蔵する蔵が建てられました。蔵の主な造りとしては、石造りのものと木造に漆喰塗のものが作られました。丈夫な石蔵は当時の原型をほぼ留めており、鑑賞の価値は高いものがあり、漆喰塗のものは漆喰が剥げ落ち、その後をトタン板で覆ったものが多く、観賞価値はやや劣ります。それでも、当時とは目的は違えど、未だ使われている訳で、充分その現役の生活感は伝わって来て感動がありました。

現在でもかなりの数の蔵が残り往時の面影を残しています。歴史ある古き良き佇まいを魅せており、歴史散歩の醍醐味が味わえます。

posted by 三上和伸 at 18:57| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月27日

湘南漫歩5-8 早春の海辺巡り・愛宕山と石碑群 2011.02.17

@愛宕山から浦賀湾を望む(中程に東叶神社)
愛宕山からの浦賀港
燈明堂に別れを告げ、元来た道を戻り、今度は分岐を海沿いにとれば、そこは近年開業し出したヨットハーバーで、しかもその背後には白亜の高層のマンションが立ち並び、南フランスかアマルフィかエーゲ海?を何やら想わす異国情緒を醸していました。かつては浦賀ドック一辺倒の城下町であった港湾の町浦賀も、新たな波が寄せ、新しい顔が出来上がりつつあります。そしてそのマンションと言うのが、確か以前、横須賀出身の某有名若手俳優が高層階から落下する事件が起きたところであり、当時何度となくテレビニュースに登場していたものです。まあ、兎にも角にもその前を通過し、旧・紺屋町界隈に到達しました。

A咸臨丸出航の地の碑と中島三郎助の碑、そして与謝野夫妻の歌碑
咸臨丸の碑 
今回は残念ながら、私とした事が浦賀奉行所跡の川間地区を訪ね損ねました。幕末の開国の歴史に大きく係わったこの重要ポイントを私は外してしまいました。と言うのも、父の生まれ故郷であるこの浦賀川間地区は、私にとっても幼い日に慣れ親しんだ土地、しかし何故か心が騒ぎ、足を踏み入れられませんでした。恐らく変貌が怖かったのかも知れません、昔のあの大切な思い出が消えてしまいそうで…。臆病な私は失望するのが怖かったのでした。

その代わり、かつて一度も登った事のない愛宕山に登りました。ここは石碑の宝庫であり、歴史上名高い時事とそこで活躍したそれぞれの人物達を思い偲ぶ事ができます。先ずは、咸臨丸出港の地の碑(昭和35年建立)。品川沖を出発した咸臨丸は、ここ浦賀で準備を整え、1860年1月19日、アメリカへ出帆したのです。咸臨丸は、日米修好通商条約批准書の交換のための米軍艦・ポーハタン号を護衛する目的で、勝海舟や福沢諭吉、ジョン・万次郎などの日本の俊英を乗せ、日本船として初めてサンフランシスコまで、太平洋を横断したのでした。

そしてその咸臨丸を修理した事もある、元浦賀奉行所与力の中島三郎助の碑(明治24年建立)。中島は後の浦賀ドックの基礎を築いた事でも名高い幕末の志士です。剣術や砲術に長け、造船などの機械技術にも明るく、才気ある傑物であったと謂われています。佐幕派であり、最期は戊辰戦争の函館五稜郭で無念の討ち死にをしました。

そしてさらに与謝野寛(鉄幹)と晶子の歌碑(昭和59年11月3日建立)があります。昭和10年の3月3日に与謝野夫妻と同人の方々は観音崎、浦賀、久里浜へ吟行の旅をしたのだそうです。その時詠まれた歌が石碑に刻まれています。尚、この月の26日に鉄幹は没しました。恐らく、以下の歌は鉄幹の白鳥の歌(最期の)…。

参考までに、以下の歌が碑に刻まれています。

黒船を恐れし世などなきごとし浦賀に見るはすべて黒船 寛(鉄幹)

春寒し造船所こそ悲しけれ浦賀の町に黒き鞘懸く 晶子

posted by 三上和伸 at 23:25| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月24日

湘南漫歩5-7 早春の海辺巡り・浦賀灯明堂 2012.02.17

浦賀灯明堂 説明書き
浦賀灯明ヶ崎の灯明堂      灯明堂の説明書き
久里浜のペリー上陸記念碑を後にし、しばらく進むと久里浜と浦賀を隔てる山が立ちはだかりました。そこを右に行けば千代ヶ崎で、有名な久里浜少年院や横須賀刑務所があります。恐らくその先に道は無く、海岸伝いに目的地の灯明ヶ崎には行けないだろうと踏んで、川間トンネル越えの道を選びました。ところがトンネル通過中に成田空港にいる妻からメールが届きました。あの♪今始まる新しい夢乗せて♪のはせがわみやこの歌がトンネル内に木霊し、私を「ドキッ」と脅かせました。慌てて開くと「いよいよ出発、行って来ます!」ですと…。私はトンネル内の強風に震えながらも何とか返事のメールを打ち返しました。「行ってらっしゃい!、気を付けてね。今僕は、浦賀を歩いています。これから江戸時代にあった灯台の址に向かいます。最高の漫ろ歩きをしています」と…。

やっとこさメールを打ち終えトンネルを抜けると、しばらくして浦賀湾が見えてきました。そこから右へと進路をとり、造成中の原野と山林の間の道を辿ると、やがて灯明堂は観えてきました。勿論、近年に復元したものですが、松林の植え込みの中、それは床しい江戸造りの建て物で、浮世絵のように美しい灯台でした。

詳しくは右の写真を拡大して説明書きをお読みください。この灯明台の後を引き受けたのが、この旅の最後のポイント、観音崎灯台なのですよ。

灯明堂在っての灯明ヶ崎の名ですね、灯明ヶ崎の名は近代に名付けられたようです。
posted by 三上和伸 at 19:28| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月23日

湘南漫歩5-6 早春の海辺巡り・東京湾フェリーとペリー記念碑 2012.02.17

くりはま花の国を裏門(東門)から退出をして、しばらくは庚申塔やら傳福寺を訪ねまわりました。そしてようやく、ここで海の端に立ち、この湘南漫歩の副題となっている早春の海辺巡りの本筋のページを開く事にいたしました。

@東京湾フェリー、久里浜港
東京湾フェリー
丁度、房総金谷からの便が入港して、船尾を向け接岸中でした。
かつては首都圏と南房総を結ぶ大動脈であった東京湾フェリーも、アクアラインや内房の高速道路化が進み、近年はかなりさびれた雰囲気が漂っています。この日も乗船する車と人は、駐車場や待合室でまばらであり、一抹の寂しさが募りました。時代ですね…。

私にはこの東京湾フェリーの思い出が多くあり、まだ若かりし頃、一歳前の長女を初めて泊りがけの旅に連れて行った折も、このカーフェリーを使いました。カモメが飛んでる蒼い海、広い空、家族三人ご機嫌の船旅でした。あの甲板での長女のはしゃぎっぷりは、未だに私の瞼に焼きついて離れず、想い浮かべれは胸が温みます。またその七八年前にはこのフェリーを使い、調律師に成りたての私は、最初で最後の房総の仕事に向かった事がありました。金谷からバスに乗り、確か岩井浜辺りのバスストップで降り、延々と一時間以上、山間部に向かって歩いた記憶があります。途方に暮れるとは正にこの事を言うのだなと、重い鞄に痺れた腕をかばいながら、心細く歩きました。やっとの事でお客様の家を見付け、素早く調律を済ませましたが、最早夜の帳は疾うに落ち、外は真っ暗闇となりました。こんな東西南北も判らぬ田舎道を、沿岸のバス通りに無事辿り着けるのかしらと心配しましたが、そこは渡りに舟、神様はチャンと救いの手を差し延べてくれていました。何とそこの息子さんが帰宅をすると、そこですかさずお母さんは「何某よ、この調律師さんをバス停まで送ってあげとくれ!」と…。私は即座に「シメタ、ヨカッタ、スクワレタ!、おお神よ神様よ!」と安堵し、内心で万歳三唱をしていました。ニッコリ…、夜遅く横須賀の家へ辿り着けました。

A若布干し
若布干し
一年生の海藻で夏には枯れるため、漁期は主に最も育った冬から早春だそうです。丁度今が盛りの頃らしく、海辺は若布干し一色の様相でした。磯の香りが強烈に鼻から肺臓までに達し、私も全身若布になってしまった錯覚に陥りました?。

Bペリー記念碑
ペリー記念碑
フェリー乗り場から暫く東に向かうと、道路を挟んで砂浜と向かい合った公園があります。ここが歴史上名高い日本開国の発端となったアメリカ合衆国東インド艦隊長官のペリーが上陸した地点で、ペリーは江戸幕府にアメリカ合衆国大統領フィルモアの親書を渡しました。1853年の7月8日に浦賀沖に現われた黒船艦隊は日本を大騒ぎに巻き込みながら、ようやくその7月14日には浦賀奉行の応対により、狭い浦賀湾を避け、広い久里浜湾に上陸を果たしたのでした。

その丁度48年後の1901年の7月14日、この地に米友協会によりこの写真の記念碑が建てられました。
posted by 三上和伸 at 22:35| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月21日

湘南漫歩5-5 早春の海辺巡り・庚申塔と傳福寺 2012.02.17

1、庚申搭群
神明町の庚申塔
日本人には神道と仏教の二大宗教がありますが、そこから派生する様々な教えや信仰が存在し、正に八百萬の神々、日本は人の数ほどに神様が溢れかえっている国なのですね?。そんな教えの一つが庚申会(庚申待ち)で、庚申(かのえさる・*60日に一度巡る日)の日に、自分の悪行を自分の体内に棲む三尸(三匹)の虫が上帝に密告しないように、猿田彦(神道)や青面金剛を祭り、寝ずに見張りをし徹夜するのだそうです。そして都合六回(360日)、その行を行えば、密告されずに命が延びるという事だそうです。その暁にこのように路傍に庚申塔を建てるのだそうです。日本の道端には何処でも庚申塔が見出せます。如何にこの庚申待ちの教えが広く流布していたかが、知れるところです。

でも何か嬉しいのですよね、この庚申塔や道祖神に会える事は…。昔の友や知己に出会ったような気持ちになります。 

2、傳福寺
傳福寺
この写真、過去と現在の有様を象徴しているように見えますね。本堂と薬師堂の間に垣間見える煙突は、今、渦中にある東京電力の久里浜火力発電所のものです。原発が使えなくなってからは、フル操業のようで、この日も激しい噴煙が、折からの強風に横一文字となって棚引いていました。

明星山傳福寺は浄土宗のお寺、戦国時代の創建だそうで、五百年近い歴史があります。昔は漁民のための仏様として親しまれていたようです。



posted by 三上和伸 at 22:14| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月20日

湘南漫歩5-4 早春の海辺巡り・花の国の彩 2012.02.17

1、アオキの実
アオキの実
花の国と言えどもこの季節、園内に花は少なく最も目に着いたのがこのアオキの紅い実でした。観れば艶々してはいても、所々に緑が覗き、何処となく地味な印象を感じさせるのが、この実の特徴と言えるかも知れません。万両のように深紅だったら、誰もこの実を放っては置かないでしょう。何気なく森に在り、何気なく観葉として人は庭に植えて飾る、そんな自然体な樹であり、この実なのですね。その奥床しさが私は好きです。

2、ヤブツバキ
ヤブツバキ
早春の三浦半島で一番初めに咲き出すのがヤブツバキ(藪椿)、私の愛する指折りの花の一つです。この椿、群れて咲くのも素晴らしいのですが、手折って一輪挿しにすると俄然この花は輝きを増してきます。群れて咲くもその一輪の美しさは、そんじょそこらの花とは別格の存在感を見せつけるのです。早春の頃、私はしばしば故郷の海辺を訪ねます。それはきっと私の心に潜在的に潜む、この花に会いたい気持ちがそうさせるからだと思っています。会うと何故か心が開かれるのです。

3、アイス・チューリップ
アイス・チュウリップ
アイス・チューリップ、正に名は体を表すと言う事で、このチューリップは球根を地中で凍結処理して咲かせたものなのです。極度の低温にあった球根は、未だ寒い冬の季節でも、凍結から解かれれば春が来たと錯覚し、咲き出してしまうのだそうです。しかも春のチューリップ(一週間の花持ち)に比べ花持ちが格段に良いそうで、ひと月は咲き続けるそうです。正に今が盛り?、見事な美しさでした。

4、エリカ(ジャノメエリカ)
エリカ花
エリカ(ジャノメエリカ)ツツジ科エリカ属 南アフリカ原産
「青い海をみつめて 伊豆の山かげに エリカの花は咲くという」と謡われる歌謡曲がありました。そう、大分昔の人(私を始め)ならきっと憶えている事でしょう。歌姫・西田佐知子が歌っていましたっけ…。当時の人々はこの歌のお陰で、エリカの美しい花の存在を知る事になりました。独特の歌い回しが魅力だった西田佐知子は、当時は俳優で現キャスターの関口宏と結婚して歌を断ってしまいました。惜しい…、恨んだぜ関口! でもまた聴きたいな…。

エリカには他にヒース(イギリスでは泥炭の原野の意、そこに咲くからヒース)と呼ばれるエリカ属の落葉低木があります。ハーブの一種ですが、北の大地の原野にお花畑となって咲き誇るそうです。何時か?イギリスに旅して観てみたいですね。
posted by 三上和伸 at 09:21| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月19日

湘南漫歩5-3 早春の海辺巡り・花の国のゴジラの滑り台 2012.02.17

ゴジラの滑り台 尾の滑降面
ゴジラの滑り台     尾の滑降面
第一作目(1954年)のゴジラ映画に於いて、関東に最初にゴジラが現われたのが観音崎の多々良浜(自然博物館やレストランマテリアの並びの浜)の設定でした。映画の大当たりを記念して、昭和33年にこの多々良浜の地にゴジラの滑り台が作られました。それは私の少年時代(私8歳)の事で、私も学校の遠足などで何度か訪れては、遊んだ記憶があります。それでもその後は風化の痛みがひどく、危険となり、昭和48年には取り壊されてしまいました。しかしこれで遊んだ多くの横須賀市民は残念に思い、再登場を願い有志達の運動が高まりを見せました。そして遂にその願いは叶い、この“くりはま花の国”に場所を移し、1999年に復活したのでした。こうして眺めていると、あの少年の当時の恐怖がまざまざと蘇ります。ますます迫力を増幅させて迫りくるのです。よって怖がりの私は寒さも手伝って悪寒が奔り、冷や汗ものとなりました。やっぱり怖いですよね。


posted by 三上和伸 at 22:26| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月18日

湘南漫歩5-2 早春の海辺巡り・くりはま花の国 2012.02.17

この日の朝は早起きをして、先ずシンガポールに旅立つ妻と義母を横浜Yキャットに送り届け、踵を返し車は西区の妻の実家に置き捨て、その足で京急戸部駅から京急に乗って久里浜に向かいました。妻は義母と義姉親娘との水入らずの血族旅行?、私は鬼の居ぬ間の洗濯旅行?、双方、願ってもないワクワクドキドキの旅立ちとなりました。但し、お金の掛け具合は天と地の差はありましたけれども…、勿論、それでいいのだ!

久里浜駅からは徒歩で第一歩を…、黒船商店街を抜け、フェリー乗り場方面に歩を進めれば、やがて“くりはま花の国”の看板が…、そこを右折し暫く行くと突き当たりに、正面玄関が見えて来ました。そして入るなり案内書きを確かめて一つ驚いた事に、なっ何と入園料がありません。只なのです、しかも24時間無休…、何時でも入れるのです。花が咲けば大変な見所となるゴージャス?な施設、お得です。是非、ご来場を…。

くりはま花の国
くりはま花の国(遠く、久里浜の町並みが望めます)
広大な里山を余り無理せず切り開いては、自然豊かな花の公園に仕立て上げられています。緩い勾配の続く遊歩道が広い園内を延々と貫いており、散歩コースとしては万人向きで、大変優れていると想われました。写真で観られるように所々に観望地点もあり、花を観たり景色を眺めたり、飽く事無く一日を楽しめる事でしょう。流石に今は早春、写真の段々の花畑にはビニールが被せられていましたが、ここはシーズンになれば一面の花々に覆われます。盛りは二期で、春から夏までがポピー、夏から秋がコスモス、この高角度からの花の眺め(眺望)はいかばかりか、さぞかし瞠目せざるを得ない景色が現われるでしょうね。
posted by 三上和伸 at 23:48| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月17日

湘南漫歩5-1 早春の海辺巡り・予告編 2012.02.17

愛宕山からの浦賀湾
 今日はお休みをとって、少年時代から馴染み深い思い出の地、久里浜、浦賀、観音崎を巡って来ました。今回は完全徒歩の一人旅で、自由気ままに記憶を紡ぎ、そして万感の思いを籠め彷徨い歩きました。早春の海辺の風景が素敵でした。明日以降、順を追ってお届けします。どうぞお楽しみに…。
posted by 三上和伸 at 23:56| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月02日

横浜漫歩9−7 夜の山手散策 イタリア山キャンドルイルミネーション、ブラフ18番館と外交官の家 2011.12.23

1、イタリア山キャンドルイルミネーション
キャンドルイルミネーション
何時も花が一杯のイタリア式庭園、このクリスマスの夜には花に代わってキャンドルの輝きが彩ります。温かい光のページェントが夢のように繰り広げられるのです。それは横浜の夜景と相俟って観る者を幻想の世界に誘います。ただ、写真を撮るのが難しかったのです。もう少し上手に撮れたら良かったのにね…。

2、ブラフ18番館のフランスのクリスマス(ブラフとは断崖とか絶壁の意味、山の崖の上にあった山手は居留外国人からブラフと呼ばれていた)
花のリースと薔薇色の食卓
花のリースと薔薇色の食卓
フランスらしい色使い、思わずマリー・アントワネットの食卓を連想してしまいました。あの豪奢でエレガントな暮らし、私には無縁ですが、一年に一度位はそんな暮しも良いかもね? そのマリーは別の顔があり、詫び寂びの利いた田舎暮らしに憧れていたとか。人間の贅沢や嗜好は際限が無いのかしらネ…。桑原桑原…。 

霧氷のオブジェ
霧氷のオブジェ
北半球ではクリスマスは寒い冬の行事、こんなオブジェはお似合いですね。繊細ながらも伸びやかな美意識、美の国フランスのフランスらしい作品ですね。

3、外交官の家のアイルランドのクリスマス
外交官の家
ライトアップの外交官の家
前出のベーリックホールと肩を並べるライトアップの見事さ、正に闇に浮かぶ城郭のようです。この建物は横浜西洋館の中では唯一の国の重要文化財に指定されています。本当に立派な屋敷ですね。

アイルランドの名物小麦粉
オドラムスの小麦粉
アイルランドの有名製粉会社・オドラムスの小麦粉。左がセルフ・レイジング・フラワー、右がブラウンブレッド・ミクス。左前が焼けたブラウンブレッド。厳ついですが、美味しそう…、どんな味?、どんな歯触り歯応え?、どんな風味香り、ああ、食べたい!
posted by 三上和伸 at 22:01| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年01月01日

横浜漫歩9−6 夜の山手散策 ベーリックホール 2011.12.23

1、ベーリックホール
ベーリックホール
今回の洋館詣で一番立派なライトアップをされていたのが、このベーリックホールでした。一際明るく輝き存在感を誇示して私達の来訪を迎えてくれました。来訪者の誰もがセレブになったつもりで大様にこの入口への小路を歩む事でしょう。私も名士の風格を漂わせて道を進みました。しかしこの日私が着ていたダウンジャケットは流行遅れのぶわぶわに膨れたもの、どうみても品のいいホームレス?にしか見えず、大層なお大尽には見えそうもありませんでした。我ながらそのお粗末振りに苦笑をしたものでした。

2、ベーリック氏とフィンランド名誉領事について
ベーリック氏の説明書き
ベーリック氏がフィンランド名誉領事に就任する経緯やこの館・ベーリックホールがフィンランド名誉領事館として使われた事が書かれています。

3、エストニアの説明書き
エストニアの説明
ベーリックホールのクリスマスはバルト三国の一小国・エストニアを取り上げていました。日本人にとって余り馴染みのない国でしょうが、相撲の幕内力士・把瑠都関の出身国としては知っておられる方もおありでしょう。古くから歴史のある国でしたが、小国故の辛酸を甞めており、侵略されたり独立したりを繰り返していました。第二次大戦の勃発によりソビエト連邦に組み込まれ、戦後は長くソ連の一共和国として支配を受けて来たのでした。ところがソ連の共産主義体制が瓦解し、それを機に独立運動が起こり、遂に1991年に独立を果たし今日に至っています。

小国ですが世界遺産は二つあり、一つは首都タリンの美しい歴史地区、そしてもう一つは“シュトルーヴェの測地弧”。これは子午線弧長を測るために設置された三角点群の事。この測地弧のお陰で地球の大きさなどが正確に測れるようになったのだそうです。兎に角壮大な遺産であり、その三角点群の範囲はノルウェー・スウェ−デン・フィンランド・ロシア・エストニア・ラトビア・リトアニア・ベラルーシ・モルドバ・ウクライナの十カ国に跨っているのだそうです、凄い…、訪ね歩いて観たい!。

そんな小国・エストニア共和国ですが、是非とも日本人にエストニアの事を知ってもらい、理解を深めて頂きたいと願い、ここに出展したのだと言う事です。

4、エストニアのティーカップ
エストニアのティーカップ
自然の薫る愛らしい絵柄のティーカップ、エストニアはとても良い所らしい、行ってみたいしこのカップでお茶してみたい…。何時か必ず…、この夢を…。
posted by 三上和伸 at 22:28| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

横浜漫歩9−5 夜の山手散策 エリスマン邸 2011.12.23

1、エリスマン邸
エリスマン邸
丁度エリスマン邸の庭先でライブが行われていました。露天でコーヒーを売っていたので、それを啜りながら暫く聴いてみました。まあ、それなりの演奏でしたのでさして音楽には興味を惹かれず、その代わりコーヒーの美味さに驚き、しかも半端なく熱めだったので大いに温まり楽しめました。そう言えばここの喫茶室のコーヒーが素晴らしかったのを想い出し、「なるほどな〜、あれと同じものだな」と嬉しくなり感心頻りとなりました。座席は少ないですが、雰囲気の良い喫茶室、お勧めです。

2、クリスマスリース?、それともタペストリー
四角いリース
エリスマン邸の担当はスウェーデンのクリスマス、このこさえ物は果たして何なのでしょうか? 素材は樅の枝と松ぼっくり、そして可愛い小人のサンタさん。本当に寒そう、北国雪国のクリスマス飾りに観えますね。

3、プレゼントの山
プレゼント
沢山のクリスマスプレゼント、このスウェーデンの家族は子沢山なのかしら、山のように贈り物が積まれています。ところで貴方は何歳までサンタさんの存在を信じていましたか? 私は少なくとも小学中学年まで信じていましたね。ところが私の娘達は早く目覚めたのか、小さな内からサンタさんは私達だと知っていたようです。それでも優しいのか小賢しいのか判りませんが、私の前ではサンタさんの事を話題にしていて、さも信じているようでした。女の子って結構適当に嘘つきで、大人びていますよね。それを叱れば、「どうでもいいことじゃん、それで困る事ある」だって…。男の純情を解ってくだされ!
posted by 三上和伸 at 01:51| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月31日

横浜漫歩9−4 夜の山手散策 山手234番館 2011.12.23

1、山手234番館
山手234番館
漸く夜の帳が降り闇が深くなり、イルミネーションの効果も表れました。実はこの写真はここを充分に見学した後に撮影したものなのです。見学中にやっとの事で闇が降りたのでした。イルミネーション、中々良いでしょ…、この先エリスマン邸とベーリックホール、それにイタリア山のキャンドルイルミネーションは何とか撮れたのですよ。

2、ピノキオが差し出したプレゼント
ピノキオ 
山手234番館はイタリアのクリスマスを担当。イタリアと言えばピノキオ、子供と言ってもピノキオ、何と言っても世界中の子供達の周知のアイドルですものね。この山手234番館もピノキオは欠かさず登場させていました。可愛いピノキオがプレゼントを差し出しています。否、貰っているのかな? 

3、プレセピオ
人形ジオラマのプレセピオ プレセピオの説明
イタリアを始め西洋では人形ジオラマでイエス・キリストの降誕の場面を再現するのが盛んだそうで、これをプレセピオと称するのだそうです。隣の説明書きには24日まではイエスは飾らず、聖母マリアを始めとした周囲の人々や馬草(飼い葉)桶を飾るだけにし、25日になると初めてイエスを飼い葉桶に入れて飾ると書かれてあります。仮想ですがリアルタイムでイエス・キリスト降誕を共に体現し、イエス・キリスト誕生をお祝いしたのです。まあ、私もキリスト教の幼稚園児の頃、ライブプレセピオと言われるイエス・キリスト降誕の聖劇で、三人の博士の内の一人を自分の体で演じましたので、同じような事をしていたのです。

4、山葉8号
山葉8号
常設で展示されていると想われるリード(足踏み)オルガンです。正にレトロ、私が通った(46年前)カトリック(マリア)幼稚園にも同様のストップ付きの足踏みオルガンがありました。それを伴奏にして毎日讃美歌を歌ったものでした。無断で触って園長(神父)にこっ酷く叱られた思い出もあります。

これは昭和13年頃の制作と言われるヤマハ製で、通称「山葉8号」と呼ばれていたそうです。足踏み式でリードと言われる音源の歌口に風を送り発音させます。さらに各ストップを押せば音色が変えられます。
posted by 三上和伸 at 23:56| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

横浜漫歩9−3 夜の山手散策 山手111番館と聖公会のリース 2011.12.23 

1、山手西洋館世界のクリスマス2011のポスター
山手西洋館世界のクリスマス2011のポスター
イギリス館の次は直ぐ右隣の山手111番館を訪ねました。ここには今回のクリスマスイルミネーションを実施する西洋館がポスターで紹介されていました。勿論、案内のパンフレットも用意されており、私達はそれを頼りに各西洋館を順に訪ね歩いたのです。

各西洋館はそれぞれに与えられたテーマの国のクリスマスの飾りや食卓などの模様を紹介しており、イギリス館は当然ながら英国のもの、そしてこの山手111番館は日本がテーマ国となっていました。洋館で日本のクリスマスと言うのも日本の庶民には極めてかけ離れたもの、しかし誰しも憧れはありましたよね。クリスマスの習慣はキリスト教伝来と富裕層が建てた洋館が出来始めた頃に伝わったもの…。明治大正のロマンを感じさせてくれていいものでした。

2、日本をイメージしたクリスマスツリー
鶴のクリスマスツリー
折鶴を螺旋状に飾って造られたクリスマスツリー、シンプルで気品があり、日本の良さが表れていました。恐らく西洋人ではこうもあっさりと淡く造る事はないのではありませんか。控えめだけど確かな技と存在感、日本人の特性ですかね。

3、大倉陶園の陶磁器
大倉陶園のティーカップ
これもやはりシンプルの妙技、英国・エンズレイ等の西洋の重厚な豪華さに比べ日本の軽やかな晴れやかさ、どちらも捨て難い味わいがあります。

4、山手聖公会のリース
聖公会の玄関のリース
山手111番館を出て暫く山手本通りを西に歩くと左手に山手聖公会がありました。聖公会はケルト・キリスト教やイギリス国教会の流れを汲むカトリックともプロテスタントとも異なる宗派で、世界中に教会を有しています。日本ではこの山手聖公会が最初であり、ここから日本の聖公会の布教の歴史が始まったのです。

玄関の閉まった扉にはクリスマスリースが一つ飾られていました。何とも質素ながら様になった良い光景でした。信仰の確かな在り処が感じられました。

posted by 三上和伸 at 22:32| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月28日

横浜漫歩9−2 夜の山手散策 イギリス館 2011.12.23 

アメリカ山から始まったクリスマス前々夜の山手散策、未だ夜には間があり、イギリス館はイルミネーションは灯っていなかったのですが、中に入り、展示されていたイギリス風のクリスマス飾りや食卓の様子を観覧しました。

1、イギリス館
イギリス館
ご覧のように、まだイルミネーションは点灯されておらず、残念ながら隣の山手111番館とともに光の饗宴には早すぎたようでした。ただイルミネーションの電球はたいした数はなく、その華やぎは推して知るべしでありましょう。

2、窓辺のクリスマス飾り
窓辺のクリスマス飾り
二階に伝う階段の踊り場にはクリスマス飾りのリースや花のオーナメントが飾られていました。恐らくプロの製作品であろうと想われました。確かな技が美しい仕上がりを魅せていました。

3、ダニエルの揺り椅子と英国エインズレイの陶花と食器
ダニエルの揺り椅子 エインズレイの陶花と食器
英国ロイヤルウェディングを祝い英国王室御用達の窯元・エインズレイの陶花と器が並べられていました。豪華絢爛の中にも溢れる気品があり、英王室の気位の高さが偲ばれました。そして豊かな宴の後には揺り椅子での寛ぎが…。イギリス人ゴールマンが伝えた元町ダニエルの家具、確かな造りにエレガントが薫って観えました。
posted by 三上和伸 at 23:46| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月25日

横浜漫歩9-1 夜の山手散策 アメリカ山から山手カトリック教会を望む 

 今回は義母とご一緒したので車を使い、中華街の駐車場に終日駐車をしました。終日(24時まで)で2000円だったので、三人の交通費を考えれば大分お得です。シメシメと内心ほくそ笑み、さあ出発と歩き出しました。笑顔の三人?で元町商店街を寄り道(二人のご婦人があちこちのお店に捕まりながら…私は閉口渋面…)しながら、元町中華街駅のアメリカ山行きエレベーターに乗り、楽チンでアメリカ山に昇りました。

アメリカ山からの展望
大好きな山手、その麗しい山手の内でも、このアメリカ山からは、私が最も愛して止まない山手カトリック教会が望めます。もうここに立てば私は有頂天となり、暫しここからは飽かずに眺め動きません、連れの者がどんなに待ち侘び迷惑をしても…(ここでさっきの商店街の仕返しを…)。この日も連れの妻と義母が迷惑顔に、しかしそれは馴れっこなので、遥か?山手本通りの港の見える丘公園辺りまで私を置き去りにして進んでいました。私は慌てて競歩の速さで追い付き追い越し、イギリス館へと馳せ参じたのでありました。

横浜漫歩9の山手クリスマス散策の幕は切って落とされました。 
posted by 三上和伸 at 10:11| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月17日

鎌倉漫歩5-7 高徳院・長谷の大仏(鎌倉大仏) 2011.09.25

 旧大仏切通が終わる所は火の見下のバス停辺り…、ここは新切通の県道鎌倉藤沢線内にあります。丁度ここが旧切通と新切通が交わる地点であり、次に私は広い県道の新切通を鎌倉方面へ戻る形で高徳院を目指しました。暫く歩き大仏トンネルを抜ければ大仏坂、そこを下れば俄かに大繁華街の様相を呈してきます。人で溢れ、鎌倉大仏の高徳院は直ぐそこにあると察しが付きました。

@長谷の大仏(鎌倉大仏)
大仏
造立の始まりや経緯など不明な点の多い大仏、ある寺院の本尊として建てられた訳ではなく、最初に大仏ありきであったようです。造立後紆余曲折の末、浄土宗高徳院の本尊・阿弥陀如来坐像に収まったようです。

そもそも大仏は何から出来ているかご存じですか? 何と銭から出来ているのですと…。多くの庶民の寄進や中国の宋銭を集め煮溶かし鋳造されたのだそうです。従ってその金属の組成は鉛の比率が高い銅と錫の合金で青銅と言って良いのだそうです。銅像と言うよりも青銅像なのです。また造立から暫くは大仏殿があったそうですが、台風や地震により倒壊消滅し、それ以来露座となり「露座像の大仏」として青銅色の雄姿を魅せ続けています。

高さ13.35メートル、重さ121トン、関東大地震ほか幾多の大地震にも耐え抜いてきた大仏様、素晴らしいですね。

A観月堂
観月堂
大仏の裏手にある元ソウルの朝鮮王宮にあった建て物。1924年に譲られこの地に移築されたそうです。内部には江戸期に作られた観音菩薩像が安置されています。従ってこの地は鎌倉三十三観音の二十三番札所となっています。

B与謝野晶子の歌碑の案内板
歌碑の案内板
大仏造立700年を記念して建てられた歌碑、大仏を釈迦牟尼(牟尼は尊称)と称していますが本当は阿弥陀如来と必ず各種の案内書には注意書きがされています。阿弥陀如来では語呂に問題があったのかしらネ…、晶子さん…。
鎌倉や 御仏なれど 釈迦牟尼は 美男におはす 夏木立かな
大仏の涼しげな顔を美男と崇め憧れた晶子、男女の機微に精通した晶子らしい熱情が感じられる歌です。歌に素人の私でも晶子の思いは伝わります。

C大仏後姿
大仏後姿
大仏は猫背です。そしてその猫背の背中が開いています。恐らく通風を得るための開口部なのでしょう。一寸興醒めですが、中で胎内巡りが行われているのでね…、新鮮な空気が必要ですからね…。私は胎内巡り…しませんでしたが。

ここで今回の鎌倉漫ろ歩きはお終いです。ああー、楽しかったー。

posted by 三上和伸 at 10:10| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月13日

鎌倉漫歩5-6 裏大仏ハイキングコースと大仏坂切通 2011.09.25

 銭洗弁天から再び源氏山の尾根道に戻り、そこから高徳院を目指し裏大仏ハイキングコースに入りました。尾根上を行く気持ちの良い山道で、時に清涼な樹林の下に、また時に視界は広濶と開け眼下の眺望を楽しみながら…。木の根が地面を這いつくばりつまずき易かったり、台風15号の影響で倒木もあり、多少歩き辛いきらいはありましたが、難なく踏破できる優れたハイキングコースでした。

@裏大仏ハイキングコース
相模湾の眺め
写真をクリックし最大に拡大してください。伊豆大島が見えます。
途中、素晴らしい観望地点がありました。方向は真南を向いており、由比ヶ浜、相模湾、そしてその先には何と伊豆大島が薄っすらと観えています。撮影の時、私は大島には全く気付いていませんでした。我が家に戻り編集の際、拡大映像を見てそれと気付きました。すかさず地図を出し、方向性を確かめましたが、それは紛れもなく伊豆大島でした。その意外な発見に何とも言えぬ嬉しさを覚え、恐らく我が面は締まりなくほくそ笑んでいた事でしょう。

A大仏坂切通
大仏坂切通 大仏切通のやぐら
あともう少しで大仏の裏手に至るところ、突然、右手に長大な木の階段が現われました。丁度その時二人のお婆ちゃんが私の先にあり、この階段を上り始めていました。階段の入り口には大仏切通の道標が…。私も迷わず階段を上り始め、二人のお婆ちゃんの後を追いました。その階段の途中二人は私に先に行くように道を譲ってくれました。間違いなく二人はハイカーであると確信しました。しかし、棒の杖を突いてヨタヨタと歩く二人、大丈夫かしらと心配になりました。それでもここまで来たのだからきっと大丈夫、この先もヨチヨチ歩いて乗り越えて行くのだろうなと感心さえしたのでした。心配したり感心したり心は大忙しでした。

鎌倉七口*の一つの大仏切通、この大仏切通は現在新旧二つの切通があるのです。新しい方は江戸期に開通したもので現在の県道鎌倉藤沢線です。そしてこの古い方は鎌倉時代の1241〜1250年頃に開削されたのだそうです。新切通の県道と平行に走っていて小高い山中にあり、近年まで忘れ去られていたために往時の姿を良く残しているそうです。その証として写真右のやぐら(岩窟)の存在があるのです。

*鎌倉七口=地方より鎌倉に出入りするための七つの切通(出入口)、朝比奈、巨福呂坂、名越、極楽寺坂、亀ヶ谷坂、化粧坂、そして大仏(坂)の各切通。
posted by 三上和伸 at 23:15| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎌倉漫歩5-5 銭洗弁財天 2011.09.25

 源氏山からは裏大仏ハイキングコースに至る道が延びていますがその前に、銭洗弁財天に立ち寄ってみました。頼朝の夢枕に出て建立されたと言う点では、近くにある佐助稲荷神社と同じですが、この日はここ銭洗弁天だけを訪ねました。源氏山周辺は頼朝に纏わる謂れある史跡が多い所です。

@銭洗弁財天洞門(入口)
銭洗弁財天洞門
巳年の文治元年(1185年)巳月巳日に頼朝の夢枕に現われた宇賀福神の『ここに湧く清水で神仏を供養すれば天下泰平になる』のお告げに従い創建されたと謂われています。後に天下とはかけ離れて、銭(金)をこの水で洗い使えば増えて戻るとの信仰が広まり、銭洗弁財天の名となり広く流布したと言う事です。 参考:成実堂出版・鎌倉湘南ベストガイド

A銭洗いの儀式
銭洗いの儀式
境内に湧く“銭洗水”で設えられた笊に銭を入れ洗います。居合わせた皆皆は一心不乱に銭や札を洗っていました。私もやってみました。その後の私の実入りが良くなったかどうか? このブログを読まれる方ならご想像がつかれるでしょう?
posted by 三上和伸 at 08:09| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月12日

鎌倉漫歩5-4 化粧坂切通と源氏山 2011.09.25

 阿仏尼の墓を詣でた後、暫くは横須賀線沿いを進みました。本当に静かで長閑な扇ヶ谷(おおぎがやつ)、歩く喜びが体から溢れます。やがて横須賀線とも別れ、道なりに左に折れれば海蔵寺へと連なりますが、今日は海蔵寺はパスしてその手前を道標に従い化粧坂経由で源氏山に向かいました。その名も不思議な化粧坂(けわいざか)とその切通、是非とも観たく上りたく、興味津々心も躍りました。

@化粧坂切通(けわいざかきりどおし)
化粧坂切通
化粧坂切通の名の由来は実に恐ろしいものがあります。諸説があると言われていますが、総じて討ち取られた首の首実験をするためにその首の化粧をした場所だとか…。それが幕府滅亡の大将・北条高時であったのか、その他の武将の首であったのか、今は定かではないようです。鎌倉の通行の難所・切通では多くの戦闘が行われ数多の首が化粧をされたようです。

源氏山に至る曲がりくねった急坂の岩の切通、チョイと息は弾みますが、難なく源氏山に辿り着けます。

A源氏山
源氏山
さだまさしの“縁切り寺”で、〜源氏山から北鎌倉へ〜と歌われる源氏山とは低い丘ですが、源頼朝が平家討伐を祈願した場所として大切にされています。今は源氏山公園として整備されており、頼朝像が建ち意気軒昂に鎌倉の街を睥睨しています。写真の頼朝像の先に観える小高い高みが源氏山山頂です。ハイカー気分で80数段を攀じ登ると山頂で石塔があり、時が止まったかのような静寂が現れました。但し蝉時雨は凄かった…。
posted by 三上和伸 at 23:25| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月10日

鎌倉漫歩5-3 英勝寺と阿仏尼の墓 2011.09.25

隣合わせにありながら、鎌倉時代の渋い壽福寺とは少し趣きの異なるたおやかな英勝寺、それは取りも直さずこの寺が江戸期に創建された尼寺である事を物語っています。現在の鎌倉で唯一の尼寺、それは庭の造りや花の咲かせ方にも表れています。この日は彼岸花が咲き始めてそれに蝶が舞い群がり、極彩色の天上の風景さながらの景観を魅せていました。

@英勝寺仏殿
仏殿
東光山英勝寺は徳川家康の側室・お梶の方、後の英勝院尼の創建で、仏殿には三代将軍家光の寄進した阿弥陀三尊如来像が安置されています。また境内には水戸の徳川光圀建立の祠堂(位牌を祀る所)もあり、江戸初期の文化建築に触れる事ができます。

A鐘楼
鐘楼
鐘楼は袴腰付き楼閣形式で造られ、楼の足の部分が袴を履かせられたかのように覆われています。梵鐘には江戸初期の儒学者・林道春撰の碑文が刻まれているそうです。鐘楼の前には曼珠沙崋(彼岸花)、すこぶる印象的でした。

B阿仏尼の墓
阿仏尼の墓
英勝寺を出て、やはり今小路を北に辿れば暫くして、英勝寺の土手を穿って造ったやぐら(岩倉・窟)がありました。中には石塔があり、これが彼の十六夜日記の阿仏尼の墓と謂われています。質素ながら多重塔もあり、この鎌倉の女流歌人は今に伝えられています。昔から阿仏尼さんはファンが多かったのですね。今度十六夜日記、読んでみようかしら…。
posted by 三上和伸 at 21:51| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月05日

鎌倉漫歩5-2 巽神社と壽福寺 2011.09.25

鎌倉駅西口を出て直進すると市役所前の十字路に行き当たります。そこを右(北)に折れると長閑な商店街の今小路の一本道となります。その途中の右手には巽神社が見出せます。狭い敷地ながらも立派な社が堂々と構えていました。見学をし参拝を済ませ再び今小路をさらに奥に進み商店がなくなる頃、やがて一辻奥まった所に壽福寺の総門が観えてきます。旅の最初は焦らずのんびり、正に漫ろ歩きの体で彼方此方キョロキョロ観て歩き、一人旅、気分爽快満面の笑み…。

@巽神社
巽神社
平安初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷(東北地方)征伐の途上、武運を祈願したとされる社。後に再建された後、現在地に遷座されこの先にある壽福寺の鎮守社となります。壽福寺からは巽(南東)の方角に当たる事からこの時、巽神社の名となったのだそうです。由緒ある社なのですね、坂上田村麻呂…、凄いですね。鎌倉は頼朝が幕府を開く前からも歴史に係わって来た要衝だったのですね。祭神は雷の神と火の神。

A壽福寺総門
総門
亀谷山壽福金剛禅寺と称し、鎌倉五山*の中の第三位で最古の禅寺、源頼朝の死後その菩提を弔うために妻・北条政子が建立しました。開基は明菴栄西(みんなんえいさい)で日本に初めて臨済宗を伝えた禅僧です。また栄西はやはり日本に初めてお茶の苗木を持ち込んだ僧で、壽福寺の宝物となった喫茶養生記なる書物を著わした人物です。日本人にお茶を飲む習慣を根付かせた張本人です。

*鎌倉にある代表的な五つの禅寺、1建長寺、2円覚寺、3壽福寺、4浄智寺、5浄明寺の順。

B本堂
本堂
総門を潜ると真っ直ぐに伸びた石畳があり、その先正面には山門があります。しかしこの山門より先は公開を控えているため、本堂は山門から垣間見るしかありません。それでも美しい仏殿をこれまた美しい柏槇(びゃくしん・伊吹)が守っている様はさらに美しい…。

C北条政子の墓(供養塔)
北条政子の墓
山門前を左に折れ、境内を捲きながら裏山に歩を進めると墓地が広がっていました。ここには俳人・高浜虚子や作家・大仏次郎などの著名人の墓があり、参詣の人々の絶えない寺でもあります。そして更に何よりの大物がその最奥のやぐら*の中に眠っています。北条政子、皆様はこの女性の生き様を如何思われますか? 愛、信仰、欲望、名誉、闘争、権力。様々な言葉が虚しく思い浮かびます。余り印象は良くないですね。しかし、愛する夫・頼朝が折角手に入れた武士の政権、それを守るために己を捨て奔走したのでしょう、鬼となり阿修羅となり我が子を殺してまでも…。政子もまた、時代に翻弄された可哀想な女性だったのかも知れません。政子の喜びや悲しみはどれ程のものだったのか…。正に想像を絶する空前絶後の女の生き方、私にはそれくらいしか言えませんが…。

*鎌倉石の山を垂直に切り開き、そこに横穴を開けて造った横穴墳墓、五輪塔が建てられています。政子のやぐらの右隣りには実子で三代将軍の実朝のやぐらもあります。
posted by 三上和伸 at 10:18| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月26日

鎌倉漫歩5-1 鎌倉駅出発 2011.09.25 

妻は娘夏子のバロックダンス教室の御手伝い、依ってこの日の私は独り者、「独り遊びしても良いわよ」の妻の優しいお言葉…。「シメシメ、折角だから鎌倉漫歩でもしてきますか…」と一目散に支度して我が家を飛び出しました。

大船軒の立ち食いそば
昔、まだ独身で仕事も歩きで回っていた頃、よくこの立ち食い蕎麦のお世話になりました。大船軒、鯵の押し寿司や駅弁でお馴染みの弁当屋ですが、駅蕎麦もやっていたのでした。昼には未だ早かったのですが懐かしさも手伝い食べてみました。「美味しい、昔より美味しくなってる、駅蕎麦も過当競争だからかな?、美味しくなければ淘汰されるだけだものね」などと感慨に耽りながら美味しくかき揚げ天蕎麦を頂きました。

鎌倉駅西口
東口のイモ洗い混雑とは無縁の西口、でも人力車も客待ちをしていて、かなりの人出がありました。さあ、今日はここが出発点、一応、鎌倉大仏の高徳院を目指して気の向くままに、第一歩を踏み出しました。

伊豆旅行とごたまぜになりそうですが、並行して鎌倉漫歩5も記載して行きます。お楽しみに…。
posted by 三上和伸 at 23:30| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年09月25日

伊豆漫歩2 修善寺界隈 2011.09.10

修善寺に到着し一時間520円の馬鹿高い駐車料に怒りながらも、私達は修善寺の界隈を漫ろ歩きました。歴史ある門前町にして温泉街の小さなこの街、多少の割愛は余儀なくされましたが、難なく見物を済ませました。ぐるっと順番に円を描いて一時間、ゆったり歩いて観て回りました。

@修禅寺
修禅寺
山号は福知山、創建は大同2年(807年)とされ、開基は空海(弘法大師)とされています。本尊は大日如来坐像で等身大の桧の寄木造り、目には水晶がはめ込まれ、漆箔が施されているそうです。近年、平安末期から鎌倉初期に活躍した仏師・実慶の作と断定され、国の重要文化財に指定されました。

A日枝神社(ひえじんじゃ)と境内の大杉
日枝神社 境内の大杉
弘法大師の建立と謂われる日枝神社、ここは修禅寺の鬼門の方角に当たり修禅寺の鎮守の役割を持たされた神社です。境内は大木巨木が何本も立ち並び壮観です。邪気を祓う守護木として修禅寺を守るために植えられたのでしょう。この大杉を始め、天然記念物の一位樫もあります。

B渡月橋
渡月橋
京都にある渡月橋とは比べものにならない可愛い橋ですが、これも渡月橋と呼ばれています。そう言えばこの橋が架かる川も京都と同じ桂川です。どうしてそうなったかは知る術が見当たらず分かりませんが、どちらかが真似をしたのでしょうね。まあ恐らく修禅寺の方が真似たのですね。可愛いものですが少々情けない…。

C指月殿(しげつでん)
指月殿
源頼朝亡き後、権力闘争に巻き込まれた頼朝の嫡男で二代将軍の頼家は母・政子を含む北条氏に謀られ、この地修善寺で殺されました。これに与した政子は深く悔い、この地に経を納めた経堂・指月殿を建立し、頼家の冥福を祈りました。頼朝の弟・範頼の事と言い嫡男・頼家の事と言い、この修善寺で源氏は愚かな血族の殺し合いをしたのです。北条氏はその後源氏に代わり政治を牛耳り、後世に北条時宗と言う元寇の傑物を世に送り込むのですが…、その血で血を洗う権力奪取の陰謀は余りにも汚らしい…。でも、鎌倉文化は北条氏の文化でもあるのですね…、特に時頼と時宗の…。

D独鈷の湯(とっこのゆ)
独鈷の湯
老人をいたわっていた孝行な子のために弘法大師がとっこ(密教に於ける仏具)で岩を割り、癒しの湯を湧出させてやったと言う伝説に基づいた温泉…。桂川の渓谷沿いに今は足湯となって保存されています。昔は入浴できたらしいのですが、現代の公衆衛生上では入浴は不可となっています。写真は湯の湧出がみられる湯舟の床の割れ目(穴)を写したもの…。この辺りからこんこんと湧き出ているそうです。




posted by 三上和伸 at 23:56| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月20日

伊豆漫歩1 河津七滝巡り 2011.08.13

 夏の風流、夏の遊びと言えば涼み(涼)…、春の花見、秋の月見、冬の雪見と対応し並び称される日本の風雅です。想うに涼と言えば風水、風と水が柱となるでしょうか。行水、打ち水、風鈴に団扇、縁台、夕涼み、かき氷などは風と水が拘わっていますものね…。そして自然物では滝と言うものが一番にこの涼と関係が深そうです。落下する流水が押し出す風と飛沫、それはマイナスイオンたっぷりの自然の息吹きとその恩恵、正に滝こそが涼を作り出す最高の創造主と申せます。

 そんな訳で私達は昼のご馳走の後、もう一つの涼しいご馳走を頂くべく、河津七滝(カワヅナナダル)を訪ねました。但し瀑布は最高の涼の対象ながら、そこへの行き帰りは数多の階段の下り上り(初めは必ず下りです)、大汗を掻き掻きの滝見物、この醍醐味は人それぞれの感想と好みがあるのでしょうか? 我が妻と次女は大汗が嫌いなようです。汗に困惑の二人を横目に私一人が悦に入り独り善がりの滝見物を推し通したのでありました、申し訳ない…。結局、全七滝を制覇したのは私だけ、お二人さんは途中の土産物屋で物色三昧…。でもね、上半身汗みどろで戻った私に土産物屋でTシャツを買ってくれたのは妻でした、申し訳ない…。

 *“ダル”の語源=水が垂れる現象を“垂水(たるみ)”と言いますが、ここ河津ではその垂水から滝を“タル(発音上ダルに変化)”と言い表すそうです。平安時代から続く由緒ある郷土言語であるそうで、中々味わいのある良い呼び名ですね。七滝、大滝、釜滝など、全部“ダル”と発音します。

 *河津七滝は最下流の大滝から最上流の釜滝まで名の付いた都合七つの滝が連なっています。私達は下流の大滝から順次上流を目指し巡りました。

@大滝(おおだる)
大滝
落差30メートル、七滝の中では水量、流勢、落差合わせて最大の滝、轟音と共に落下する様は見応え十分です。「これ観ずして七滝を語るべからず」、と私は言いたいのです。

A出合滝(であいだる)
出合滝
伊豆はマグマからなる玄武岩の溶岩台地、ここでは滝の側面に見事に柱状節理を成した岩盤が見えます。この岩盤を削り込んだのが河津川、その激しい落差ある地形故に河津七滝が生まれたのでした。

丁度、河津川本流と支流が交わるのがこの出合滝、如何にも人の出合と掛け合わせたかのようなネーミング、しかしそもそも昔から、二本の川の合流点を出合と名す訳で、ここは単に川の合流点にある滝に過ぎないと言えるでしょう。

この写真の構図は滝を上から眺めたもので、手前から水泡を迸らせ奥に落下しています。そのまた奥の蒼い滝壺の先に一条の水泡の筋が見えますが、それがもう一本の川の滝壺に当たります。ここらがこの滝の名の所以の出合の場と言えます。

B蟹滝(かにだる)
蟹滝
切り立った岩場が蟹の甲羅に見える事からこの名が付いたようです。流れ落ちる水の姿ではなく川床の岩盤の形から名が付けられる、この玄武岩の露頭が広がるこの地ならではの名と想われます。

C初景滝(しょけいだる)
初景滝
この滝の洞に住んで修行を積んでいた行者・初景の名に因んで初景滝と名付けられました。この初景は盗人に金品を奪われ滝壺に落とされ殺されたのです。以来この盗人の一族代々は呪われる羽目になり、ろくな死に方をしなかったのだそうです。この美しい滝には不釣り合いな程の忌まわしい伝説が残されていたのでした。

柔らかになびくような落水、優雅と言っても差し支えない風情があります。より多くの飛沫を舞わせ、マイナスイオンの冷気を遠くまで漂わせるそれは清々しい滝です。七滝中、最も美しいと思われる方も多い事でしょう。滝壺の端には伊豆の踊り子の“踊り子”と“私”の像が建てられてあり、小説の中の場面さながらの佇まいを魅せていました。七滝観光の中心です。 

D蛇滝(へびだる)
蛇滝
やはりこの名も岩盤の姿形模様から導き出されたもので、大蛇の持つ七つの頭の鱗を彷彿とさせる事に因っています。滝の左岸(向かって右側)の岩盤の模様を指すようです。

E蝦滝(えびだる)
蝦滝
これは岩盤の姿形ではなく、滝の水泡の白い筋がエビの尾に似ていたからと謂われています。確かに?エビの尻尾のようですね。

F釜滝(かまだる)
釜滝
大滝に次ぐ規模を誇る見事な滝。周囲は山に囲まれこの滝こそ深い谷の底にある雰囲気が濃厚に漂っていました、昔はこの辺りを地獄谷と呼んでいたとか…。最上部の釜滝はそんな深山幽谷の佇まいを魅せる奥深い自然境にありました。汗みどろで歩き通した甲斐がありました。

 *七滝巡り、全行程約7,000歩
posted by 三上和伸 at 15:51| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年06月10日

横浜漫歩8 横浜天主堂跡 2011.06.07

この日は午後の仕事まで時間があったので、横浜天主堂跡を訪ねました。前々から行ってみたいと想ってはいたのですが、今回訪ねる直接のきっかけとなったのはTBSドラマ〜仁〜にこの教会が登場したからでした。花魁だった野風がフランス人の男と結婚式を挙げたのがこのカトリック教会の設定でした。ブーケの投げ渡しまでして、しかもそのブーケを咲が受け取るなどの西洋かぶれの演出過剰が失笑?を誘いましたが、場面の教会の雰囲気はとても素敵で、これは行かねばなるまいと決意した次第でした、今は消滅移転して建て物は跡形?もないのに…。

1、横浜天主堂跡の交差点
横浜天主堂跡交差点
山手元町に向かって中華街東門交差点の次の信号がこの横浜天主堂跡の交差点です。もう中華街の一部と言っていい所ですが、開国当時のこの辺りはフランス人居留地だったのです。

2、イエス・キリスト像と案内板
イエス・キリスト像 横浜天主堂跡案内板
今では記念に建てられたキリスト像と案内板が在りし日の栄華を偲ばせてくれています。この大切な信仰の拠り所は確かにここに存在していたのです。

3、現在の横浜天主堂、カトリック山手教会 聖マリア像
カトリック山手教会 聖マリア像
横浜天主堂の今はこのカトリック山手教会に受け継がれています。庭にある聖マリア像も明治維新の年にフランスから横浜天主堂に贈られたものです。もう百四十三年も経つのです。しかし、よく手入れを受けているのか一点の汚れなく美しいものですね。私は今も、このマリア様に恋い焦がれています。
posted by 三上和伸 at 23:08| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年05月12日

湘南漫歩4 葉山二子山ハイキング 2011.04.17

葉桜の今、大分塔が立ってしまった話題ですが、ここで二子山花見ハイキングの話をさせて頂きます。

満開を過ぎた名残の桜に会うために、私は近年ハイカーの間でとみに脚光を浴びているハイキングコース、葉山の二子山を訪ねました。葉山は現在まで三浦郡葉山町として存在し、市ではなく群であり町なのです。それは何を意味するのか、そう田舎なのです。しかも都会が近いのに鉄道が無いとびっきりの田舎、大開発(ゴルフ場や批判が集中した国際村などはある)を免れた海あり山ありの太古の自然が息づいている田舎です。そんな葉山の中でも二子山周辺は最も原生の自然が残された特別の仙境、山桜が春色のグラデーションを描くのも当然の事と言えるのです。

そもそも、皆様は湘南の湘とは何を意味する語(漢字)だかお分かりですか? 何とそれは中国湖南省の別名(古名)を指す語だとか…。そして更にもう一歩進んでそれをひも解けば、洞庭湖に注ぐ湘江の湘の字だそうです…。日本の湘南はこの中国の優れた景勝地になぞらえて明治の頃に名付けられた名だと想像されます。如何に当時の明治の人々(主に漢文に精通していた文化人)がこの湘南の地に憧れを抱いていたかが解ります。

@阿部倉山の山桜
山桜淡紅のグラデーション
まずは京急新逗子駅を降りて南へ歩き出します。暫く先の桜山トンネルを抜けると長柄の交差点に出ます。そこを左折し逗葉新道に沿って歩を進めると阿部倉山が迫り、山肌に柔らかくたゆたう山桜の淡紅色が観えて来ます。ここで二子山の水を集めて流れる森戸川に沿って右折し、先程見えていた阿部倉山の裾を巻きながら森戸川沿いに延びる林道に入ります。

Aカワセミ
カワセミ
カワセミ(川蝉・翡翠)ブッポウソウ目カワセミ科
暫く林道を進むとやがて森林ゲートが立ち塞がり、ここで車は立ち入れなくなります。この先も道幅のある林道は続きますが、完全な徒歩の世界となるのです。ここでは葉山山楽会の会員が屯していて、地図や花案内などの冊子が売られていました。私は葉山の全ての山のハイキングコースが網羅記載されている案内地図を¥500で求めました。

そして先を進もうとすると声を掛けられました。「そっちじゃないよ!、あの森林ゲートの脇を廻り込んで行ってください」と。これが最初の道の間違い、どうも私はどちらかと言うと(どちらかと言わなくても)方向音痴の気があるらしく、もっと深い山の単独行では間違いなく遭難するだろうと自覚しました。とにかく一回転するともうどっちに行っていいか解らなくなるのですから?ヤバイです。まぁ、そんな本格の登山は一人でする気はさらさらありませんがね…。

さて正しい道を進んで行くとやがて林道は終わりを告げ、細い山道になりました。相変わらず左手には森戸川(川は河口に向かって左右が決まるので右岸は崖、左岸を歩く)があり、微かにせせらぎは聴こえていますが、そこには間違いなく静寂と言っていい静けさがありました。それでもあちこちからウグイスが美声で鳴き交わしているのが聴こえ、誠に深い森に入って来たものだと感慨も一入でした。その時、突然二羽のウグイスが僅かの時間差で「ピーーーキュロキュロキュロキュロロロロロ…、ケケキョ、ケケキョ、ケケキョ、ケキョ、ケキョ、ケキョ、ケッキョ、ケッキョ、ケッキョ……」と声をからませ合いハーホモ二ーを奏でました。未だ嘗て聴いた事の無い美しく重ねられた音声に、私は驚きと感興を持って聴き惚れたのでした。そう言えばこの山域はバードウォッチングのメッカとして知られた地域である事を思い出し、なるほどと合点した次第でした。そして更に流れの上の枝に青い鳥を発見し、瞬時にそれがカワセミである事に気付いた時、私の興奮は最高潮に達し、ここに来た甲斐を強く認識したのです。勢いカメラのシャッターを何度も切りましたが、私の指はもどかしくも強張って打ち損じ、結局このようなピンボケの写真しか撮れませんでした。自信の持てない写真で恐縮ですが、参考までにご覧ください。

B花花花
木の枝には野鳥達がさえずりを交わし、樹上には桜と山吹が乱れ咲く、そして地上には諸々の草花達の微笑み返し。正に美の饗宴、私が有頂天になってしまうのも無理なからぬところと言えましょう。どうぞ重々お察しください。

何時でも何処にでも、思い立ったら思い切り出か掛けてみる事が肝要、一歩踏み出せば新しい世界が観えて来ます。新たな希望が湧いてきます。人生が変わります。

T二輪草
ニリンソウ
優しく涼しげに木漏れ日の下で咲いていました。揺れる闇が返って白花を浮き立たせて魅せてくれています。静かに静かに…、一寸物憂げに…。私の心も涼やかに鎮まり、一時の憩いにありつけました。 

U山吹
ヤマブキ
昔、小判を山吹と言ったとか、それ程に鮮やかな黄金色です。山吹の特徴は滝のように降り落ちる花、「まるで小判が降って湧いたよう」などと言っても、あながち、嘘偽りとは申せないでしょう。良く観れば、そんな風に観えなくもないですものね。綺麗?です。

V山桜
ヤマザクラ
桜とは不思議な花ですね。私なんぞはこの花が咲かないと春が来た感じが致しません。もう体に血となり肉となり骨となって沁み付いてしまっています。これは他の花では代用できないもの、必要不可欠の花。もし太古より日本に桜がなかったなら、日本人の顔形や姿、また気質も変わっていたかも知れません。私の足はあと二十センチ長かっただろうし、鼻は後三センチは高かったでしょう。おまけに目の色は南洋の海のようにサファイアブルーかエメラルドグリーンに染められていたでしょう。性格ももっと粘り強かっに違いありません。それはとってもいいですね…、しかしそうは言っても、短足団子鼻で黒い瞳の短気で諦めが早い日本人でいいから桜にいて欲しい…。西行さんも言っています。如月の満月の宵に桜の下で死にたいと…。私も同感です…。 

W立壺菫
タチツボスミレ
この薄紫を好きな人は多い筈です。日本人はどちらかと言うとはっきり色を表さない人が多いからです。感情にしても理論にしても、曖昧を好むのです。だから花色の好みも同じで、単色の鮮やかな赤とか黄、オレンジや青などより微妙に混じり合った色を好む人が多いと想うのです。その代表がホタルブクロで紫とも桃とも白ともつかぬ微妙な色合いをしています。実は私もそんな色を愛好しいているのですよ。だから野生の花を好むのです。野生に単色はほんの一部を除いて余りありませんから…。よって私はこの野生の立壺菫が大好きです。この薄い紫とも空色とも水色ともつかぬ淡い色が好きなのです。その薫る色香が愛しいのです。 

X山猫の目草
ヤマネコノメソウ
この山猫の目草の名はイントネーションと目指す意味合いが微妙で誤って読まれる方もいる事でしょう。「山猫・の目草」ではなく、「山・猫の目草」が正解です。山猫ではなく、山にある猫の目草と言いたいのです。それはこの草の兄弟に冠がない、ただのネコノメソウがある事を根拠としています。自信を持って?正しいと断言できます。

また猫の目の名の由来は花にあるのではなく、この草の刮ハ(サッカ・タネとタネを包む莢のようなもの)の形状が真昼の猫の目(細い瞳孔の…)に似るからです。何れ写真が撮れる事があれば、お知らせ致します。

C沢歩き
沢歩き ロープ場
花を楽しみ寄り道をしながらも進むと、やがて山道は消え、そこには広場と一寸した休憩所があり、昼前なのに弁当を広げている人もいました。私は道を失い、今日二回目の迷い人になりました。仕方なく、その弁当の人に尋ねました。「この先の道はどこですか?」、すると「ああ、手前の道を折れ直ぐに沢に降り、そこの沢を歩くんです」と。『そうか、いよいよ沢歩きになるんだ…』と思いつつ弁当の人に礼と別れを告げ歩を進めました。直ぐに沢以外歩く道はなくなり、私はよろよろと石の頭の上を踏みしめ歩き始めます。ところがどうも年齢の所為か体バランスがよろしくなく、よろけてしまうのです。転ばぬよう力が入り体を固くするため益々バランスが悪くなりあっちにフラフラこっちにフララ、冷や冷やもので歩きました。そして何と瀞場に来るとそこは水浸しで歩くガレ道は無くなり、ハタと「どうしたらいいのだろう?水の中を歩くのかなー?嫌だなぁー」と困惑して辺りを見回すとありました。目印とその巻き道の入口が…。そこを上り始めると突然短いが断崖の壁が…。すると上からはロープがブラリ、何と鎖場ならぬロープ場が…。恐々必死にでも難なく上り詰めて直に森戸川に別れを告げ、二子山頂上への急登に掛かりました。そこからは延々と上り、でも標高は208mですから高が知れていますがね。帰路の東逗子方面の分岐点も怠りなく確認して頂上に登りました。

D上二子山山頂
上二子山山頂
山頂は森林を切り開いたらしく草原でした。丁度横浜方面が開けており、観晴らしが利きました。ランドマークも観えました。

E匂い立壺菫
ニオイタチツボスミレ
山頂の一角に僅かながら匂い立壺菫が花開いていました。私の鼻は匂いは感じられなかったのですが、愛らしい花の風情に十分の満足を貰いました。何時も花を観て思う事ですが、花は私を喜ばすために咲いているのではなく、己の遺伝子を残すために咲いているのです。けれどもならば何故、人間の私は美しさを感ずるのでしょうか? まぁ、それは永遠の謎かも知れませんが、一つ言える事はその草が自分を残すために健気に最善を尽くした結果、たまたま人間にはその健気さが美しく観えた、ただそれだけなのかも知れません。されどもしかしたらこの草も人間も同じ親から生まれた同胞の兄弟だからかも知れません。その昔は愛し合っていたのかも…。でも残念ながら今は私の片恋なのですけれどね…。けれどそれも自由でいいですけどね…。自由に愛せるって素敵な事ですよね…。

*山頂からの下山で情けなくも第三の迷い道に陥り、下山ルートを間違えてしまいました。本当は山桜の園なる最も山桜の見所である東逗子沼間ルートを取る筈が、弁当のための休み処を探した際、道を間違えたのでした。疲労もあり、結局戻るのを諦め逗葉新道に下り、元来た長柄経由の逗子への道を取り帰路に付きました。

F長柄の庚申塚
庚申塔
何処の町にも街道にも、庚申塚はあるものです。日本人は多神教でありますが、中々信心深い、まぁそうでなければ食うか食われるかの古の浮世では神にすがるしか道も術もなかったのでしょう。百八つある煩悩、現代ではそんなに沢山ある人は少ないでしょうが、幾らかは誰でも持ち合わせているでしょう。信仰を上手に誰の指図も受けず自分の意思で持てると良いですね。私も持っています。勿論三上教です。信者は私一人です。

最後に
阿部倉山の山桜
帰り道、振り返ったら、来た時と同じ光景がありました。嬉しい、「来年も宜しくな!、また楽しませてな!」、胸に熱いものが込み上げて来ました。

posted by 三上和伸 at 18:43| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月09日

横浜漫歩7−7 気のむくままに・山手公園・カトリック山手教会・外国人墓地 2011.3.05 

 根岸の白滝神社を参拝した後、私は自分の疲れ具合と時刻を天秤にかけ、そのどちらももう限界に近付いていると見極めました。そこで本牧三溪園は諦め割愛し、滝之上、山手駅経由で近道をして山手公園を目指しました。あの素晴らしい山手公園のヒマラヤ杉と大好きな聖マリア像に会うためにパンパンに張った足に鞭を奮い歩きました。

1、横浜テニス発祥記念館(山手公園内)
テニス発祥記念館
以前の漫歩の旅・山手界隈の項で掲載し損ねた建物がこのテニス記念館。その心残りを今回払拭いたしました。鬱蒼とヒマラヤ杉が覆い被さるレトロな建物ですが、日本テニス発祥120年を記念して1998年に建てられた新しい館です。中には当時のテニスに纏わる品々が古式床しく展示されています。テニスに関心がある方は必見です。また奥にある山手68番館は昭和9年に外国人向け賃貸住宅として建てられたもので、こちらは現在、公園の管理事務所とテニスのクラブハウスとして使われています。

2、カトリック山手教会
横浜開港の後、二年してから建立(1861年)されたカトリック教会(横浜天主堂)。その四十五年後(1906年)にフランス政府居留地80番地から現在の所在地山手44番地に移転しました。

@、カトリック山手教会聖堂
カトリック山手教会聖堂正面
誠に美しい教会、信者でなくてもうっとりとしてしまいます。私は以前プラハやウィーンで沢山の教会を観ましたが、これほど愛らしく美しい建物は滅多になかったのでした。本当に惚れ惚れと眺めて仕舞うのです。

斜め右にある尖塔は鐘楼であり、フランス貴族のダリュ伯爵より贈られた大鐘が吊るされています。私はまだ、その鐘の音は聴いた事がありませんが、何時か聴いてみたいです。どんな音がするのでしょうか。

A、礼拝堂(チャペル)
礼拝堂
午後でしたが丁度礼拝が行われていました。敬虔で厳かな雰囲気に圧倒され私は音を立てないように静かに見学しました。そして暫くする内に何故か心が穏やかに晴れて軽やかな気分になりました。宗教心のない私ですが信仰心はあるようで、洋の東西に関係なく聖なる所に心惹かれ居心地がいいのです。精神がリフレッシュします。

B、聖マリア像
聖マリア像
この世の宝である女性の聖なるシンボルの像、その麗しい姿…。恥ずかしながら私はこの像に恋をしていると言ってもそれは偽りではありません。以前の山手漫歩で私はこのマリア像を掲載しましたが、私はその後時折そのページを開き、マリア様と逢瀬を重ねてきたのでした。うっとりと飽きもせずに眺め…、心を空にして…、水が沁み渡るが如く心満たされるまで…。この日再び目の前にして私は幸せでした。

このマリア像は明治維新(1868年)の年、フランスより贈られました。

3、外国人墓地
外国人墓地
港、中華街、みなとみらい地区、横浜の名所は数々ありますが、最も粋でお洒落な町はこの山手界隈に他なりません。彼のヨーロッパの散歩道と遜色のない町歩きが出来るのは、横浜ではここだけでしょう。歩いていて矢鱈楽しくなる町で、歩く喜びを感じさせてくれる街です。

私は棒の足を引きずり、フランス山を経由し桜木町に出ました。もう三万歩を超え限界でした。二十キロメートルは踏破したでしょう。やりました…。
posted by 三上和伸 at 22:13| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月30日

横浜漫歩7−6 気のむくままに・山元町・根岸台・根岸・滝之上 2011.03.05

さてさてさて!、中々終わりが見えてこない横浜漫歩7「気のむくままに」ですが、もう少しお付き合いを下さい。何しろ三万歩を超える漫ろ歩きゆえ、見所が多過ぎて一朝一夕ではとても語り尽くせるものではありません。今回とあと一回、お話しさせてくださいね。

打越の坂を喘ぎ喘ぎ上り詰めると突き当たりに出ます。ここが山元町でT字路を東西に延びているのが山手本通りです。そこを東(左)に向かえば外国人墓地などの素敵な山手界隈の見所があり、西(西南、右)に行けば根岸へ向かい、その中ほどに元横浜競馬場跡の根岸森林公園があります。この日は根岸方面へ右に折れ山元町の商店街に入りました。山元町はこの界隈では最も庶民的なところ、小さな商店が軒を連ねています。まあ、この背後には蓑沢や南区の平楽等の庶民の町が控えているので、この佇まいは然るべき姿なのでしょう。庶民の私にはホッとする町ですね。

1、米軍住宅地の案内板
米軍根岸ハイツ
何やら難しい英語が書かれています。私なりに訳せば、米海軍横須賀艦隊の指揮下にある横浜分隊の居住地となりますが、如何でしょうか? ここはもう車両駐車進入禁止の区域、警告の看板が恐ろしげに建て掛けてありました。右に進めばアメリカの治外法権区域?、日本なのに日本人は許可なくして勝手に入れないのです。沖縄や横須賀もそうですが、余り気持ちの良いものではありません。忸怩たるものがありますね。

 私も昔、調律業務のため何度かこの住宅地に入りました。広大な芝生の台地に点在するペンキ塗り木造平屋建ての家屋、家と家の間には一切塀がありませんでした。陰のない全くの見通しの良さに驚いた事を想い出します。日本なのに日本とはかけ離れたアメリカ色の景色、アメリカ流は絶対崩さないのですね。粗末な造りながら広い部屋は全室暖房完備で正にカルチャーショック。しかし、その熱帯を想わす暖房の効き過ぎにピアノは廃物一歩手前、その仕事の苦労はとてもこの紙面では書けないほど悲劇的?、言葉の通じなさも手伝い、苦い思い出となりました。止めて帰れば良かったと今でも思います。

2、馬の博物館のサラブレッドとポニー
サラブレット ポニー
根岸森林公園の一角にある、日本中央競馬会の馬の博物館。美しいサラブレッドが放し飼いにされていたので一寸寄ってみました。のんびりと草を食むサラブレッド、黒毛に葦毛、そしてその陰に栗毛もいました。三頭とも、本当に美しく毛艶が輝いていました。近くにいた女の子に、「ポニーは何処にいるの?」と尋ねたところ、「あそこ…」と彼女は坂の下にある厩舎を指差し教えてくれました。

ポニー君はとても大人しく愛らしい…。暫し向き合ってお話しをしました。「可愛いね、お名前は?」、「……」、「お幾つ?」、「……」、「男の子かしら? 女の子かしら?」、「……」。「毎日何してるの?」、「……」、本当に大人しくて無口なポニー君…。「飼ってみたいな…」とふと洩らすとポニー君の瞳が光りました。即座に「子供を乗せるのが仕事です」??? 笑顔が素敵な厩務員の乙女が教えてくれました。 

3、ファイアーステイション
根岸ハイツの消防署
こんな消防署見た事ありますか? この中には消防車が入っているのですね…。とても不思議な佇まい、何やら異国情緒に溢れています。この裏側は米軍のハイツですが、この前の通りは日本側?です。出入口のシャッターは日本の方を向いています。日本の家屋の火事にも出動するのかしらね??

4、レストラン・ドルフィン
レストラン・ドルフィン
ユーミン(荒井?松任谷?由実)の歌「海を見ていた午後」に登場するレストランがこのドルフィン。「山手のドルフィンは、静かなレストラン、晴れた午後には、遠く三浦岬もみえる」と歌われます。さっきのアメリカンフャイヤーステイションの向かい、根岸旭台の交差点の際にあります。ここはこの先、不動坂が一気に根岸の海に向かって下り始める端緒。だからレストランからは海が観えるのです。但し、海の前面は旧日石の石油コンビナートが煙を吐いています…。でもそれが現代の美景なのかしらね…。私も若かりし頃、まだ乙女だった妻と二回ほど食事に来ました。実はこの店の最初のオーナーは「少年ケニア」で有名な漫画家の山川惣治氏でした。私の仕事のお客様でもあり、私は何度もこの店に調律に来ていたのですよ。今は遠い昔の話ですが…。この店も代が替わり、山川家(息子さんもお孫さんもいらしたのですが…)も私から消息を断ちました。どうしていらっしゃるのでしょうか…。

一気に不動坂を下り、白滝不動尊、不動滝まで辿り着きました。

5、根岸の不動滝
不動滝
日本は滝の多い国ですが、横浜はどうでしょうか? 残念ながら横浜には殆どありません。平地が無く丘ばかりの横浜ですが、その丘が余りに低いからです。そんな中、水源地が宅地化され枯渇寸前ですが、ここ根岸に可愛い滝があるのです。名は近くにある白滝不動尊に因んで不動滝ですが、白滝の名があるくらいですからどちらが先が分かりませんね。鶏・卵の関係ですかね。更にこの滝にあやかって、この上部に開けた町は“滝之上”の名となったのですから、誠に名とは味わいのあるものですね。とにかく滝は爽快な水音を立てまだまだ無事なようです。

6、白滝不動尊の男坂
白滝不動参道男坂
この左に不動滝があり、この階段を上り切れば白滝不動尊本堂に至ります。またその先の道を行けばそこはもう滝之上で、私は参拝の後、その道を辿りJR山手駅を経由し元町公園へ向かいました。疲れが重く圧し掛かって来ました。
posted by 三上和伸 at 22:14| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月23日

横浜漫歩7−5 気のむくままに・長者町・伊勢佐木町・打越 2011.03.06

何をどう考えたらいいのか分からない未曾有の自然災害、何トンもの涙が流された事でしょう。それを悔やみ準ずる思いも強いのですが、私は元の自分に戻ろうと思っています。気が引けますが、また楽しい思いを語ろうと思います。横浜漫歩・気のむくままにの後半を続けます。

1、山賊ラーメン
麺打ち サンマーメン
さて、日ノ出町駅から南に真っ直ぐ延びているのが長者町、この街は通りに沿った街で一歩路地裏に入るとそこはもう町名の違う町、伊勢佐木町もそうですが、通り町なのです。ここはどうも余りパッとした街とは言い難い雑多な街で、車のディーラーや小さな事務所、パチンコ屋や食堂が軒を連ねています。その中で一際目を引くのがこの山賊ラーメンです。北京式の製麺法だそうで、打たれた麺生地を両手の指の間に挟んで振り回し延ばしてゆきます。中国人の親父さんが手際よく勇壮に打ち上げ細く仕上げます。あっと言う間の出来事であり、そこに生まれたての麺が並びます。

麺はやや柔らか目のもっちり、ツルツルで極め付きの喉越し、一気に胃袋に突進してゆきます。スープはニンニクが香り立ち野性的、深いコクと旨味が融け込んでいて味わい深い、満足の逸品でした。

2、伊勢佐木町
伊勢佐木モール
長者町と十文字にクロスしているのが伊勢佐木町。見事な植え込みに縁取られたお洒落な街です。嘗てはもう少しガサツな街で横浜で一番の賑わいを見せていました。歌謡曲にも歌われ、栄華を欲しいままにしていたのでした。昔好きだった横浜生まれの女性がこの街を「ザキ」と粋がって呼んでいたのを思い出します。「昨日、ザキに行ってね。セーター買ったんだ!」、「へえー、ザキか、お洒落だなー」と横須賀生まれの私は感心したのでした。当時の私には、伊勢佐木町は憧れの縁遠い街でしたから…。でも、その後、ダウンタウンブキウギバンドや山口百恵が横須賀を歌い出してから、俄かに横須賀もハイカラな街になりましたがね…。横須賀は「スカ」と呼ばれます。

あの恋も懐かしい遠い思い出となりました…。この女性も幸福な結婚をして子が三人おいでだそうです。フフフ…

3、打越の霊泉
霊泉
長者町、石川町を過ぎ、中村川に架かる車橋を跨ぐとかなり急な長い上り坂となります。その中ほどの道の右側の山裾にこの霊泉はあります。勿論、山と言ってもその上には宅地があり、現在この霊泉は飲料には適さないそうです。

しかし、江戸末期の開港時には船舶の給水に使われたり、大正十二年九月一日の関東大震災や昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲の際にはこの霊泉が役立ち多くの市民の命を救ったと言う事です。
posted by 三上和伸 at 23:58| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月10日

横浜漫歩7−4 気のむくままに・紅葉坂・宮崎町 ・日ノ出町 2011.03.05

 気の向くままに平沼まで歩を進めた私ですが、チョイとお腹が空いて来ました。直ぐ近くにつけ天の角平がありますが、以前ご紹介した事を思い出し止めました。もう少し我慢をして歩を稼ぐ事にしました。ここまでランドマークタワーが見え隠れしていたので、戸部を通り越しスッキリとしたランドマークを観ようと紅葉坂へ向かいました。

1、ランドマーク・タワー、紅葉坂より
ランドマークタワー
コンクリートの塊は余り好きではないのですが、やはりこのランドマークは圧巻です。青空に映えスカッとした爽やかさがあります。ここからは前のビルが邪魔と思われますが、それが前衛の護りとなれば中々趣きがある景色に見えて来ます。後ろにどっしりと控えし王者の貫録が感じられますね。

2、伊勢山皇大神宮
伊勢山皇大神宮
横浜の初詣と言えばこの伊勢山皇大神宮でしょう。大晦日から元日に掛けて大変な賑わいを見せます。我が妻の実家にも近いので私達家族も多く訪れました。娘達の初宮参りや七五三の祝いもここで済ませたのです。

祭神は天照大神で横浜の総鎮守、関東のお伊勢さんだそうです。

3、成田山横浜別院の不動明王像
不動明王
横浜にも成田山があるのです。成田山横浜別院です。皇大神宮の直ぐ傍で私達は神社とお寺を梯子して詣でるのです。欲張りですね…。でも御利益は二倍になりますかね? まあとにかく、大抵の人は梯子していますね。それが倣いだし、それが楽しいのです。そして何時も鯛焼きは買いますね! アツアツを頬ばるの…。私は猫舌ですが美味しいですよね!

4、横浜日ノ出町のストリップ小屋
横浜のストリップ
日ノ出町、野毛、福富町などは大人の歓楽街。一寸エッチな街なのです。まあ、世の男共の無くてもいいが、あってもいいお楽しみ処…。遠い昔、一度はお世話になった若き日の学び舎…。淑女の皆様、お許しください…。

posted by 三上和伸 at 23:56| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月09日

横浜漫歩7−3 気のむくままに・浅間・平沼 2011.03.05

 *魚幸で魚の目利きを楽しみ、食べずに魚を味わえたのは久方振りの経験でした。若き日に釣りに現を抜かしていた日々が思い起こされました。あの魚の躍動感と手応えが…、確かにここに…、誠に魚は美しい…。

1、芝生(しぼう、昔のこの辺りは武蔵国、橘樹郡、芝生村と言われていました)の追分・浅間神社間の旧東海道の図、松原商店街駐車場前
芝生の追分付近の旧東海道の案内地図
魚幸を後にして松原商店街の駐車場の前に行くと、そこには旧東海道の案内板がありました。ここはもう旧東海道の真只中、そして旧八王子道との追分・即ち分かれ道、上りではここで合流し芝生の浅間神社まで並行して進みます。さらに浅間神社から東海道はそのまま真っ直ぐ江戸へ向かい、八王子道は東に折れ横浜の波止場へと向かいます。私もこの道を浅間神社まで歩いてみました。

2、芝生の追分の庚申塔
芝生の追分の庚申塚(塔)
芝生の追分の八王子道の側には山が迫っていますが、その裾の一角にこの庚申塔はあります。注意深く探せば、やや奥にあります。中々立派な庚申塚であり、財のある人が建立したのでしょう。そもそも庚申塔とは道教に由来し、庚申信仰に基づいて建てられた石塔の事だそうです。庚申講を三年十八回行った人が記念に建立するのだそうです。

庚申講とは、人の体内に棲む三尸虫(さんしちゅう)と言う虫が、庚申の日、人が眠っている間に天に昇り、天の天帝にその人の悪事を告げると言う教えから、庚申の日(年・五日)に眠らないで過ごし、天帝や猿田彦神、更に青面金剛を祀る行い。

3、浅間神社
浅間神社 浅間造りの本殿
旧東海道のこの辺りの風景は西に山が迫り、東は帷子川の河口が近く干拓された土地で平沼新田と呼ばれたそうです。その山の一角の小高い丘に浅間神社はあります。追分から十分ほど歩くと参道入り口が見えて来ます。右曲がりの階段を上れば美しい朱塗りの大鳥居が現れます。浅間造りの本殿はその左奥にあります。鳥居も浅間造りの本殿も静岡県富士宮市の富士山本宮浅間大社に似せて造られているのだそうです。

 *私は浅間神社より少し戻り、環状一号を横断し浅岡橋で新田間川を渡り、平岡橋で帷子川を渡りました。そして平沼橋架橋で東海道本線と平沼橋を見て楽しみ、水天宮平沼神社に行き当たりました。浅間町から平沼の地を巡りました。

4、東海道本線、相鉄平沼橋駅付近
東海道本線
丁度今、特急電車が通過中です。新幹線が出来る前の嘗ての日本の大動脈でした。相鉄を含め大変広い車線を誇っています。正面に見える架橋が現在の平沼橋(古くは帷子川に架かる元平沼橋がありました。)です。あの橋こそ港へ結ぶ絹の架け橋だったのでしょうか。

5、水天宮平沼神社
平沼神社
相鉄平沼橋の直ぐ近く、帷子川とその支流の石崎川に挟まれた地にあります。本当にひっそりとしたお社で床しい佇まいを見せていました。平沼新田を開拓した平沼九兵衛が新田の守護神としてこの神社を祀りました。御神祭は天御中主神(あめのみなかぬし)とあの源平合戦の壇ノ浦で入水した安徳天皇だそうです。安産と水難除けに御利益があるそうです。妊婦の方が数多お参りするそうです。
posted by 三上和伸 at 22:51| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月07日

横浜漫歩7−2 気のむくままに・まぐろ・マグロ・鮪・眼黒、松原魚幸 2011.03.05

1、八王子道(浜街道・絹の道、国道16号線)
八王子道
花見台の保土ヶ谷公園から明神台の坂を馳せ下り星川に出ました。相鉄の踏切と帷子川を渡ると大きな幹線道路に行き当たります。ここが国道16号線です。この道は旧八王子道で浜街道とも絹の道とも言われ嘗ての生糸運搬の大動脈でした。内陸部で生産された生糸が八王子を経由してこの道で運ばれ横浜港から世界に輸出されたのです。当時の日本の外貨獲得の唯一の産業、日本の近代化の魁となった生糸産業をこの道が支えたのです。この星川から横浜港はあと一息です。横浜港開港当初には今の山下公園の端にイギリスの生糸貿易会社のオフィースがありました。そこは英一番館と呼ばれていましたが、今はそこに生糸産業を記念してシルクセンターが建てられているのです。正しく八王子道は絹の道・シルクロードだったのです。

写真は現代の国道16号線の星川辺りですが、何処かスッキリとした景色に観えませんか? そうです、電柱電線が無いのです。ここは横浜でもいち早く共同溝埋設の済んだ道です。空が高く観え、良いですよね。

2、松原商店街
松原商店街
余り品がよいとは言えない飾りが旗めく松原商店街。それに見合う地域の庶民的な商店街ですが、横浜のアメ横と称され遠くからでも来客があります。魚と青果が主体ですが肉やパンやお茶、衣料など様々なお店が軒を連ねます。大挙して訪れる客に紛れて物色すれば、あれも買いたいこれも欲しいと、ついつい買い過ぎてしまい、大きく重い荷物を背負う事になるのです。

3、青果店の果物
生花店の果物
ご覧のように道路にまで店を広げてしまっています。店構えに比べ商品が多過ぎるのです。バイトのおばちゃんが掛け声を掛け掛け売っています。領収書など無く、百円玉主体の小銭で売り買いをしているのです。

4、魚幸水産
 @メバチマグロの解体
メバチマグロの解体
松原の何よりの宝はこの魚幸水産です。この写真のように日常的にマグロの解体捌きが行われています。この時間も恐らく小さいマグロなどでメバチマグロと思われますが解体ショー?が行われていました。私が許可を得てカメラを構えたら、いなせなお兄さんはヒョイと体を傾けて解体作業の有様を見せてくれました。ありがとう、お兄さん! でもフラッシュは焚かずに撮ったので、チョイと手元の包丁がピンボケでした。御免ね…。

 A切り分け
切り分け
メバチマグロの四分の一片(背の身)を俎板にのせブロックに切り分けました。そして今そのブロック片の 血合いを切り離したところ、左手には血合いの肉片が握られています。

 B量り売り
量り売り
サクに切り分け目方を量り、「はい、何千何百円!」とお兄さんは威勢良く声を張り上げ値段を告げます。「はい、買った!」の声が上がれば売買は成立したのです。お兄さんは傍に控えたお姉さんに経木に乗せたまま渡し、お姉さんはそのままビニール袋に包み客に渡します、何千何百円と交換に…。勿論領収書などはありません。「買った!」の声が掛からなければ、お兄さんはそれを陳列の棚に回します。

 Cサクの品揃え、その1
鮪の王者・本鮪のトロ
この日は素晴らしい品揃えとなりました。天然の本鮪のトロと中トロ、それに赤味…。奥に並ぶのはインド鮪の中トロ、本当に旨そう! 旅の途中でなかったら一サク買ったのにな〜〜…。残念!!!

 Dサクの品揃え、その2
本鮪の赤味
四分の一片(背の身)を切り分けたブロック二片、大きなブロックです。この大きさと鮮紅の赤い身の色から想像するに、これは本鮪の赤味以外の何物でもないと確信しました。ガラスの陳列棚に入れられ威光を放っていました。

 E金目鯛とサザエ
アマダイ、ホウボウ、キンメダイ サザエ
写真左、左から甘鯛、中:鋒鋩(ホウボウ、竹麦魚)、右:金目鯛  写真右:サザエ
どれも新鮮そのもの、ピカピカの魚介です。さぞかし旨い事でしょう。因みにキンメの値段を聞いてみました。三千円だそうです。如何ですか?
posted by 三上和伸 at 13:17| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月06日

横浜漫歩7−1 気のむくままに・保土ヶ谷公園 2011.03.05

 一人なので気兼ねなく気の向くままに、我が家から一歩ずつ徒歩で横浜を巡りました。良い天気で常にお日様が私を照らしてくれ寒さは気にならず、むしろ日焼けが心配?でした。帰宅して直ぐに鏡を見たくらいでした。まあ、赤ら顔の私ですから取り立てて気にする事はないのでしたが、少々火照りは感じられました。それにしても思いのままの旅ができ、私の旅への熱情が一気に迸り出た一日でした。ただ残念な事が二つ、最終目的地であった三渓園はタイムオーバーで回避され、積もる疲れで最後は公共交通機関を利用しました。全道程を歩いてと念じていましたが、日も落ち始めたのでやむなく電車バスに乗りました。それでもこの一日で32,225歩を踏破しました。凄いでしょ! お陰でチョイと腰が痛みます。でも大丈夫、大分強くなっていますものね、普段のウォーキングで…。

 約30枚ほどの写真が撮れました、どれも私の思いの籠ったものばかりです。発表には時間が掛かりそうなので、大体五部に分けて掲載いたします。どうぞお楽しみにお読みください。

1、県立保土ヶ谷公園の梅林
梅
何本あるか数えた訳ではありませんが、沢山あるとやはり香りは良く届くようで、馥郁たる香気が漂い来たりました。身も心も清めてくれるようです。そのしるしに帰る者の顔は来たる時より殊の外和らいでいるように感じられました。皆いいお顔をしていました、散歩の犬までもね…。花はもう終わりに近づいて観え、寂しい木と枝も多くありました、ご苦労さん。今度は桜ですね、その時また訪ねましょう。

2、噴水の庭園
噴水庭園
この園内でも取り分け素敵なのがこの噴水の庭園です。階段状の擂り鉢の底にはプールが…。まるでコロッセオの形状であり、とても格好いいものです。テレビドラマのロケ地にも使われていて、確か薬師丸ひろ子が可憐で薄倖な人妻を演じていたように記憶しています。この地を背景として気の利いた使い方をしていました。

カメラを携えていた奥さんがカメラを構えていた私に尋ねてきました。「噴水の飛沫に映る虹を上手に写せましたか?、私は中々上手く写せなくって…」、「いいえ、私はそんなに欲張らないのですよ。映れば写ったでそれでいいのですよ」と…。そしてその方に私のブログ「音の楽しみ」を紹介いたしました。私の写真はピンボケも多いし下手ですが、少しでも感動が伝われば良いと考えます。観てくだされば解って頂けるでしょう。

正面の建物はアート・ホールです。クラシックのコンサートが出来る素敵なホールで、他に幾つかの音楽スタジオもあります。あの神奈川フィルハーモニーの根拠地でもあるのです。 

3、オオイヌノフグリ
オオイヌノフグリ
いよいよ、オオイヌノフグリが咲き出しました。この青色を観ると春近しと一寸胸がドキドキしますね。何かが始まるような気がするのです。それは恋かも知れないし、素敵な出会いかも知れない。きっと何かいい事が始まりますよって…。そんな予感が…、だって春が来るのですから…。ガンバロー!!!



 
posted by 三上和伸 at 02:30| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月23日

飛騨漫歩2 雪の白川郷 2011.02.05

 名残惜しい郡上八幡を昼過ぎに発ち、バスはいよいよこの旅の真の目的地・雪の白川郷に向かいました。私は白川郷には過去二回、春と初夏に訪れていますが、冬の白川郷は未だ観ぬ処女地であり、雪に埋もれた清冽な村の風景に憧れを抱いてきました。しかし、積雪地の旅の安全と言う観点からそれを逡巡してきました。それでも何とか安易に妥協をし、今回バスツアーと言う出来合いの旅でしたがそれを叶う事でき、積年の思いは果たされました。

1、両白山地の大日ヶ岳(1709m)
大日ヶ岳
郡上八幡を昼過ぎに発ち、東海北陸道を北へひた走り暫くすると、バスの車窓は一面の雪景色と変わりました。長良川の谷筋を介して遠く西には白山で名高い両白山地が観え始め私は俄然興奮しだし、車窓風景に釘付けとなりました。その山の中でも最もこの自動車道に近いのが写真の大日ヶ岳で、大きな根張りを悠々と広げ堂々と、しかも白い優美な絶頂を見せ見事でした。

今走っている自動車道は長良川の東の飛騨高地を南北に貫いており、もう暫く進めば蛭が野高原に達します。ここは表日本と裏日本を仕切る分水嶺となっており、ここに降った雨(雪)はあるものは北へと向かい庄川となって富山湾へと下ります。一方あるものは南へと方向を定め、長良川となって伊勢湾へと流れ下るのです。風向きのさじ加減か水の意思か、御前は裏か俺は表か、まあ、どうでもいいですが何れにしても、裏と表の原野を潤し沃野とするのです。 

2、白川郷、水車小屋(合掌造り民家園)
水車小屋
白川郷に到着し、まずは民家園に入場しました。今日の白川郷は余りにも繁華となり、メインストリートなどには私は眉をひそめます。私の求める古く懐かしい風情を残しているのは、人間の匂いからは遠ざかりますが、静かに保護されたこのような場所なのです。この民家園はダム開発などで廃村となった村にあった合掌造りの民家を移築したものです。清らかな水辺に配置され、主屋、倉、馬小屋、水車小屋など十八棟ほどの数の茅葺の建物があります。この静寂は私の最も好むもの…。今ここに居られる幸せを心底噛み締めるのでした。

ところで水車小屋を観た途端、私はF・シューベルトの歌曲集「美しき水車小屋の娘」を思い出してしまいました。但し、水車小屋の詩集は冬の話ではないのですが…。それでもシューベルトには他に「冬の旅」と言うより優れた歌曲集もありました。何だかこの旅の風景にピッタリで私は殊の外この佇まいに思い入れを強くしたのでした。あの水車小屋の男は失恋して死に、冬の旅の男はやはり失恋しますが辻音楽師と言う同胞を得て立ち直ります。どちらも悲しい男の性の話ですが、あの男達はこんな風景を観ていたのですかね…。

でも、私は少し違うのです。人を知りやり直しを知る幸せな私は、この風景を観て涙は流しますが、それは甘いセンチメンタルなロマンの産物…。私は思います。人は幸せになるために生まれて来たのですから…、この風景だって決して不幸ではないのです。心ある人にはむしろ安らぎに満ちて…、観えてくるのです。

3、白川郷、合掌造りの民家、主屋
合掌造りの民家
この静寂、それは都会人にとって異次元の贅沢。もつれた心を柔らかくほぐすにはこのような景色の贅沢が必要なのです。誠に身勝手な立場の楽しみ方でこんな不自由な生活の現地の方には申し訳ないのですが、好きなので仕方ありません。快く楽しませて頂きましょう、礼儀をわきまえて…、元気になって…。

4、軒の氷柱
軒の氷柱
正に雪に埋もれた村、ここからの眺めは屋根も壁も雪に覆われ氷柱しか観えません。水晶の輝き、冬の清冽、本当に素敵ですね。

5、合掌の家の内部
民家の台所
台所の佇まい、何に使うのか分かりませんが、所狭しと物や道具が置かれています。この対面には囲炉裏の切られた茶の間があり、和やかな団欒があったのでしょう、優しい家族の日常が偲ばれました。この地の家は板の間が多く、この家は仏間しか畳はありませんでした。

6、雪道の灯り
雪道の灯
一メートルを超える豪雪、勿論、道は雪掻きがされていますが、道の両側は背丈ほどの雪の壁になっています。この雪の回廊には道標の役に蝋の灯りが灯され床しい風情を醸し出していました。この後、日が落ちればライトアップされます。実は私達のツアーはライトアップの白川郷が目的でした。でも私は白日の景色が良かったです。ライトアップは人工的過ぎますね。不自然でした…。

7、合掌の家の栃餅ぜんざい(中野長治郎主屋)
栃餅入りぜんざい
田舎のオヤツの一つが栃餅。勿論、米や穀物が不作の年にはこの栃の実は大切な主食にもなりました。保存の利く有難い雑穀です。現代では土産物にも加工され、ここではぜんざいの中に焼き餅として入れられていました。餅はよく晒されているのでしょう、えぐみのないふくよかな味わいでした。

8、中野長治郎家の農業、農工具の展示
食用穀物の変遷 白川郷の農機具
加須良と言う地区から移築された中野長治郎家。今はここ民家園でお休み処兼農業・農工具展示場として役立っていました。大きな茅葺の家であり、昔の白川郷の暮らしが偲ばれ、興味の尽きせぬものがありました。
posted by 三上和伸 at 22:45| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年02月13日

飛騨漫歩1 冬の郡上八幡 2011.02.05

 東名、東海北陸、北陸、名神、再び東名と高速自動車道を乗り継いで行く観光バスの弾丸ツアー、一泊二日の忙しない旅程でしたが、城下町あり、世界遺産の雪国あり、雪の名庭園に壮大な古刹もありとバラエティーに富んだ盛沢山の旅で大いに楽しめました。脊梁山地を挟んで裏と表の隔絶、日本の冬を肌で感じられた得難い旅でした。冬の旅、本当にいいですね。

 まずは表側の愛らしい水の都、郡上八幡の漫ろ歩きを紹介します。

1、郡上本染めの鯉幟(郡上八幡博覧館)
渡辺庄吉作の鯉幟
館内に入ると直ぐにこの鯉幟が飾ってありました。古くからこの地に伝わる藍の本染めで名高い渡辺染物店の渡辺庄吉氏の作品です。この鯉幟もあの吉田川で寒ざらしされたものです。空を泳ぐのが鯉幟なれど、一度は身の切れるような寒の清流で泳げたのです、よかったね!

2、郡上紬の機織り機(郡上八幡博覧館)
郡上紬の機織り機
郡上八幡は小さな城下町ですが、優れた伝統工芸品を生み出してきた町です。その中でも特に秀でたものに郡上紬があります。郡上紬は手で紡いだ絹の紬糸を草木染めで染め織り上げた絹布。平織りの極めて丈夫な絹織物であるそうです。古来、この地の農家に依って受け継がれてきました。ところが近代に至って衰退の一途を辿っていたところ、昭和になり故・宗廣力三氏が再興をし、より芸術性の優れた郡上紬を作り出し、今日の郷土の誉としました。これにより氏は人間国宝の栄誉を得たのです。館内にも時価数百万円と言う郡上紬の着物が飾られてありました。渾身の努力が技を生む、私もあやかりたいと思いました。

3、郡上踊り(郡上八幡博覧館)
郡上踊り
四百年以上の伝統があると言われている郡上踊り。夏の一月余りを踊り明かすそうです。特に盂蘭盆会の時期には夜通し踊るそうで、しかもお囃子の者共は入れ替えなしで演じ抜くそうです。血湧き肉踊り壮観だそうです。是非私も踊りは兎も角として、そんなお囃子と一体となって熱狂したいと思いました。何れ近いうちに夏の郡上八幡を訪れてみましょう。

館内では下駄に浴衣の素朴なお姉さんが郡上踊りを踊ってくれました。謂れや踊りの説明もしてくれ、踊りも教えてくれました。私は踊らず、相変わらずの馬鹿小父さん丸出しでこの愛らしい踊り子の躍動を楽しみました。田舎娘の郡上踊り、素敵でした。

4、水、命の煌めき
山水の側溝
実を言えば私はこの郡上八幡は二回目なのです。二十歳そこそこの若蔵だった私は何一つこの地の文化を解さず、ただ来た事があると言う記憶を持つだけでした。しかしこの側溝の清い山水を観た途端、あの四十年前の爽快な記憶が鮮やかに蘇りました。あの日私はこの水の爽快さに心身を洗われ快哉を叫んでいたのでした。初夏の爽快、それは今私の中で生まれ変わり大切な記憶になりました。

5、郡上八幡城
郡上八幡城
郡上八幡博覧館を出て郡上八幡の城下を歩き始めました。旅の何よりの楽しみは漫ろ歩き、この郡上八幡は小さな城下町ゆえ僅かの時間で町の大方の見所が踏破出来ます。正に漫ろ歩きには打って付けの町と言えます。

 古き家並の軒先を辿り側溝の水の清冽に心動かされれば心はいやが上にも湧き立ち足取りは軽くなります。そして鍛冶屋町に差し掛かり郡上八幡城を見出せば最早や旅の楽しさはここに極まり、愚かにも私は戦国の世へとタイムスリップしてしまうのです。例えこの城が近代の世に再建されたものだとしても…。それ程に美しい城であり、ここからの構図は優れたものでした。

6、上田酒店の陳列棚
上田酒店
各種の地酒を取り揃えた棚。その脇を埋めているのが小物の土産物、おばあちゃんの針仕事と題して幸福の草履も並べられてありました。可愛かったので写しました。

妻の好物?・地酒、しこたま?買ったようですよ。重い荷物が私の肩(腕)に圧し掛かりました。
 
7、炭火焼きのお店
炭火焼きの店
炭火の炉の周りを取り囲む鮎や岩魚の塩焼き、思わずズィーと引き留められ焼き方の小父さん?に話し掛けました。「美味そうだね、今は何を焼いてるの?」、「飛騨牛です、家のはA5とA4の等級の肉しか使っていません。美味いよ!」、「よし買った、一本いくら?」、「¥500です」、「じゃあ、一本でいいや」。と言って一本焼いて貰いました。順番があり、少し待たされイラ付きましたが、食べたら極上の味、脂が乗って柔らかく蕩けるよう…。「うん、旨い!」、妻と一本を分け合いました。おお恥ずかし…。おおみすぼらしい…。ケチな私?

中々の店で飛騨牛の外、鹿肉、熊肉、猪肉、川魚では鮎の外、岩魚、山女、天魚、虹鱒等、本格的でした。感心…。

8、ニッキ飴の桜間見屋(おうまみや)
桜間見屋
田舎の奥床しい店構え、その暖簾が如何にも老舗の佇まいを見せていました。案の定、妻はいそいそと入店し、罐入りのニッキ飴を二つ買い求めました。二人のお祖母ちゃんのお土産だと…。まあ、打って付けの物ですね。

ニッキを肉桂と書くとは知りませんでした。勉強になりました。

今、ネットと図鑑を調べたところ、肉桂はクスノキ科の樹木でニッケイと読むそうです。この近似種にシナモンやカシアがあるそうです。ニッキはニッケイの転訛だそうで、ニッキ=ニッケイです。樹皮に芳香があり、香辛料や薬に利用され栽培もされているそうです。従って当然このニッキ玉にもニッケイ(ニッキ)がふんだんに使われているのですね。

9、宗祇水(そうぎすい)
宗祇水
名水百選の第一号に選ばれた名水。水の都・郡上八幡の面目躍如たる泉です。僧で連歌師の飯尾宗祇に因んで名付けられた泉、嘗てこの宗祇と郡上領主の東常縁がこの泉の畔で歌を詠み交わしたと言う言い伝えがあるそうです。

私もこの水を飲みました。無味無臭の柔らかい水でした。

10、鯉幟の寒晒し
鯉幟の寒晒し
旅の意外性との嬉しい出会い、今回私はこの風景を観るために旅したのではないかと思えてなりません。それほどに私の愛する床しい景色に観えました。水の色、鯉幟の色、胸を焦がすほど素敵でした。今、有難うと言うしか、私の思いを表す言葉はありません。旅の出会い、素晴らしいですね。
posted by 三上和伸 at 22:49| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月16日

横浜漫歩6 和泉川源流を訪ねて 瀬谷市民の森 2010.12.05

 たっぷりと時間のある日曜日、折角なので私は無味乾燥なダイエットウォーキングに変え、目的を定めた自然の中の長散歩を試みる事にしました。それは以前より温めて来た念願…、身近な河川・和泉川の源流を探検し発見する事…。出だしの街道歩きに始まり、庚申塔や道祖神との出会い…。そして森の静けさ…、沢の清流…、感動的な源流の発見…。興味津々・無我夢中、私の切なる思いの全てが叶った小さな旅でした。

1、厚木街道の庚申塔と道祖神
庚申塔と道祖神
厚木街道は大山道であり、江戸期に盛んだった大山詣でのために開かれた道です。この江戸と大山を結ぶ大山道には実は二つのルートがあり、今の国道246号線沿いの江戸と大山を直接結ぶ道と東海道を神奈川(横浜)で逸れて鶴ヶ峰ー二俣川ー三つ境ー厚木と続く道があるのです。双方とも現在では厚木街道と呼ばれて地元民に親しまれています。またこの街道には旧道が並行してあり、歴史を辿るにはこちらの旧道を歩く方がより有意義かも知れません。しかし今回私は新道の現厚木街道を選びました。頻繁に車が走り多少埃ぽいのと廃ガス臭が気になりましたが、最短距離にあり道に迷う事もなく、更に言えば旧道歩きが目的ではなかったのでこの道を使いました。

 この道標となる庚申塔及び道祖神は希望が丘と三つ境の間の路傍にありました。石碑には嘉永の年号が読み取れたので十九世紀半ばにはもうここに存在していたと思われます。しかし、もしかしたら、旧道のあちこちから移設されたのかも知れません。厚木街道が旧道から新道に移されたのは明治になってからの事でしょうから、どちらにあったかは、歴史的には微妙なものがあります。

2、街道端にあった野菜自動販売機
野菜の自動販売機
庚申塔の近くには農家の屋敷森があり、楠が壮大に枝を広げていました。その傍にこの野菜販売機があり、聖護院大根が¥200で売られていました。並べただけの無人販売は良く見掛けますが、コイン式の枠に入ったのは珍しく、面白かったので写してみました。美味しそうで買ってみようかなとも思ったのですが荷物になるのが嫌で諦めました。

3、杉林
杉林
三つ境を右に逸れ暫く行けば、漸く瀬谷市民の森に到着しました。直ぐに綺麗に整えられた杉林があり、充満したフィトンチットを浴び、気持ちのよい森林浴ができました。爽やかなものでした。

4、清流にクレソン
クレソン
清く豊かな水には必ず水草が茂ると言うものです。そんな水草の中でもこのオランダガラシ(和蘭辛子・クレソン:帰化植物)は清流にしか生えない清潔な草です。何方もご存じですが食用になり、春の若芽は独特な芳香と辛味があり、美味しいものです。清流の証であるこの草が生える和泉川は豊饒の泉であり、土地の人々はこぞってこの川でクレソン摘みに興じるそうです。私も摘んでみたいと思いましたがそれはなりません。これは土地の宝物、地元の民の胃袋に収まるのが掟と言うものです。

5、雑木林
雑木林
杉林に混じってモザイク模様を描くのが雑木類で、クヌギ(椚)やコナラ(小楢)などが主な種類です。秋には多くのドングリを落とし、地味ながら紅葉します。最初は黄色に染まり次第に赤茶色に変化し最後は色を失い茶色になります。そして大量の敷き落ち葉となり、ふかふかの林床を作ります。歩くとカサコソと軽い音鳴りがして楽しいものです。昔はそれで落ち葉焚きをしてお芋を焼いたりしましたっけ…。煙が目に沁みて私は嫌でしたけれどね…。

6、和泉川最上流の沢
和泉川最上流
清らかな水が絶え間なく流れ下る沢。この流れには蛍が棲むと言われています。所々にはロープが張られ、蛍の生育を保護して殖やそうとしています。何時か殖えたら私も蛍狩りがしてみたい…、蛍袋の花を携えて…。

7、和泉川源流
和泉川源流
感動の発見。枯れ葉に埋もれていますが、ここが和泉川の源流です。この上手にはもう沢の溝はありません。でも土の下からは清水が渾渾と湧き出て絶え間がありません。ここが和泉川の始まりです。

8、矢指の森、追分の広場
矢指の森、追分の広場
深い矢指の森の中で広濶に開けた所、それが追分の広場。恐らくこの辺りが昔の大山道と八王子道の分岐点・追分…。旅人の様々な人生が行き交っていた事でしょう。

 現在のここは耕され花園に整備されています。春には広大な菜の花畑に変貌します。その頃に再び訪れたいですね。

posted by 三上和伸 at 22:15| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月28日

房総漫歩1 養老渓谷 2010.11.27

 何時の間にか秋も深まり、もう紅葉スポットも残り少なくなりました。都市の公園に神社仏閣の銀杏や楓、欅などが見頃ですが、自然の中はもう落ち葉の季節であり、僅かに南部の限られた場所に観られます。そんな中、今が盛りなのがこの房総の養老渓谷で、殊の外楓が紅に色付いて美しかったです。名勝の滝巡りと合わせて大いに楽しめました。

1、山肌の楓
楓の紅葉
楓でも個体差があり濃いのやら淡いのやら様々です。でも濃ければ良いものではありません。淡くても伸び伸びと枝を広げ葉を広げ、風にさざめく様は美しものです。ことにその緑残る濃淡のグラデーションを魅せ付けてね。良いですね。

2、養老川本流に紅葉
養老渓谷
水面にたゆたう紅の色、春の桜の折もそうですが、これぞ日本の風景ですね。山紫水明の国なればこその美の饗宴です。私は愛さずにはいられません…、狂おしい程に…。

3、滝巡り、萬代の滝
萬代の滝
通念を通して楽しめるのはむしろ滝見物の方でしょう。この養老川でも滝が次々と現れる一帯に遊歩道が敷かれ誰でも楽しめるようになっています。この萬代の滝は中でも姿形の美しい素晴らしい滝です。この日も水量豊かでマイナスイオンが充満する誠に清々しい佇まいを魅せていました。

4、滝巡り、粟又(あわまた)の滝
粟又の滝
養老川本流が一気に滑り落ちる雄大な滑滝、養老渓谷の至宝であり、養老観光の目玉でもあります。私達は観光客犇めく滝壺から滝の上に上がり、眼下の眺めを楽しみました。その流麗な流れに爽快と快哉を貰いました。
posted by 三上和伸 at 22:42| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月15日

湘南漫歩3 鷹取山と神武寺 三浦半島 2010.11.07

 開発されたとは言え三浦半島は鎌倉と並ぶ都会から最も近い自然の里。まだまだ花も実もある豊かさを残しています。一日、否、半日、この森の旅人になれば多くの風物と出会え、生きる喜びを与えてくれるでしょう。京急田浦駅から鷹取山、神武寺経由で京急神武寺駅まで、私は半日余りで縦走しました。
1、鷹取山頂上直下の鎖場
ハイキングコースの鎖場
鷹取山から逗子池子の一帯は第三紀層の凝灰岩の岩盤で覆われています。凝灰岩は丈夫ですが柔らかく細工がし易い利点も備えており、昔から階段や家屋の土台、門柱や塀にも使われてきました。特に有名なものに、鎌倉のお寺の階(きざはし・階段)に使われた鎌倉石があり、時にそれは削れてたわみ深く苔生して年月と歴史を雄弁に物語ってくれます。私達を古への時間旅行に誘ってくれるのです。例えば、杉本観音には素晴らしくたわんで苔生した趣きのあるきざはしがあります。

 この鎖場はそんな凝灰岩の露頭であり、このハイキングの一寸したスリルを味わえるお楽しみ処です。濡れていれば問題ですが、乾いていれば難なくクリアー出来ます。但し子供がふざけて軽はずみに渡れば踏み外し、その下の崖を真っ逆さまに転がって谷まで落ちる事になります。

 また鷹取山の頂上辺りは明治以降昭和前期の石切り場で切り立った崖が連なっており、現在はロッククライミングの道場となっています。崖の岩肌には無数のハーケンの後の穴が開いています。写真を捕り損ないました。この遊山で一番の失敗です。

2、凝灰岩の洞門
PB070948.JPG
これも凝灰岩の露頭で、この狭い隙間がハイキングロードです。子供や女性なら難なく潜れますが、デブの私にはチョイときつかったです。

3、神武寺、薬師堂
薬師堂
神武寺は寺伝によれば創建は神亀三年(724年)、僧行基がこの地に十一面観音、釈迦如来、薬師如来を納めたと謂われています。

 ハイキングコースを歩いていると、深い神武寺の森の中に忽然と現れる薬師堂。その凛とした佇まいに驚かされます。現在の建物は文禄三年(1590年)の再建で室町末期の建築様式を表していると言われます。このお堂には、薬師如来坐像、日光月光の両菩薩立像が安置されています。

4、なんじゃもんじゃの木
なんじゃもんじゃの木
ホルトノキ ホルトノキ科ホルトノキ属 別名:モガシ
境内に御神木として祭られてある樹齢400年のホルトノキ。以前はその名が判らず、口伝えに「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれていました。鬱蒼とした葉を茂らせ、観るも立派な巨木であり、私はその下に佇み偉大な生命力を浴び、何か背筋がピンと伸びた感じがしました。正に生命のオーラが充満していました。

 ホルトノキは暖地性の常緑高木で千葉県以西の太平洋側に分布しています。夏に白い小さな花が群れて咲き、その後黒い実が成るそうです。
posted by 三上和伸 at 23:00| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月14日

東京漫歩5 洗足池 東京都大田区 2010.10.14

 都会の高級住宅街に囲まれた比較的大きな池です。正に都会のオアシスと呼ぶに相応しい緑豊かな別天地です。仕事の合間の一寸した漫ろ歩きでしたが、一時間ほど1.2キロの池の外周を歩きました。

 案内板の説明書きによると、この池は武蔵野台地の末端の湧水を集めた池で、灌漑用水として利用されてきたそうです。日蓮上人に縁の深い池で、日蓮がこの池の水で足を洗ったとの言い伝えから、洗足池の名となったそうです。

1、東急池上線洗足池駅
洗足池駅
東京のローカル線・東急池上線の洗足池駅、ローカル線に相応しく小作りで可愛い駅です。改札を出ると目の前の中原街道を跨いで正面に洗足池はあります。

2、カルガモ
カルガモ
私が近付いても逃げずにじっとしてポーズをとってくれました。ご存じ、子連れの隊列で池まで歩く春の風物詩の人気者、あのカルガモさんでした。

3、ガマの穂なびく洗足池
ガマ
まだガマの穂はしっかり残っていました。因幡の白ウサギの傷を癒したガマの穂、大昔の日本神話の世界にタイムスリップした錯覚を覚えました。

追伸:興味深い話
 洗足池は大田区南千束にありますが、この辺りは元は千束村で千束の名は現在でも立派に生き残りました。ところで私もそうですが、皆様も洗足と千束の名の由来には興味を引かれると想われますのでネットで調べてみました。
 それによると、元々は千束村がこのセンゾクの名の起こりのようです。この池も初めは千束の大池と呼ばれていました。ところが江戸時代以降の文献には千束の大池は洗足池と名を変えて登場するようになりました。日蓮上人との古の縁を引き合いに出し、江戸期の人は千束を洗足と語呂合わせして呼ぶようにしたのが真相のようです。また目黒区にも洗足の地名がありますが、これは近隣に洗足池がある土地柄なのでここに造った住宅街を「洗足」と名して売り出したのが始まりだそうです。後にその住宅街名が地名になったのです。その真犯人は東急グループなのだそうです。  SIDEN1972さんの資料より
 
posted by 三上和伸 at 23:01| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月11日

東京漫歩4 銀座をぶらり 2010.10.10

 この日の本来の目的は観劇でした。それでも雨が早く上がりそうなので出発を少し早めて、銀ブラをしてから観劇に臨む事にしました。雨上がりの銀座をブラブラして美味しい昼餉にもありつきました。とても楽しかったので観劇後ももう一度歩きました。薄暮の銀座の漫ろ歩きでしたが、フラフラユラユラヒラヒラと、銀座一丁目から新橋まで雑踏の中を泳ぐように歩きました。

1、銀座発祥の地の碑
銀座発祥の地の碑
銀座二丁目のティファニー辺りの植え込みスペースにこの碑はありました。その石碑に刻まれた文字を見ると以下に読み取れました。

 慶長十七年、徳川幕府この地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す。当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ、明治二年に遂に銀座を町名とする事に公示さる。

 銀座の町はここから始まったのですね。
 
2、銀座和光服部時計台
銀座和光服部時計台 
銀座のシンボルとして長く愛されてきた時計台。銀座四丁目の交差点の一角に佇んでいます。ここを訪れた事のない人でも大方は映像で知っている…、名高く好ましい対象と言えるでしょう。

 昭和七年(1932年)の建造で、老舗・服部時計店(現セイコー)の社屋として完成されました。鉄骨鉄筋コンクリートの地上七階地下二階の構造で、近代アメリカンルネッサンス様式の設計がなされています。

 時計は東西南北の全ての面に取り付けられており、行人がどの角度からでも見られるように配慮されています。されど見回してみれば取り分け交差点の対角線からの構図がこの建物には素晴らしいと思えます。それは昭和初期の何ともノスタルジックな面影を残しており、私は立ち去りがたく暫し眺めては目と写真に焼き付けました。

3、銀座オルビエートの昼餉 
ブュッフェスタイルの前菜とパスタ デザート
本当はすぐ近くにスペイン料理の店を見付けたのですが、既に満席であり、残念ながら断念しました。劇の開演に遅れたら元も子も失くしてしまうのですから…。そこでこのイタリアン・オルビエートを選びました。ここも直ぐ満席となり、私達は危うく昼飯抜きになるところでした。休日の銀座の賑わいは凄いものがあるのですね。

 ベジタブル&グリルイタリアンと銘打っているだけあって野菜の豊富な美味しいお店でした。メインのパスタ以外はセルフサービスの食べ放題(写真左)で、つい食べ過ぎてしまうくらいの美味しさでした。恐らくこれが目当ての若い女性で一杯でしたので流行っているのでしょうね。

 メインのパスタはオレガノと鶏肉のクリームソース(写真右)が妻の注文で、私の指名は桜エビとほうれん草のペペロンチィーノでした。細打ちのシャープな麺が心地よいアルデンテを感じさせ素敵でした。 デザートは小さすぎ! いま一つでした。    一人¥2000

 追伸:劇の感想は明日以降に
posted by 三上和伸 at 00:38| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月26日

鎌倉漫歩4-7 円覚寺・洪鐘(おおがね、国宝) 2010.09.19

洪鐘
1301年、時宗の子・九代執権・北条貞時が死の年に、国家の安泰を願って寄進した大きな梵鐘。その切なる願い虚しく、北条氏は衰退を余儀なくされ、国家は再び戦乱の世となりつつありました。

 大きな鐘であり、国宝でもあるので撞いてみたい誘惑に駆られました。…がしかし、ロープが張られ入る事もできず、しかも撞木は縄で固定されていました。お寺によっては百円くらい払えば撞かせてくれる所もあるのにね! 残念でした。

 隣が弁天堂でそこにはお茶屋さんがありました。繁盛していて満席の盛況でした。私はお腹がチョイ痛でしたので、妻と半分こして氷アズキを食べました。残暑のお陰で美味しく頂きました。今となっては遠い思い出ですが…。

 
posted by 三上和伸 at 22:29| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎌倉漫歩4-6 円覚寺・舎利殿(国宝) 2010.09.19

舎利殿
正面遠くに見えるのが舎利殿です。大切な禅道場のため、普段は入場禁止です。
本来は円覚寺にはなかった建物で、廃寺になった寺から移築したものだそうです。ただ、鎌倉時代に宋から伝わった唐様式の最古の建造物であり、この時代を代表する最も美しい建築物とされ国宝に指定されています。

 舎利殿の名の通り、源実朝が宋の寺院から貰い受けた釈迦の遺灰・舎利が納められたお堂です。
 また、建築物では神奈川県唯一の国宝です。震災で倒れたそうですが、その材を使い首尾よく復元されました。
posted by 三上和伸 at 21:42| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

鎌倉漫歩4-5 円覚寺、仏日庵・開基廟 2010.09.19

仏日庵・開基廟
円覚寺を建立した第八代執権・北条時宗の廟所。仏日庵は塔頭としてこの時宗の廟を現代まで守り抜きました。この廟には十一面観音坐像と時宗の木像の他、息子貞時と孫高時の木像も安置されています。三者並んで仲良く永遠の眠りに就いています。
 
 境内のお茶席は、川端康成の小説「千羽鶴」に登場しています。
posted by 三上和伸 at 21:08| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月25日

鎌倉漫歩4-4 円覚寺・方丈辺り 2010.09.19

1、選仏場
選仏場
1699年に建立された元の座禅道場。関東大震災で倒壊した仏殿が再建されるまで、本尊の宝冠釈迦如来を安置した堂宇。現在は名の如く仏を選び出す?お堂。

2、居士林(済蔭庵)
居士林(済蔭庵
円覚寺の中でも最も風雅な佇まいを魅せているのがこの居士林です。塔頭の一つで元は東京牛込にあった柳生流の剣道場です。現在は居士林として在家の禅の修行の場として存在しています。

3、方丈、百観音
方丈 百観音
方丈とは一丈四方の事で今の単位で3メートル四方を指します。昔のインドの高僧の居室がこの広さだった事に由来し、住持の居間を方丈と称するようになりました。

 方丈の庭園の一角には百観音が飾られています。江戸期に百体の観音石像が作られ奉納されました。震災などで損傷を受けましたが復興に努め、今はここ方丈に三十体ほどが納められています。慈悲溢れる豊かな表情をした沢山の観音様に会えます。

4、シロバナヒガンバナ
シロバナヒガンバナ
方丈の垣根の土手にはシロバナヒガンバナが咲いていました。僅か一輪の花でしたが、清らかでしかも華やかな風情を際立たせ、私の感嘆を誘いました。綺麗でした。

5、妙香池(みょうこうち)
妙香池
夢窓疎石(夢窓国師)の作と伝えられています。大仏次郎の小説「帰郷」にこの池は描かれています。自然の地形を利して作られた美しい庭と池です。 

posted by 三上和伸 at 23:42| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月24日

鎌倉漫歩4-3 円覚寺・仏殿 2010.09.19

円覚寺・仏殿と
仏殿とビャクシン(伊吹)の古木
外観からは木造に観えますが、この仏殿は鉄筋コンクリートで造られています。残念ながら以前の木造の仏殿は関東大震災で倒壊してしまったのです。でも本尊の宝冠釈迦如来坐像は大切に安置されています。また、後光厳天皇勅筆(1378年)の「大光明宝殿」の扁額は見事に正面に掲げられています。

 仏殿の前にはビャクシン(伊吹)の古木が植えられています。これは仏殿とは違い、古からの生き残りです。ビャクシン(柏槇)は日本では自生は少なく、伊豆の大瀬崎などには見事な天然樹林があります。国の天然記念物に指定されています。

posted by 三上和伸 at 23:14| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月23日

鎌倉漫歩4-2 円覚寺・山門

 円覚寺は当時の鎌倉幕府執権・北条時宗が建立した禅寺です。往時、自らが治めた蒙古来襲の文永・弘安の二回の役で戦死した両国の兵士を弔うために建てられたものです。父・時頼譲りの禅宗への深い帰依による、尊敬する師・無学祖元を開祖とした寺で、禅・臨済宗円覚寺派の総本山です。

円覚寺山門
門と言えば夏目漱石の「門」。実は夏目漱石もこの円覚寺の塔頭(たっちゅう、代々の住職が築いた境内内にある小寺)の一つで禅の修行をしています。その小説「門」の中に描かれたのも恐らくは円覚寺でありましょうし、その門は漱石縁の塔頭の門かも知れません。しかし敢えて言うなら、円覚寺の門とは何をさて置きこの立派な山門に他なりません。武士の魂の籠った剛健極まりない荘重な門です。

 天明三年(1783年)の再建であり、楼上に観世音菩薩・羅漢が安置されています。「円覚興聖禅寺」の額は開山当時の伏見上皇の勅筆です。

 参考;円覚寺の栞より        
posted by 三上和伸 at 21:57| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年09月19日

鎌倉漫歩4-1 円覚寺・参道 2010.09.19

 残暑厳しい折でしたが時折吹く初秋の風が爽やかで、暫し木陰に憩えば何やら揺ら揺らと幸せに包まれていました。勿論鎌倉の木々は本年最後の緑を萌え立たせ、それは絵にも描けない静かなきらめきを放っていました。

1、円覚寺参道
円覚寺参道、横須賀線が通り抜けています
円覚寺の参道に立つと誰しも驚きを禁じえないでしょう。何と参道は線路に分断されており、そこには信号機と踏み切りがあります。つまり、線路が境内を横断しているのです。何故そうなったかは測りかねますが、随分乱暴な事をしたものです。まあ恐らくは横須賀線敷設の計画に行き詰まり、当時の国、国鉄、円覚寺が揃って「ええい!境内を通してしまえ!」と蛮勇を奮ったのでありましょう。今考えれば恐ろしい事です。
posted by 三上和伸 at 22:54| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月08日

鎌倉漫歩3-4 稲村ケ崎界隈 2010.07.04

 由比ヶ浜でお喋りを楽しんだ後、いよいよ本日のメインイベント稲村ケ崎の透かし百合の下に急ぎました。咲いているか否か、果たしてそこに在るか否か、心は揺れつつそこに急ぎました。「あっ、在った!」、50m手前でオレンジ色が点々と豆電球のように輝いているのが観えました。心は舞い上がり心臓はドキドキ、この日幾度目かのそして最後にして最高の幸せを得ました。

 1、稲村ケ崎より江の島を望む
稲村ヶ崎より江の島を観る
稲村ケ崎は山が海に切れ落ちた険しい岩礁地帯ですが、その昔新田義貞が鎌倉幕府倒幕のため干潮に乗じてこの困難な岬を渉り切り、鎌倉入りを果たしたと言う歴史的な地です。ここから眺めれば、海から山が一気に競り上がっており、自然の優れた要害であった事が見て取れます。
 また現代の世ではここはサーフィンのメッカとして名高く、遠浅の岩礁帯が高波を生むそうで、地元の者を中心に多くのサーファーが波間に浮かんで見えます。噂によればサーファー達は村意識が強く排他的でよそ者を受け付けないと言われています。
 写真をクリックし拡大すると波間に浮かんだサーファーがよく分かります。
 
 2、愛しの透かし百合
透かし百合
 そんな険しい山の崖に咲くのがこの透かし百合です。その崖の岩場の僅かの土に根付き、風雨に晒されながらも見事に花開くのです。空と海の間に宙吊りになって咲く百合、それは正に野生の証明、その逞しさこそが美しさなのです。
posted by 三上和伸 at 22:49| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月06日

鎌倉漫歩3-3 鶴岡八幡宮から由比ヶ浜へ 2010.07.04

明月院の佇まい、明月院ブルーの姫紫陽花、そして図らずも相見えた野の花、美の饗宴を目の当たりにした私の幸福は極まり、血潮は上げ潮の波に乗り、益々快適に鶴岡八幡宮を目指しました。

 1、藪萱草
ヤブカンゾウ
ヤブカンゾウ(藪萱草)、別名・忘れ草)ユリ科ワスレグサ属
ユリ科ワスレグサ属は美しい花の集まり、中国のホンカンゾウ(忘優草)、欧州のヘメロカリス、日本各地のカンゾウとニッコウキスゲやユウスゲなども同じ仲間でワスレグサ属です。このヤブカンゾウは低地で観られる最も代表的な八重咲きのカンゾウ(ワスレグサ)で、花は中華料理の食材(チンツェンツァイのスープ)に根は漢方薬に使われます。さらに春の若芽は山菜として食べられます。ネットで調べたところ、辛子味噌和えやお浸し、酢の物で賞味されるようです。但し若芽は食べ過ぎると腹を下すそうです。

またワスレグサの名の由来は中国名・忘優草(ボウユウソウ・ホンカンゾウ・シナカンゾウ)に起因します。中国ではこの花は、食べると余りに美味しく嫌な事も忘れるの例えから忘優草と呼ばれ、日本ではそれに倣い忘れ草の名が生まれたと言われています。因みにムラサキ科のワスレナグサは全くの別種です。

 2、折れた大銀杏
大銀杏
昨秋の暴風で根元から折れました。樹齢八百年と言われる歴史的大銀杏でその衝撃は大きく、大々的にニュースで取り上げられました。

その後何とか蘇生が試みられ、根を三分割にし、それぞれに移植されました。写真は三分割の一つの四mの幹を持つ株、元あった所から七m先に移植されました。その他の株も境内に移植されたと言う事です。


 3、鶴岡八幡宮一の鳥居
一の鳥居
若宮大路でも海に近い所に建つ大鳥居、これが一の鳥居であり、一直線の大路の先には真正面に鶴岡八幡宮が観えています。因みに二の鳥居から三の鳥居までが段かずらとなっています。

 4、由比ヶ浜の浜木綿
ハマユウ
ハマオモト(浜万年青)、別名・ハマユウ(浜木綿)、ヒガンバナ科ハマオモト属
八幡宮から若宮大路を辿り由比ヶ浜に至りました。梅雨の晴れ間の一日で、太陽が容赦なく照り付け汗だくとなり、顔面と肘下は赤く腫れあがり痛みました。

暫く海伝いを歩いていると、砂浜で小父さんが農作業をしていました。小父さんは花の苗を植えているところで、そこには浜木綿が咲き始めていました。「綺麗ですね、写真を撮ってもいいですか?」と尋ねると「どうぞ好きにお撮りください」と言ってくれました。この浜木綿は、この花の自生の北限であるここから少し南の横須賀市佐島海岸で採れたタネを蒔いて育てたものだそうです。小父さんは「温暖化でこの浜も霜が降りなくなって、この草も枯れずに花を咲かせるようになったんだ、北限が延びたんだよ!」と嬉しそうに話しました。またもう花は終わりましたが、ハマダイコンやハマヒルガオについても説明してくれました。しばし花談義に熱中し語り合いました。ありがとう小父さん、楽しかったよ! また何時か…
posted by 三上和伸 at 23:27| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月05日

鎌倉漫歩3-2 明月院界隈 201.07.04

 東慶寺の素晴らしい佇まいを楽しんだ後、私は気持ちが落ち着き晴れやかとなり、緩々と明月院への道を辿りました。大勢の人々の中に紛れて何故か心楽しく嬉しい道程となりました。

1、開山堂
開山堂
 このお堂の中には明月院の開山・密室守厳禅師(みっしつしゅごんぜんじ)の木像と歴代住持の位牌が祀られているとの事。茅葺の素敵なお堂でした。

 2、石庭
石庭
  私は今回初めて明月院を訪ねたのですが、色々情報を集めて参った筈なのに、明月院に石庭があるのは知りませんでした。しかし中々美しい石庭です。しばし眺めて楽しみました。背後の鎌倉の緑の山に分け入る谷戸に見立てた植栽造形と前面の白砂が海辺を思わせ、何となく鎌倉の地形を現したものなのだなと思い当たり、自ら納得しました。

 3、明月院ブルー・姫紫陽花
姫紫陽花
 俗に明月院ブルーと言われている姫紫陽花、深い青の比較的小さな装飾花が沢山集まって麗しい手毬形を作っています。美しい…本当に美しい…、海と空をこの一房に集めたような透明な青に私は魅せられました。来年もう一度来て、今度は盛りの青を堪能したいと切に願望しました。

 *明月院を退いてしばらく六国見山の方角に谷戸を遡りました。涼しげな水の流れる小川に沿って閑静な鎌倉の家並が続いていました。時折、側溝の脇や山の端にはこの季節ならではの野の花が咲いていて、私を喜ばせてくれました。
 また二羽の鶯がしきりと鳴いており、そこに不如帰が馳せ参じ、麗しい野の音曲が楽しめました。「ケキョケキョケキョ、ホーホケキョ! ホーホケキョ!」、「トッキョキョカキョク!、トッキョキョカキョク!、トッキョキョカキョク!、… …」。ホトトギスはウグイスの巣に託卵する性質を持つ野鳥です。ウグイスの巣に卵を産み、ウグイスに仮親になって貰い己の子孫を育てさせるのです。何とも虫のいいホトトギスですが、性質なので仕方ありません。多数派のウグイスさん、貴方同様のその妙なる調べに免じて、この少数派のホトトギスを許してやってください。

 4、合歓の木
ネムノキ
ネムノキ(合歓の木)、別名・ねむ・ねぶ・ねぶのき・ねぶりのき・こうかぎ・ごうかん、マメ科ネムノキ属
自生か植栽か区別は付きませんでしたが、合歓の木も丁度今が花時のようで、あちこちで咲いていました。やはり梅雨は美しい花の咲く時期…、梅雨こそ名花の存在を知らしめる季節…、春の桜の頃に優るとも劣りません。

合歓の木は夜になると小葉が閉じ下に垂れ下がり、眠りに就いたように見えます。従って「眠りの木」が合歓の木になったのです。花も夕方に開花します。夕暮れ時がこの花の営みのポイントなのですね。薄紅の綿毛に見えるのは花のオシベの花糸で、花弁はその根元に小さく固まってあります。マメ科なので秋に莢に入った豆(タネ)が実ります。 

 5、黄吊舟
キツリフネ
キツリフネ(黄吊舟)ツリフネソウ科ツリフネソウ属
側溝の水辺の縁を覆い隠すように繁茂していました。花はまだ咲き始めたばかりでちらほらでしたが、鮮やかな黄色が新鮮でした。この先秋の深まる頃まで咲き続けるでしょう。盛りにはきっと黄色で辺りを埋め尽くす事でしょう。

この類は紅紫のツリフネソウもあり、同じような場所で同じように時を重ねて咲きます。学名はインパチェンスであり、あの夏から秋遅くにかけて咲くお庭でお馴染みの花と親戚です。
posted by 三上和伸 at 21:57| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年07月04日

鎌倉漫歩3-1 東慶寺界隈 2010.07.04

 胸の高鳴りを覚えるほど、私はこの漫ろ歩きに期待をし楽しみにしていました。紫陽花、海の透かし百合、そしてあわよくば岩煙草に会えるかも知れないという切ない胸の内を抱えていたのであり、心臓が時めくのは当たり前の事でした。

 北鎌倉で横須賀線を降り、そわそわと空中を遊泳するかのごとく、先に飛んで行った心を追いかけるように私の足はもどかしく動きました。息を弾ませ東慶寺の山門を潜り、木戸銭所の小父さんに参拝料の百円を渡して岩煙草の花の状況を尋ねました。小父さんは「もう終わりました。でもしぶとい花もあるみたいだよ?」、私はにっこり笑って木戸を抜けました。

 1、東慶寺山門
東慶寺山門
 縁切り寺、駆け込み寺として名高い尼寺であった東慶寺、鎌倉幕府執権・北条時宗の妻・覚山尼の創建です。流石に女性の寺、隅々まで綺麗に整えられ、美しい花も多々植えられています。この日も花の寺の誉れ高く、数種の花が見事な咲き振りを魅せていました。
 この階段を駆け上がり山門を越えれば、嫌な男と離れられ身を守られます。確か三年をこの尼寺で過ごせば離婚は正式に成立すると言う事です。現代でも悩める女性には欲しいですね…。

 2、半化粧の花
群生したハンゲショウ ハンゲショウ
ハンゲショウ(半化粧)別名・カタシロクサ(片白草)ドクダミ科ハンゲショウ属
 余り広くない東慶事ですが、流石は花の寺、心憎い仕切りで主に野の花を見事に咲かせます。その花に対する見識と手入れの努力は大変なものがあると察しられます。本当に美しく咲かせ見事に作り込むのです。

 暦の雑節にある半夏生とこの花・半化粧は咲く時期と同一の音で混同されています。今年の半夏生は七月二日でしたが、この半化粧は丁度この頃に咲きました。でも可笑しいでしょ。半夏生とは半夏が生えると書きます。でもこの半化粧は花が咲いているのであって、生えたのは三か月前の四月なのですよ。半夏とは本来カラスビシャクと言う草を指します。寒地の中国ではこの時期にこのカラスビシャクつまり半夏が生えるので、この雑節を半夏生と名付けたのです。
 
 3、桔梗
キキョウ
キキョウ(桔梗)、別名・アサガオ(朝貌)、キキョウ科キキョウ属
 古に唱えられた秋の七草には朝貌の名があります。これが桔梗と推定され何時の日にかキキョウは秋の七草の一員になりました。但し、下界では七月に咲き出すので、撫子や女郎花と同様に秋の七草と狭い囲いに入れるのは無理があるようです。山間部の山里では一月遅れの立秋頃の開花となりますが…。一輪挿しには持って来いの美しい花で万人から愛されている幸福な花です。
 ここでは丁度咲き始めて間がなく、何一つ汚れなく清新な輝きを魅せていました。見事に作り込まれていました。

4、岩煙草(毛岩煙草)
ケイワタバコ
ケイワタバコ(毛岩煙草) イワタバコ科イワタバコ属
 イワタバコと普通に称していますが、この品種は本当はケイワタバコと言うのです。勿論イワタバコの一品種なのですが、花茎や萼、そして葉の裏側の脈上に毛があることから毛岩煙草の名となりました。さらに花期もこの毛岩煙草の方が一月ほど早く、六月の開花となっています。鎌倉の貴婦人はやや、毛深いのですかね?
 切り取られた岩壁一面を覆い尽くして生育しています。花の盛りには紅紫の圧倒的な光景を呈し圧巻です。

 5、静寂の佇まい
東慶寺境内
 遠くに六国見山の山並が見えますが、その麓あたりに紫陽花寺・明月院があります。きっと凄い混雑でしょう、北鎌倉駅からの人波は圧倒的に明月院の方を向かっていましたから。それに比べてどうでしょう?この東慶寺の静けさは…。少し待てばこんな静寂の佇まいのカメラアングルが得られます。着物姿の素敵な中年のご婦人が居られました。いいな!と思いつつ、私はこのアングルを密かに狙っていたのです。

 
 


posted by 三上和伸 at 23:28| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月02日

東京漫歩3 年越しの両国から浅草 2010. 01.01

 私達家族は年越しのイベントとして、さだまさしカウントダウンライブを楽しみました。そしてその後の未明からは東京の下町を浅草まで漫ろ歩き、初詣をして新春を祝いました。またその合間には月食までも観察しお得な年越しセットメニューで欲張りな漫歩の旅を賞味しました。
 
 @さだまさしカウントダウン・ライブ開演前の月(両国、2009.12.31、pM8:30)
満月に近い大晦日の月
 大晦日の両国駅前はカウントダウンライブに向かうファンで溢れ返っていました。それでもそんな喧騒の都会の空にも丸い月が冴え冴えと照り映えて、私を夢心地に和ませてくれました。明日の元旦の未明には部分月食が見られる事は先刻承知をしており、私はこれから起こるショーの数々に期待が高まり破格の笑顔でライブ会場に入りました。

 A隅田川に架かる両国橋(西側)
両国橋
 ライブ終了後、娘達は携帯電話の路線案内で現在の両国から浅草までの便と所要時間を調べました。ところが生憎都合の良い便はなく、歩いた方が速そうなので、皆で歩いて浅草寺へ向かいました。主催者に地図を見せて貰い、それを頭に叩き込みいざ歩き出しました。両国駅を南下し国道14号に出てそこを右折、直ぐ両国橋が見えました。
 この橋は彼の赤穂浪士が吉良上野介を討ち果たし、雪景色の中、凱旋の行進で渡った橋です。その感動的なシーンはよく映画やTVの大河ドラマに登場しています。吉良は晩年、この向島(現両国)の界隈に屋敷を持ち住んでいました。現在でもその屋敷跡は公園として残っており、私も昨年訪れました。当時、吉良は近所の民には名君と慕われていたそうで、その記念の公園が今でも大切にされ保存されています。それは民の吉良への思いの表れだと言われており、その公園の整備は民の代々の子孫の手で続けられています。 

 B浅草橋の船宿と釣り船
浅草橋の船宿と釣り船
 浅草橋は神田川に架かる橋で江戸の世では名の如く浅草寺に参る参道橋の役目を果たしていたそうです。この神田川の畔には船宿が軒を連ね釣り舟が係留されていました。ここから隅田川を経由して東京湾に出で、江戸前の魚を釣るのですね。旨そー。

 C駒形辺りから観た月食の月
月食
 この漫ろ歩きの間中、終始月に気を留め月を眺めながら歩きました。徐々に欠けてゆくのが見て取れて「わー、大分欠けた!」とか「わ−、奇麗!」とか「いいねー!」とか言い交わし褒めそやしました。そしてとどのつまりは誰かさんが「まるでダイエーのマークだね!」で終わりを告げ、私は呆れて「へー」、でも「フーン」と感心する輩も出てきました。誰とは言いませんが…。

 D浅草浅草寺仲見世の宝舟
仲見世の宝船
さすがに未明の四時、元旦の初詣のメッカもおしくらまんじゅうをしないでお参りができました。心を込めて一年の商売繁盛、家内安全を祈願しました。仲見世の各店舗も開いている店は数える程でした。鯛焼きや揚げ饅頭を頬張りながら歩き人形焼きとお菓子の福袋を買って地下鉄に乗り帰りました。福袋の中にはおこしや煎餅が沢山入ってました。

 E浅草寺五重塔
浅草寺五重塔
 太陽の光のない中、ライトアップされた五重塔が闇に浮かんでいました。古の造形の確かさは人間の美意識が導いたもの、決して現代のコンピュータでは出来ない入魂のもの…。美意識を磨く事が何よりも現代の造形に必要だと思うのです。
posted by 三上和伸 at 01:19| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年12月22日

湘南漫歩2 城ケ島 2009.12.21

仕事と父への見舞の合間を縫って、時間との勝負の漫ろ歩きとなりました。目的は年賀状制作のための写真撮影にありました。父の病などで落ち着かない日々が続き何事もいま一つ手に着かない状態で心が腐っていましたが、やはり自然は素晴らしいもので豪快な海を眺めていると心動くものがありました。海と花、そして海鵜の越冬地の写真を手早く収め満足を得て父のいる病院に向かいました。

 @輝く海
輝く海
 午後の光を受けて海は輝いていました。真に眩しくデジカメのモニターは真黒になり微かにしか見えず難渋しました。当て感で撮って直ぐ再画像で確認をしてよしとしました。改めて太陽の偉大さを知る事となりました。太陽とはこんなにも地球に光を降り注いでいるのですね…。
 輝きの先には伊豆大島の姿が見えます。

 A赤羽根海岸 
赤羽根海岸
 海鵜越冬地がある断崖を望む展望台から撮影しました。海は青く断崖の岩には白波が打ちつけていました。青と白の美しい構図であり、私の胸はその爽快により久し振りの軽さが蘇りました。

 B海鵜の宿
本の下の断崖写真をクリックするとウミウが見えます。
 長良川などの鵜飼い漁で一生懸命鮎を呑み込みそして吐き出しお客に美味しい鮎を提供しているのがこの海鵜です。彼らは潜水の名人?であり、また人間との共存ができる優れた性質を持つ鳥であるため鵜飼いで使われるのだそうです。ここの海鵜は鵜飼い用に捕獲はされませんが、確か房総半島では捕獲場所があると聞いています。海鵜はこの断崖で春の四月まで越冬します。そして英気を養って繁殖地の北へと向かうのです。
 ここは北に山を背負い北風が避けられ南は太平洋の海原で一日中太陽の恵みを受けられる所。朝豊かな海で食事を採れば後は日がな一日日向ぼっこに明け暮れる、鵜達にとっては正にこの上ないパラダイスですね。

 C水仙
水仙
 近年は海岸や海岸に近い地域に水仙を植えるいわゆる地域起こしと言われる活動が盛んです。ここ城ケ島でも沢山植えられて甘い香りで旅人を楽しませてくれています。でもここの水仙はちょいと歴史があるのです。ものの本に依ればここの水仙は明治の頃には既に人に知られた存在であったそうです。北原白秋や与謝野晶子もこの水仙に関心を持ち愛していたようで、晶子は白秋?に「城ケ島へ行ったなら水仙の根が欲しいから持ち帰ってください」と注文をしています。水仙は真の自生ではないとされていますが、何時の間にやら明治の頃にも生えていたのですね…。
posted by 三上和伸 at 23:23| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月20日

鎌倉漫歩2 秋の金沢街道 2009.11.20

 かねてより、鎌倉と六浦を結ぶ道・金沢街道を歩いてみたいと思っていたところ、今日突然、半日余りの暇ができたので思い切って私一人で実行してみました。妻には悪い気はしましたが…。
 起点は十二所(じゅうにそう)の太刀洗(たちあらい)として鎌倉駅まで、様々な風物を見付けては眺め、神社仏閣の古の佇まいを楽しみました。今回は予習の余地がなくぶっつけ本番の旅となり、地図さえ持たずに歩きました。正に漫ろ歩きそのものの旅となり楽しみました。ここは日本語が通じる?ので巷の人々に教えを乞うて道を覚え、寺の切符うりのおばさんにはお願いして観光案内までさせてしまいました。丁寧にお礼を述べると皆笑顔を返してくれました。

 
1、十二所(じゅうにそう)辺り

 @コムラサキ
コムラサキ
 十二所は鎌倉でも東の外れ、滑川の源流の朝比奈峠や円海山にも近く自然が多く残されている地域です。少し歩けば様々な自然の風物に出会えます。この日も思い掛けない美花を二つ見付けました。それは何と猛毒を持つヤマトリカブトと愛らしい薄紅のツリフネソウでした。ところがカメラの届かぬ位置に花はあり撮り切れず、されど諦められず、撮影可能な位置に咲く花を探し回りました。でも結果はお分かりの通りの有様となり残念至極で意気消沈しましたが、代わりに紫の美しい小紫の実が撮れました。人家の庭先の栽培ものですが、代役としては立派なものでした。
 この庭の端からは天園へのハイキングコースが伸びていました。写真左の細い道がそうですが、この道は何とも魅力的な誘惑をチラつかせて私に手招きをしていました。行きたいと衝動が走りました。しかし私は自重し街道に戻りました。まだ旅は始まったばかりでしたから…寄り道は慎みました。

 A朝比奈切通(あさひなきりどうし)
朝比奈切り通し
 本当は六浦側から朝比奈峠越えをしたかったのですが、六浦側には適当な駐車場がなかったのでした。それで太刀洗から戻る形で切り通しを目指しました。太刀洗は梶原景時が平広常を切った際にここの泉で太刀を洗った故事に因んだ名称です。この泉を太刀洗水と称しており鎌倉五名水の一つだそうです。朝比奈切通の手前にあるそうです。と言うのは実は私はこの泉を見付けられなかったのです。残念!
 多雨のせいか切通はあちこちで水が浸み出していました。鬱蒼とした木々はまだ紅葉前でした。


2、明王院(みょうおういん)
明王院
 飯盛山五大堂明王院と号する古式真言宗のお寺だそうです。本尊は五大不動明王。「鬼門除け不動」と言われているそうです。
 本堂の茅葺屋根が素敵でした。日本に茅葺は似合いますね。私達が遠い故郷の原風景を思い起こすからかしら…、切ないくらいに心が潤みました…。
  
*五大とは
 地・水・火・風・空の五大種の称。一切の物質に遍在して、それを構成するから大という。(広辞苑) 難しいですね? これが東洋哲学というものですか?

 
 3、浄妙寺
浄妙寺
 鎌倉五山第五位の禅宗のお寺です。こちらの屋根は美しい銅葺きで清々しささえ感じさせます。境内は広く散策路のある見事な庭園が広がっています。展望もよく周囲の山が見渡せます。
 本堂奥にある鎌足稲荷神社の名が鎌倉の地名の由来となったと伝えられています。初めて知りました、驚きです。 


 4、人家のサネカズラ(真葛、別名・ビナンカズラ)
サネカズラ 
 街道からそれて路地を歩けば人家の庭先には様々な樹木や花々が見られます。そこで一言褒めそやせば住民とのコミュニケーションも図れます。鎌倉はそんな路地歩きの楽しさを味わえる絶好の街です。
 生垣として設えられたこのサネカズラは今が正に実の熟し頃、紅い鈴生りの球形は瑞々しく、秋の豊かさを主張していました。


 5、報国寺

 @リンドウ(竜胆)
リンドウ
 境内に入ると直ぐにリンドウの紫が出迎えてくれました。丁度今が咲き頃、緑の苔の上で優しく微笑んでいました。来る者の心をいとも容易く解きほぐしてくれる、嬉しくも心憎いお出迎えができるのですね。素敵な庭です。

 Aお地蔵様とマンリョウ(万両)
お地蔵様とマンリョウ
 万両の紅にお地蔵様の赤い前垂れと赤い帽子、それらが溶け合っていい雰囲気を醸し出していました。リンドウの先の更なるこの愛しみ、心ある上手い庭造りの寺ですね、感心しました。そして私の庭造りの参考にもなりました。こんなに見事には作れないでしょうが…。 

 B竹林の寺
孟宗竹
臨済宗建長寺派の功臣山報国寺は竹の寺として余りにも有名です。どなたでも一度は入らした事がお有りでしょう、私も過去に数度訪れました。それにしても美しいお寺です。近年はとみに整備をされ、際立つ美しさ床しさに溢れており、驚きを新たにしました。
 仄暗い竹林にいると何故か心が落ち着いてきます。そして汗ばんだ肌に渡る風の爽やかさ、誠に心地良く一時の安逸を楽しみました。
 茅葺の鐘楼の端には沢山の小さな石塔が並べられてあり、不思議に思い切符売りのおばさんに尋ねてみました。「すいません、あそこに並んでいる石の塔はなんですか?」、すると「ああ、あれは昔の無縁仏の墓なんですよ、戦で死んだ名のない武士たちのね」と教えてくれました。「ありがとう、奥さん」?
 

 6、杉本観音
杉本観音
 美しい緑に苔むした鎌倉石のきざはし(段)、その奥の茅葺の本堂には秘仏本尊の十一面観音像が収められています。誠に神秘的な佇まいで武士の都の古寺の雰囲気が濃厚に漂って感動しました。この質実なところがいかにも鎌倉ですね…、素晴らしい…。
 土産物屋のおばさんが言いました。「茅葺の葺き替えにお金が掛かるので寄付をお願いしています。無理とは言いませんが?」と、「なるほど、喜んで!」と私は百円を寄付箱に入れました。観音様のあれこれを教えてくれた気持のよいこのおばさんとの徒然問答、「楽しかったね…」。
 この寺は坂東札所第一番鎌倉最古仏地天台宗大蔵山杉本寺と称し、坂東三十三観音霊場第一番だそうです。
  

 7、昼餉
ラ−メンとミニカツ丼
 昼ご飯には鎌倉小町の中華「あしなや」さんでラーメンとミニカツ丼を食べました。自家製麺の昔ながらのあっさりした味で喉越しが楽しめました。メンマは奥さんのお手製であり、これなくしてここのラーメンは語れないのでしょう。いい味を出していました。
 実はここの御主人は私のピアノ調律のお客様なのです。従業員のおばさんに尋ねたところ、もうすでにお帰りになられたとの事、残念でした。お留守に立ち寄りました。美味しかったですよ!

 お散歩日誌
 歩数=14,465歩
posted by 三上和伸 at 21:30| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月19日

木曾漫歩3 奈良井宿 2009.10.11

 1、水場
水場
 昔は多くの町人や旅人が使ったでありましょう…この水場…、今は使う者はなく、ただ水音だけがジョボジョボと清涼感を漂わせていました。水に触れてみました…、手がしびれるほどに冷たかったのでした。
 
 2、奈良井の家並
家並
 奈良井はよく町が整えられており、その保護活動の盛んさが見て取れました。そんな美しい街を漫ろ歩けば、自然と愉快が湧いて来て、旅の楽しさはここに極まりました。妻もとても楽しげで土産物屋を梯子していました。「何か買ったのかい?」と尋ねたら「一寸ね」と答えをはぐらかしました。

 3、道祖神
道祖神
 この男女和合の道祖神は江戸期のものとされています。この頃になると道祖神も魔除けや安全を守る神としてよりも男女の縁談や家庭の幸福、更に子孫繁栄を叶える神として建立されるようになったのだそうです。そう思い、よくよくこの和合の神様を見るとやたら仲が良さそうで、何か当てられちゃいました?

 4、造り酒屋
蔵元、杉の森
 美しい酒屋…、どんな酒を造っているのかしら? 下戸でも一寸飲んでみたい気がしますね…。
 追伸: ネットで調べました。二百年の歴史を持つ木曾五銘酒の一つだそうです。一寸辛口で飲み心地は爽やかだそうです。

 5、吊るしほおずき
ほうずき
 ほうずき、鮮烈なオレンジ色が素敵ですね。これこそが瑞々しいと言えるのですね。
posted by 三上和伸 at 23:43| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月14日

木曾漫歩2 妻籠宿 2009.10.10

妻籠に到着し、駐車場に車を進入させたところ、番人のおばさんに料金を取られました。「馬篭ではタダだったよ!」と言ったら、「あそこは個人の管理で、ここは公共で町の保護をしているのでその協力金を頂いているんだ!」とむすっとした顔で反論されてしまいました。きっと多くの人に言われてきてうんざりなのだろうと察しがつきました。「良く分かったよ、文句を言って御免ね。」と心で呟いていました。
 
 1、道祖神
道祖神
 信州には多くの道祖神が祀られています。それらはかつて旅人の道標として務めを果たしたり、民の安全と幸福の守り神でもありました。現代の私達にはそんな役目は必要ではありませんが、こうして目の前にあれば何故かしら心が鎮められるような気がして不思議です。まだまだその神通力は衰えてはいないのかも知れませんね…。

 2、旅籠の前で
犬とおじさん
 何処の誰だか知りませんが、犬と戯れて楽しそうです。旅人の私から見ても長閑で幸せな風景でした。思わず迷惑を顧みずにシャッターを切りました…御免なさい。
 妻籠は昔の建物がよく残されており、古式床しい町でした。商店も多くありますが、取り分け旅籠(民宿)が多くありました。ここに泊るのが若者たちの一つの憧れなのかも知れませんね。我妻も娘時代に泊ったそうです。たしか、越後屋?だったそうです。

 3、軒下の吊るし物と笊の中の唐辛子
ザクロと唐辛子
 これを見て、今夏ハンガリーを旅した折のセンテンドレの吊るし物を思い出しました。ところは変わっても人のなす事は同じなのですね、本当に美しく素敵な所作ですね。センテンドレはパプリカでしたが、ここではザクロに唐辛子でした。

 4、咲き乱れるシュウメイギク(秋冥菊)
シュウメイギク
 白花のシュウメイギク、誠に美しく咲かせました。手を掛けた人の努力が偲ばれる華やぎです。私もこんなに美しく咲かせられたらいいな…て憧れました…我が庭にはシュウメイギクはありませんが…。
 秋の冥土の菊と書きます。しかしその意味は幽玄の彼方にあり謎めいていて、私には良く分かりません。
 
posted by 三上和伸 at 23:23| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月13日

木曾漫歩1 馬篭宿 2009.10.10

私達は土日のETC割引を利用して、格安ですが盛り沢山の欲張った旅をしました。中山道の宿場町を巡り、木曾の山々を観望し紅葉を愛で、温泉を楽しみました。絶好の日和に恵まれて、自由自在、思う存分の旅を果たしました。これまで数回の旅では雨にたたられていたのですが、今回はお日様も大変ご機嫌よろしく、日焼けをするほどだったのでした。雨男の汚名も返上できたと心得て居ります。

 先ずは中央道中津川ICを降り、妻の運転で山道をクネクネと快適?に走り、馬篭宿に到着しました。ここを今回の旅の端緒としました。

“腹が減っては観光は出来ぬ”、まずは腹ごしらえと駐車場わきの手打ち蕎麦処「恵盛庵」に入りました。妻がニシン蕎麦、私はトトロ蕎麦をどちらも温かい汁で指名しました。黒く太い田舎蕎麦で都会の蕎麦の喉越しの切れはありませんでしたが、トロロとよく絡み重量感のある食べ応えでした。周りを見廻したところ、客の皆は笊蕎麦を食しており、笊は全て二段に重ねられていたので、恐らくそれが一人前なのでしょう? 私達の暖かい丼にも二枚分の蕎麦が入ってたようです。一杯の蕎麦で満腹となったのは何時以来の事だか一寸記憶にありません。でも蕎麦は酵素のお陰で消化が良く、すぐに腹の重さは気にならなくなりました。

 木曾の宿場町の今は正に女性天国、女性が好みそうな木工品及び漆器の工芸品店や団子や煎餅、五平餅などの美味いもの屋が軒を連ねています。妻は大喜びで土産物屋を漁っていましたが、私はそんな物にはさして興味はなく、建物の佇まいやその前に飾られている花や飾り物に目を奪われたのでした。そして馬篭の何よりの目的は島崎藤村の初恋の女性・おゆふ(おゆう)に会う事でした。私は心時めかせながらおゆふの待つ(写真が展示されてある)槌馬屋文書館(つちまや)の木の階段を上りました。


おゆふさん
藤村の初恋のモデル・おゆふさん

 まだあげ初めし前髪の
 林檎のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛の
 花ある君と思いけり

 やさしく白き手をのべて
 林檎をわれにあたへしは
 薄紅の秋の実に
 人こい初めしはじめなり
 ・
 ・
 ・
 
 私がこの女性にイメージしていた像は、何故か野菊の墓の民子に重なっていました。それは丁度今が野菊の季節であり、ここに来るまで多くの野菊を見ていたからかも知れません。しかし、この写真を眺め、詩を詠めば、それはそんななよなよとした女性ではなく、もっと健康な瑞々しい人だと感じました。薄紅の林檎のような人、本当にしなやかで素敵な女性でした。 
 
posted by 三上和伸 at 23:05| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月09日

北海道漫歩2 札幌 2009.9.24

 1、北海道庁 旧本庁舎(赤レンガ)
P9240530.JPG
 札幌駅南口から南東の方角に歩けば豊かに茂る木立が見えてきます。そこが北海道庁で、正門を入れば正面に美しい赤レンガの旧本庁舎が立ちはだかっています。誠に優美極まりない佇まいであり、私には赤い朱鷺が羽根を広げている様に観えました。アメリカ風ネオバロックの建築様式だそうです。
 中を見学できたので、しばし好学に燃え興味津々に視て回りました。北海道の自然の厳しさ、開拓に纏わる苦労やその道具類の展示など面白く拝見しました。またアイヌ民族の数奇な運命にも心惹かれ深い同情を覚えました。

 2、札幌市時計台
P9240535.JPG
 旧札幌農学校の演武場として建てられたのだそうです。あの有名なクラーク先生はこの演舞場が完成した時は、既に退官為されていらっしゃらなかったそうですが、間接的には関わったようです。
 最初は時計台ではなく鐘楼であったそうです。アメリカの開拓地で多く造られたバルーンフレーム構法を取り入れた木造建築だそうで、日本では稀だそうです。重要文化財。

 3、E.Howard社製 塔時計No3867
P9240537.JPG
 札幌時計台の塔時計は、米国ハワード時計会社製作の時打重錘振子四面時計(製造No738)が設置されています。明治14年8月12日の運転開始より当時の姿のまま、時を刻み鐘を鳴らし続けているそうです。
 この写真の塔時計(製造No3867)もハワード社で作られたものだそうです。中の仕組みを見るには格好のモデルです。2階ホールに展示されています。

4、大倉山ジャンプ競技場(旧大倉山シャンツェ)
P9240542.JPG
 大通り公園に辿り着いた私達は、テレビ塔の中3階のレストランでお茶を飲みました。丁度疲れも出始めていたところで一服したかったのでした。愛らしいウエイトレスに「お茶でもいいかい?」と尋ねたら、ニッコリ微笑んで「いいです!」との答え、私達はゆっくりと寛ぎました。ふと大通り公園を眺めていると、その延長線上のずっと先の山肌にジャンプ台らしきものがあるのに気付きました。手元の地図で確かめたところ、それは大倉山でした。そうです大倉山シャンツェだったのでした。札幌冬季オリンピック90メートル級ジャンプが行われた会場でした。当時の日本選手の果敢なジャンプを懐かしく思い起こし嬉しくなりました。そしてその年月を経て今ここにいる幸福に感謝しました。
posted by 三上和伸 at 22:50| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月07日

北海道漫歩1 小樽 2009.9.24

1、小樽駅を飾る石油ランプ
小樽駅の石油ランプ
 小樽駅の駅舎の窓にはランプが飾られています。この地の産業の一つであるガラス製造に因んで飾られたようです。改札を出た私達をそれは突然出迎えてくれたのでした。独特の風情を醸し出しており、「素敵な町なんだなー」と旅人は強く印象付けられ、期待を膨らませます。もちろん私達も膨らみました。ふっくらと…。

 2、小樽運河
小樽運河
 最も小樽らしい小樽の顔。駅前の広い道を真っ直ぐ進めば運河に突き当たります。こう言う風景を異国情緒と言うのでしょうか? 水面に映った倉庫街が新鮮に観えました。観光化されて現代の顔も見せていますが、それは仕方ない事。じっと目を閉じ想像すれば百年の昔を偲ぶ事ができます。そんな重い空気が流れている気がしました。

 3、日本銀行旧小樽支店 現金融資料館
日銀旧小樽支店
 未曾有の鰊(ニシン)豊漁に札束が乱れ飛んだ町・小樽、この一角には歴史的建造物となった旧銀行が立ち並んでいます。その中でも一際立派なのがこの日本銀行旧小樽支店です。往時の栄華が胸に迫る程に重々しく佇んでいました。
 また、街はずれの丘の上には「にしん御殿」なる豪壮な館もあるそうです。倉庫群や銀行群と同様にそのニシンの富がもたらした現存する証でもあり、一度見てみたい気はしました。何れまたの機会があれば…。

 4、石造りの商店
石造りの商店
 普通の商店にしても実に立派な建物です。ちゃんと家の両端には“うだつ”(本来は“うだち”・卯建)が上がっていました。小樽は重厚な建物が多いです。

 5、堺町通り
堺町通り
 小樽一の繁華街、北一ガラスを中心に観光化が進み、古い建物を利用して現代を反映した土産物屋が軒を連ねています。若者が多かった。
 雨に降られました。一寸辛かった…。

 6、北一ヴェネチア美術館
北一ヴェネチア美術館
 1901年創業の北一ガラス、当初は石油ランプ製造が主な仕事でした。あの小樽駅の石油ランプはこの北一ガラスの製品で、この地場産業に因んで飾られていたのです。またその後の北一はニシン漁に使うガラスの浮玉(ブイ)の製造を手掛け、ニシン漁の隆盛と共に業績を伸ばしたそうです。やがてニシンの激減により北一ガラスも衰退縮小を余儀なくされました。しかし世界各国のガラス製品の販売に活路を見出し、現在では自社の廉価なガラス細工の製造販売も再開し再びの繁栄を謳歌しています。とにかくこの界隈は観光客が多く、若者を中心に異常に賑わっていました。
 ヴェネチア美術館はヴェネチアグラスの高級品の展示を行なっています。誠に煌びやかな空間が広がっており、女性は目が眩み強い憧れを抱くようですね。私などはそんなブルジョワ的な気取った雰囲気はどうでもよく鬱陶しいものですがね…。更にヴェネチアのゴンドラまで展示されています。このゴンドラはかつてダイアナ皇太子妃が乗ったものだそうですよ。それは私には興味深いものがありますがね…。
posted by 三上和伸 at 18:06| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月07日

横浜漫歩5 三溪園の夏 横浜本牧 2009.8.7

 *帰国してから一月半が過ぎようとしています。それなのに私は近日までの長い時間、ヨーロッパ旅行の思い出に耽り溺れてきました。それでもようやくそこから目覚めつつある今日この頃であり、普段の自分を取り戻し始めました。そうしたら今度は矢鱈と日本情緒が恋しくなり、三溪園でも行ってみるかと思い立ち、妻と次女を誘って出掛けてみました。先ずは昼飯と思い、近くの隣花苑を訪ねましたが、生憎八月は全休との事。鷹揚な商売をしているな!と驚き、半ば呆れましたが、とにかく古民家での原三溪縁のもてなし料理は中々のもので、これが味わえぬのは残念と地団駄を踏みました。

 *原三溪は生糸貿易で莫大な財を成し、その財を利して己が趣味である文化芸術及び建築を擁護しました。この本牧の邸宅がその証で多くの文化財を収集保存しました。京都や鎌倉の古都からは歴史的建造物が移築され満遍なく庭園に配置され見事な景観を作り出しました。明治三十九年には一般公開もされ、多くの市民の憩いの場としても役目も果たすようになりました。戦後になると原家私邸の内苑の部分も公開されるようになり、三溪園全域が入場可能となりました。
 今回は開港百五十周年記念の一環として、ほとんど全ての建物が入室可能となり、秘密の内苑の隅々までが鑑賞できたのです。勿論、私達は恥ずかしながら入園するまでその情報は知りませんでしたが…。
 内苑は昔の別荘や茶室が多く在り、昔人達の風雅を愛した心の贅沢が偲ばれ、私は憧れを禁じ得ませんでした。

1、三渓園の鳥瞰図
鳥瞰図
 これは入って直ぐの右側にあり、私は立ち止まり暫し眺めました。あのチェスキー・クルムロフにあった鳥瞰図を思わず思い出してしまい、まだまだ私の心中にはヨーロッパが棲みついているのだなと失笑しました。その鳥瞰図の出来はと言うとクルムロフの方が遥かに優り、三溪園さんは残念!負け!。何故なら字が小さくて日本語なのに見難い!。もっと工夫を凝らすように!。心憎いようなサービスをしてごらん、これからは観光立国日本なのですぞ!。

 2、蓮の花 
蓮の花
 鳥瞰図の先の右手の道を辿れば蓮池に行き当たります。私達の目的の一つはこの蓮華を見る事にありました。夏の花・蓮華、暑さをものともせず咲く様は気丈にして優雅、私達を水辺の寛ぎに誘ってくれます。

3、睡蓮の花
睡蓮の花
 蓮池を過ぎると今度は睡蓮池があります。既に花は少なかったのですが、写真は何とか撮れました。葉を水面に浮かべ花も水に浮かんでいるようで、こちらは更に涼しげです。花は開閉運動をする性質があり、夕刻には花を閉じ眠りに着いたように見えます。因って睡蓮の名となりましたが、それにはまどろむような印象の静けさが感じられ、良い名前だと思います。 

 4、大池と三重塔
大池と三重塔
 池と三重塔、これぞ日本の風景ですよね。日本の古都ではお馴染みの風景で日本にいる実感が湧いてきます。山も濃緑の木々が萌え、この緑の深さが日本を表しています。西洋の山にない分厚さがあります。

 5、鶴翔閣(かくしょうかく)
鶴翔閣
 三溪園の迎賓館の役目を預かっている大きな建物で、会議や茶会などの大きな催しにも使われています。
 元は三溪の本宅で縁の文人墨客が出入りをし、当時の日本の文化芸術の一つの拠点となっていました。内部には横山大観等の絵画や書が飾られています。
 
 6、大池に浮かぶ赤橋(観心橋)と東屋(涵花亭)
かんしんばしとかんかてい
 水面に浮かぶ赤い橋と味わい深い東屋。中国風と言えるかも知れませんね…。大池に溶け込んで一服の絵となり見事です。

 ◎内苑
 普段は見る事の出来ない内苑の建物の内部も一般公開されていました。風流極まりない日本建築の粋が見られました。

 7、御門(ごもん)
御門
1708年建築の門。京都東山の西方寺にあった薬医門。
三溪園内苑を守る守護門。

 8、白雲邸
はくうんてい
 大正九年(1920)建造の数寄屋風建築。三溪の隠居所。でも単なる隠居所ではなく、接客や交友の場としても整えられています。近代数寄屋造りの傑作と言われています。

 9、臨春閣(重要文化財)
臨春閣 水辺から
 紀州徳川家の別荘建築、1649年紀ノ川の畔に建てられました。数寄屋風書院作りの夏の別荘で、清々と開け放たれた構造を持ち、夏には如何にも住み易そうに造られています。水と家が溶け合う様は正に涼みの極みでした。  

 10、金毛窟(きんもうくつ)
金毛窟
 三溪作の一畳台目の茶室。侘び寂びの真髄の庵、さぞかしここで頂く茶は旨い事でしょう…。
 名の謂われは、千利休が修造した大徳寺山門(金毛閣)の高欄の手すりを床柱に用いたから。

 11、天授院(重要文化財)
てんじゅいん
 鎌倉建長寺付近にあった禅宗の地蔵堂。1651年建造。
 美しい茅葺屋根が印象的でした。

12、月華殿(重要文化財)
げっかでん
 1603年に徳川家康が京都伏見城内に造らせた諸大名伺候の際の控え室。大正七年に三溪園に移築されました。

 13、聴秋閣(重要文化財)
ちょうしゅうかく
 徳川家光が二条城内に造らせた楼閣。後に春日の局が江戸で譲り受けました。大正八年三溪園に移築されました。

 14、旧天瑞寺寿塔覆堂(きゅうてんずいじじゅとうおおいどう・重要文化財)
寿塔覆堂
 寿塔とは長寿を願って生存中に建てる墓の事。豊臣秀吉は母の大政所のために京都大徳寺の天瑞寺に寿塔を建てました。現在でも寿塔は大徳寺にあり、その覆堂(1591年築)だけがこの三溪園に移築されました。

15、春草蘆(しゅんそうろ・重要文化財)
春草蘆
 織田信長の弟の有楽斎の作と伝わる三畳台目の茶室。京都・三室戸寺金蔵院の月華澱に付随して建てられたものと言われています。大正七年に前述の月華殿と共に三溪園に移築されました。

 16、蓮華院の土の人形
れんげいん
 三溪が大正六年に建てた六畳と二畳中板の茶室です。土間と壁には宇治平等院鳳凰堂で使われていた円柱と格子があります。


 ◎外苑
 今まで公開されてきた三溪園の表の顔です。花に彩られた庭に潤いある水辺、そして豊かで深い森、それらは何時までも変わる事はありません。

 17、旧燈明寺本堂(重要文化財)
きゅうとうみょうじほんどう
 京都にあった燈明寺は廃寺となり、昭和二十二年の台風で被害を受け長らく解体保存をされていました。漸く昭和六十二年にこの三溪園に移築され今日に至りました。行き場所を失った寺院やその他の建造物はこの地で新たな役割を果たして行きます。それはそれで本来の務めとは言えませんが真に望ましい事で、その恩恵を横浜に住む私は多く受け、楽しませて貰っています。遺産よ永遠に…。

 18、合掌造り・旧矢の原家住宅(重要文化財)
合掌造り
 白川郷にあった合掌造りの民家。生憎の御母衣ダム建設の用地に掛かり、解体を余儀なくされました。そこで矢の原家は移築を願い、横浜の三溪園に譲る事になったのです。このように今も美しい姿を晒しています。喜ばしい事ですね。

 19、旧東慶寺仏殿(重要文化財)
きゅうとうけいじぶつでん
 室町時代の建造と言われるこの仏殿、何故ここにあるのか釈然としませんが、それなりの訳があるのでしょう…。東慶寺は北条時宗の妻・覚山尼が時宗を供養する為に開いた尼寺です。駆け込み寺とか縁切り寺と呼ばれ女性の味方の寺と言えます。ここに逃げ込めば嫌な亭主から別れられる、それは現代でも必要でありましょう。

 20、横笛庵
よこぶえあん
 建礼門院の侍女・横笛の悲恋に纏わる庵。横笛は恋人の滝口入道の千束の恋文をもって己が像(恋文を溶かした張り子)を形作ったそうです。その像が第二次世界大戦までこの庵に存在していたのです。戦争は何もかも壊す悪魔。悪魔に負けてはなりません。
 それにしても素敵な茅葺屋根ですね。

 21、旧燈明寺三重塔(重要文化財)
きゅうとうみょうじさんじゅうのとう
 この三溪園のシンボル、近くでも遠くからでもよく見えます。それは力強く天を指して私達に何かを語っているようです。何かは分からないけれども…。
 室町時代の造り、大正三年にここに移築。

 22、おやつ 三溪園茶寮
かき氷白玉小豆 お団子
 隣花苑がお休みだったので…、とうとう私達はお昼を食べず仕舞いでした。お中がペコペコでしたが、昼食には遅く仕方なくお茶屋さんのかき氷とお団子で我慢をしました。でもその美味しかった事!。その冷たさと甘さは五臓六腑に染みわたりました。暑さ故の気だるさもなくなり、元気にもう一歩きしました。
 
 参考: 三溪園のしおり、各建造物に備えられた案内看板
 
posted by 三上和伸 at 23:03| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月04日

横浜漫歩4 元町、日本大通りのフラワーアートと県庁公開 2009.5.4

 1、元町散策とcafe toledoの昼餉と喫茶
 連休をどう過ごすか?、それは家族各々の思惑が交錯してまとまりが付かず、取り敢えず遠出は避ける事にしました。例の有料道路のETC割引で大渋滞も予想されていたからで、ここは賢く近場で遊ぶ事にしたのです。
 この日は妻の提案で横浜日本大通りで開かれているフラワーアートフェスティバルに行ってきました。妻の母も誘い、我が家四人のフルメンバーで急遽、横浜漫歩4を決行したのでした。
 まずは腹ごしらえと新山下の汀にある横浜YCCのレストランを目指したのですが、あいにくお店は休業で、仕方なく元町を歩き紆余曲折の末、程良いカフェレストランを探し当てました。皆がああだこうだと店の品定めに現を抜かし、男の私は「何処でも良いじゃないの!」と苛立ちを募らせましたが、女性にはある種のこだわりがあるようです。それは女性ならではのこだわりのようで、男にとっては面倒な事ですが、そこは女性の可愛い見栄と察し許しました。結局入ったお店“カフェトレド”は大正解で、この辺りによくある小さなカフェですが、料理とデザートは秀逸でした。
 私の注文はタイカレーで、一口、口にするとその辛さと芳香に私の舌は驚きの反応をしたのでした。強烈な食欲が湧き上がり、それに煽られつつも、しかし努めて上品に頂きました。抑制された食べ方もものを美味しく頂くコツの一つと心得し始めたからなのです。成熟した振る舞いは大切ですよね…。皆も一様に満足の笑顔を浮かべ、和やかな雰囲気でした。良かった良かった…。
 元町のウィンドウショピングは女性には答えられないでしょうが、男の私には面白くありません。ベンチに腰かけて短くはない時間をひたすら人や犬を眺めて遣り過ごしました。過激なファションの女性に目を奪われるのはおじさんの常で楽しめましたが、ちょっと後ろめたくみすぼらしく、悲しい気分にもなりました。

 @カフェラテ
カフェラテ
 次女の注文の品、可愛かったので彼女に写真を撮らせました。幼稚園教諭の次女ですが、写真撮影も上手で、次の私のタルトの写真に比べ構図がしっかりしています。
 その模様は何かの葉なのでしょうか?、奇麗で美味しそうですね。私は次女に「美味しいかい?」と…、次女は「美味しいよ!」と…、素直な答えが返ってきました。

 A日向夏と金柑のタルト
日向夏と金柑のタルト
 テーブルの上に置かれていた品カードに、この日向夏と金柑のタルトが載っていました。その値段は驚きの額で迷いましたが、大変美しく美味しそうなので私は注文しました。私の興味と食欲が勝りました。
 その美味しかった事!。口中は南国の香りと甘さで占領され、爽快の極みでした。


 2、フラワーアート フェスティバル 日本大通り
日本大通りのフラワーアート
 横浜開港150周年記念の一環として、開港当時の横浜を花絵で紹介する催しが開かれていました。それは横浜開港道路・日本大通りの車道に花弁を敷き詰めて花絵を描いたもので、長大な道路を鮮やかな色彩で染め壮観でした。緑、黒、ライトブルー以外は全て花弁を用いており、その花弁はバラ18万本分、チューリップ6万本分が費やされたそうです。絵は開港前後の横浜の人物、風俗、風物を描いた浮世絵の横浜絵が図案に用いられていました。更に公募された市民の作品もありました。精緻な花絵に仕上げられており、多くの人々の尽力が偲ばれ感動しました。多数のボランティアの活躍が陰であったようです。辺りは緑に使われた杉の葉と敷き詰められた花弁が香り、清々しい気に満ちていました。

 *バラの花弁は脇枝の無用の花弁をインドなどから輸入したもの。チューリップは新潟市のもので球根育成の為に切り落とした花のもの。杉の葉は間伐材を使用したそうです。



 3、神奈川県庁本庁舎の一部公開
 花絵を見終わり本町通りを歩いていたところ、県庁の屋上に見物客の姿を見受けました。早速、物見高い妻が「一般公開されているのよ!、新聞で読んだ気がするわ、いこいこ!」とのたまいました。私も良い機会だと合点をし入館しました。やはり開港150年のメモリアルイベントとして本庁舎の一部公開が為されていました。

 @神奈川県庁の塔“キング”
県庁舎のキングの塔
 堅牢で重厚な佇まい、キングの名に相応しい素晴らしい個性が光ります。評論家バーナード・ショーが来日の折(船で)、この建物を褒めたそうです。「均整のとれた大きな建物は、それだけで美を持つ。この建物がその良い例だ」と。

 A第3応接室
応接室
 廊下の石を敷いた床、漆喰塗の壁。部屋の木の扉や家具調度品。決して華美な所はなく、質実で重厚な造りをしていました。やや暗いがその分落ち着いた雰囲気を醸していました。

 B屋上からの景色
屋上からの景色
 屋上から北を望めば、横浜港が眼前に広がります。大桟橋やベイブリッジは手に取るように見えます。また開港当初の波止場であった象の鼻防波堤も間近に見え、日本の近代化の玄関(海の)を目の当たりにできるのです。
 *象の鼻…開港当初、最初に造られ使われた桟橋。写真の大桟橋と遊歩道の間の湾上に見える堤防。この先端がくるりと丸く、象の鼻に似る。
 参考:配られた各パンフレット
posted by 三上和伸 at 18:10| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年03月08日

横浜漫歩3 山手界隈 2009.3.7

 1、昼餉、ヒルサイドガーデン・テラッツオ
 午前に歯の治療をした私は、そのあと暇となり、妻を誘って横浜山手の漫ろ歩きを楽しみました。この山手漫歩は以前から私の念頭にあり、今日の妻のイギリス館への用事も手伝って二人して出掛けてみました。まずは旅の前の腹ごしらえとして、このヒルサイドガーデンのイタリアン、テラッツオを選び出し、入店しました。ここはフランス山の斜面、港の見える丘公園の真下にあるリゾート施設で、二つのレストランやホテルが備えられています。そのロケーションは表玄関が新山下の下町に面し、背後には山手の緑園が迫り、躁と閑が混じり合い独特の雰囲気を醸し出しており、異国趣味が楽しめます。

テラッツオ・前菜
@前菜
 かぶのスープ  チーズ・バルサミコ酢添え
 白身魚のソテー  パスタの素揚げにハム
 白の地に青の縁取りが鮮やかな四角い皿に、前菜が並べられていました。それは美しい春の彩りでした。

オレキエッテ
Aオレキエッテ ブロッコリー、カリフラワー、菜の花のクリームソース
 春色の美しいクリームソース、妻の指定したメインのパスタ。

スパゲッティ
Bスパゲッティ あさりとムールとフレッシュトマトのソース
 大きなあさりが目を引く逸品でした。トマトの酸味が後味を清めてくれました。私が注文したメインのパスタ料理。
 
塩ミルクのジェラート
C塩ミルクのジェラート
 仄かな塩味が爽やかでした。

 この他にはパンと飲み物がつきました。 パスタランチセット¥1,575
お手頃な値段で楽しめます。

 
 2、西洋の香りを訪ねて
 昼餉を堪能した私達はヒルサイドガーデンの上方の出口よりフランス山の遊歩道に入り、港の見える丘公園に上りました。途中のフランス山の木立は伸びやかに枝振りを広げ、傍には椿が紅を添えていました。天気は上々で気持ち良く、春の気配は濃厚でした。
 妻はここにあるイギリス館で用を済ませ、再びの漫歩の歩を進めました。大人が楽しめる街・山手…、皆様も私とご一緒に山手の異国情緒を楽しんでください。
 

 *イギリス館(横浜市指定文化財)
 妻が用事で館内に入り、同行した私もその雰囲気は味わいましたが、今は補修の作業が行われており、一般の見学客は入館不可となっています。外壁にはシートが被せられ、撮影は無理でした。
 イギリス館は昭和12年に英国総領事公邸として建てられたモダニズム建築で、重厚な佇まいを今日に伝えています。現在は横浜市指定文化財となり、一般に公開されています。ホールにはピアノがあり、我妻や我が娘も度々使用しています。私も年に何度かは調律に訪れます。


 @山手111番館(横浜市指定文化財)
山手111番館
  美しき異人館
 港の見える丘公園の先、大仏次郎記念館の隣に在ります。この名の数字・山手111番は住所だと言う事です。明治や大正の当時、家が建つとその順番に番地が決められたそうです。これは111番目にできた建物なのですね?、111番…、いい番号ですね!。スパニッシュスタイルの赤瓦と白い壁が特徴であり、実に美しい館です。この館にもアップライトピアノが在りました。  
大正15年完成 設計J・H・モーガン
 この日はコンサートが開かれるそうで、早くも聴衆が詰めかけ、賑わいを見せていました。自由に聴いてもよさそうであり、また聞いてみたい気がしましたが、時が無く私達は先を急ぎました。


 *岩崎ミュージアム・山手ゲーテ座
 港の見える丘公園の先、外国人墓地の手前の左側には岩崎ミュージアムが在ります。ここは元「ゲーテ座」であり、ゲーテ座は日本初の洋式商業劇場として演劇、音楽、舞踏会、展覧会などの催しが開かれていました。明治18年創業で、明治24年には日本初のシェイクスピア劇「ハムレット」が上演されました。観客には坪内逍遥や北村透谷らの文豪や評論家が訪れたと言う事です。そして一般の多くの人々がこの劇場を目指し、横浜を訪れたそうです。
 またゲーテ座のゲーテは文豪のゲーテに因んだ名ではなく、英語のGaiety(ゲィティ、陽気な愉快なの意味)から取られたそうです。今回この山手の歴史を調べた折りにそれを知り、人間の思い込みとはあやふやなものと笑いました。物事を知り扱う時はよく吟味する事が大切ですね。
 現在は岩崎学園の所有となり、服飾関係の博物館としての役割を持つ岩崎ミュージアムになっています。そしてその一階部分には、かつてのゲーテの名を冠した小ホール・「山手ゲーテ座」があり、一般に活用されています。


 A横浜外国人墓地
外国人墓地
山手外国人墓地から垣間見るランドマーク・タワー
 山手の西斜面に造られた美しい庭園墓地。設計者はJ・H・モーガンで、モーガンは住宅だけでなく、造園にも才を発揮したのでした。中華街と並び最も横浜の異国情緒を堪能できる区域です。私達は題名の漫歩の文字道理に緩やかにこの墓地を漫ろ歩きました。様々な形態の墓石があり、庭園と美しく溶け合って素敵でした。この地点からは丁度ランドマーク・タワーが望めました。「横浜っていいな!」て思わず呟いてしまうような、取って置きの風景です。


B山手資料館(横浜市認定歴史的建造物)
山手資料館
 横浜最古の西洋木造建築
 現存する横浜西洋木造建築で、唯一残された明治時代に竣工されたもの。これは日本の大工さんが造り上げたものだそうで、小さくて可愛らしい洋館です。館内には文明開化以来の多数の資料が展示されています。当時の横浜の古地図やガラス工芸の品々が私の目を捉えました。地図を熱心に眺めていると行きずりのご婦人が教えを請うてきました。私は帷子川流域の保土ヶ谷の辺りを説明しました。「ここが帷子川でこの辺りが天王町です」と…。そしてガラス製品は美しく、私は妻と目を合わせ「綺麗だね!」とサインを送り、答え合いました。


 C山手聖公会
山手聖公会
山手聖公会の堅牢な塔
 ノルマン様式の聖堂。がっしりとした立派な建物です。2005年1月放火により炎焼しましたが、同年11月に復興しました。その為真新しく清潔感に溢れていて気持のよい建物でした。
 この教会は日本で初めての聖公会の教会で、最初は1863年、今の中華街で始まりました。その後1901年に現在の地・山手に移転し、以来この地で礼拝及び布教活動がなされています。
 聖公会はケルト・キリスト教やイギリス国教会の流れをくみ、アングリカン・コミュニオンに属しています。これはカトリックでもなく、プロテスタントでもない独特の宗派で、世界中にその教会(クライスト・チャーチ)を有しています。日本でもこの山手から布教を拡大し、立教大学や聖路加病院などを育て上げ、教育・福祉の面でも大きな貢献を果たしています。 


D山手234番館(横浜市認定歴史的建造物)
山手234番館 
山手本通りから見た山手234番館
 関東大震災の後、昭和2年に外国人のための共同住宅として建てられました。その後、横浜市が買い取り、平成11年に改修整備され横浜市認定歴史的建造物として開館されました。円柱状の白い柱が美しく、西洋の雰囲気を醸し出しています。
  

 Eエリスマン邸(横浜市認定歴史的建造物)
エリスマン邸
エリスマン邸の瀟洒な姿
 当時、日本で唯一の輸出産物であった生糸…、その生糸の貿易会社シーベルヘグナー商会の支配人であったエリスマン…、この館はそのエリスマンの私邸でした。貿易による富は莫大であったらしくエリスマンは豊かな生活をし、このような豪邸に住んでいたのです。外見は実にお洒落であり、内部は住み心地よさそうで、様々な工夫が凝らされています。当時の山手の異人達が如何に文化的な生活を送っていたか、偲ばれました。
 大正15年完成 設計:A・レーモンド
 
 Fエリスマン邸の喫茶室
喫茶室
 喫茶室、寛ぎの佇まい
 エリスマン邸には素敵な喫茶室があります。それは決して豪華とはいえませんが、質素で温かい雰囲気があります。窓からは元町公園の木立茂る谷越しにマリン・タワーが覗け、何時までもお茶していたい名残惜しさに悩みます。けれども席を待ってるお客もいるので、私達は一服を採ると即座に席を譲り、旅を続けました。
 ケーキ・セット¥700 私:酸味のコーヒー 妻:苦味のコーヒー


 Gベーリック・ホール(横浜市認定歴史的建造物)
ベーリック・ホール
豪壮華麗なベーリック・ホール
 山手異人館群の中でも最大規模の館。イギリス人貿易商B・R・ベーリックの私邸でした。内部は大変広く作りも豪華であり、正に豪邸の名に恥じぬものでした。
 昭和5年 設計:J・H・モーガン

 Hベーリック・ホールのピアノ演奏
ピアノ演奏
うら若き乙女のピアノ演奏
 この日はボランティアの若い女性ピアニストによる演奏が行われていました。そつがない確かな演奏でしたが、私はもう少し思い入れがあっても良いのではないかと…。でも沢山弾くので、それでは疲れてしまうかも知れませんよね。しかしそれでも芸術は真剣勝負だと思うのです。一瞬一瞬に華を見せないとね、何かを語る事はできません。


 I山手公園のヒマラヤスギ 
ヒマラヤスギ
  大樹に憩う
 山手公園の敷地には、日本のテニス発祥の地があります。そのテニスコートの周囲には、多くのヒマラヤスギが植えられ深い木陰を作っています。今は早春なのでその日陰の有難味は感じられませんが、さぞかし夏には、そこを渡る風の涼しさに一片の憩いを得られたのではないでしょうか。そこかしこに異人達の憩いの輪が見えるようでした。桜も植えられており、真に気持のよい都会の別天地です。
 ヒマラヤスギはイギリス人ヘンリー・ブルックがインドのカルカッタから種子を輸入し育てました。それは明治12年のことであり、その後、皇室に献上され皇居に植えられたのを初めとして、街路樹として日本全国に広まったと言われます。
  
 
 J山手68番館
山手68番館
古き良きクラブハウス
 初めは外国人向けの賃貸住宅として、山手68番地に建てられました。その後現在の地に移築され、市営テニスコートのクラブハウスとして活用されています。また同時に山手公園の管理事務所としても使われており現役として頑張っています。隣りにはテニス発祥記念館があり、両館とも周囲の環境に溶け込んで美しい佇まいを魅せています。


 Kカトリック山手教会
カトリック山手教会
  天まで届け
 テニス発祥記念館を後にして木立の中を抜けると、突然美しい十字架を頂いた尖塔が見えてきました。そうです、この大きなゴシック様式の建物はカトリック山手教会でした。聖堂に入ると、そこには美しい祭壇に色鮮やかなステンドグラス、それは白壁に映え幻想の光を放ちます。日本一美しい聖堂と言われる所以を私はそこに見つけました。この時は丁度礼拝が行われていました。讃美歌が歌われ、私達も静かに聴き入り、敬虔な心持に浄化されました。
  
 L聖マリア像
マリア様
  溜息のマリア
 教会の庭には聖マリア像が飾られています。これは1868年にフランスから寄贈されたものだそうで、震災や戦禍を免れ今日に至っています。その白い優美は鮮烈で忘れがたく、この日一番の美しい出会いでした。今もこの写真を眺めてはうっとりとし、溜息をついています。


 M外交官の家(重要文化財)
外交官の家
エリカの花に囲まれた外交官の家
 外交官・内田定槌の館として明治43年に渋谷区南平台に建てられました。その後、平成9年にこの地に移築され、この時同時に国の重要文化財となりました。豪壮で美しい館であり、麓の石川町辺りからでもよく見えます。イタリア山庭園に隣接しており、この辺りは真に美しく整備されていて見所です。私は大変気に入りました。
設計:A・M・ガーディナー

 N外交官の家の書斎(執務室)にて
書斎にて
 館の主になったつもり?
 私の夢の一つはこんな書斎を持つ事でした。でもそれは夢のまた夢のまた夢?、いいじゃないですか、こんなもの持たなくたって!、幸せならそれでいいのです。
 
 参考文献:各建造物の案内のしおり、山手西洋館マップなど
posted by 三上和伸 at 22:23| ☔| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月25日

横浜漫歩2 松原商店街でお買い物 2009.2.21

 1、旧東海道の案内板(浅間神社ー境木)芝生(しぼう)の追分付近
旧東海道の案内板
 横浜市の保土ヶ谷の辺り…、今の東海道と江戸時代の東海道は近くにありますが所在は違っています。JR東海道線を跨いで東が現東海道、西に旧東海道があります。そして旧東海道は正しくこの洪福寺松原商店街を貫いているのです。この案内板は商店街の駐車場の脇にあり、この地こそが芝生の追分です。追分とは分かれ道、真っ直ぐ南へ向かえば尚東海道を行き、西に折れればそれは八王子道、今の国道16号線です。この興味深い道・旧東海道はいずれ近い内に歩いてみたいと思っています。漫歩シリーズでお伝えします。
 この昔ながらの素朴な商店街…、この松原商店街は旧東海道に似つかわしく、味わいのあるお買い得な商店街です。

 2、八百屋さん
八百屋さん
 道に所狭しと品物を並べています。これがこの商店街の日常的な風景で、混雑するとかなり歩き難くなります。薄利多売を旨としており、大量の商品を陳列するには店内では狭すぎ、道にはみ出してしまうと言う訳です。客は必死に品を見定め、「白菜」、「キャベツ」と声を掛け、店員と小銭で売り買いします。慣れた人は直ぐには買わずに店を渡り歩き、最後にそれぞれの種類の最も安く新鮮な品を買い求めていきます。 

 3、魚屋さん
魚屋さん・サワラ
 何と言ってもこの商店街の目玉は魚幸水産の魚でしょう。特に鮪の解体ショーは見物です。いなせなお兄さんが鋭い切れ味の長包丁で威勢良く次々と捌いて行きます。真に小気味良く、見ているだけで旨そうで思わず垂涎してしまいそうです。メバチマグロが中心で、日によっては本マグロやインドマグロなどの高級品もあり、この日は本マグロの入荷がありました。それでもここの売りは庶民の鮪・メバチマグロで、それは舌に柔らかくまとわりつき、噛めば脂が蕩けます。そして仄かな鮪特有の良い香りがするのです。是非一度皆様もご賞味ください。
 また、他の魚も新鮮であり、魚特有の嫌な臭いがまるでありません。鰹に鯵、秋刀魚や鰯などの大衆魚も本当に美味しく生で頂けます。安価で旨い魚が鱈腹食べられる、松原商店街の魚幸水産は誰が何と言おうと庶民の味方です。褒め過ぎたか?…



posted by 三上和伸 at 22:13| ☔| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月02日

横浜漫歩1 日本大通りと大桟橋 2009.2.1

 漫歩は漫ろ歩き、それは字の如くゆるゆるとあてどなく歩く事、私の大好きな言葉ですが、この気儘な旅・漫歩の横浜版を始めたいと思いました。私も横浜に住んで今年で三十年、もっと横浜を知りたいと願望したのです。まずは横浜の顔と言うべき日本大通り界隈を訪ねました。

 1、日本大通り
日本大通り
 関内駅で降り、日本初の西洋式公園・“横浜公園(横浜スタジアムがあるが明治の頃はクリケット場)”を北に抜けると日本大通りに突き当たります。ここは日本最初の西洋式街路で、明治3年に完成し、同8年に日本大通りと命名されました。そしてこの街路を直進すればやがて世界へ繋がる大桟橋へと至ります。正にこの道は当時の横浜のメインストリートだったのです。今でも神奈川県庁を初めとし、日本銀行、横浜地方裁判所、地方検察庁等が立ち並び、神奈川の司法行政の中心であり、往時の威容を今に伝えています。
 因みにこの道の街路樹は銀杏であり、秋には美しく色付きます。

 *旧関東財務局(旧労働基準局) 現横浜・創造界隈ZAIM
 この大通りには幾つかの古き良き歴史的建造物が並んでいます。最初に入館したのが“旧関東財務局(並びに旧労働基準局)”のビルで、昭和2年に竣工されたものです。現在は“横浜・創造界隈ZAIM(ザイム)”の拠点となっており、アーティストやクリエーターの創造活動の場として活用されています。ホールでは展覧会やライブ、ワークショップなどのイベントも開かれ、一般の市民にもその利用を募り受け付けています。一階には飲食店があり、ジャズが流れ、音楽好きには楽しめます。

 2、横浜情報文化センター(旧横浜商工奨励館)
 昭和4年に建設された美しい近代ルネッサンス様式の建造物で、長く横浜商工奨励館として存在していました。現在は旧館部分を残し高層化され情報文化センターとして運営されています。新聞博物館と放送ライブラリーを擁し、情報文化に係る様々な施設を有しています。また店舗もあり、私達はここにあるドイツ料理の“アルテリーベ”でランチを取る予定でした。ところがこの日は貸切で結婚式が行われており、敢え無くお預けとなりました。残念! 実はここはかつて結婚前の妻が私に食事を奢ってくれた店なのです。アルテリーベ(昔の恋)、それは忘れられない懐かしい思い出の店です。
 丁度、店の前の大通りでは新郎新婦の写真撮影が行われていました。ウェディングドレスの美しい花嫁にうっとりと見惚れた私は恐らく間の抜けた顔をしていたのでしょう、妻のたしなめに我に返りました。でも観た者勝ちですよね、美しいものの観聴きほど、心を豊かにするものはありません。
  @ 輪転機
輪転機
 一階ホールの中心にドンと構える輪転機です。大量の新聞を高速で刷り上げる機械で、その大きさに度肝を抜かれました。下部には白く巨大な巻き紙が見えています。 
  A 貴賓室の天井画
貴賓室の天井画
 旧横浜商工奨励館の社屋には往時の貴賓室が大切にリニューアルされ残されています。誰でも観覧する事ができます。石と木の織りなす美しい質感に私は惚れ惚れとし、往時の栄華が偲ばれ、しばし飽く事はありませんでした。そしてこの天井画、鮮やかな色彩を放って麗しく、目に染みました。

 *横浜開港資料館(旧英国総領事館)
 更に私達は漫ろ歩きを進め、旧英国総領事館の現横浜開港資料館を訪れました。西門から入り、しばし旧館の旧英国総領事館の落ち着いた佇まいを楽しみました。それから中庭を伝い新館の開港資料館展示室に向かいました。その中庭には地面から細い幹の密生した楠があり、これを玉楠の木と称し大切に養生していると聞きました。何故ならこの木は1854年の日米和親条約締結を見届けた生き証人だからだそうです(締結の場の脇に生えていた)。一旦は関東大震災で焼け落ちましたが、強い生命力を発揮して根から多くの幹が叢生し今日に至ったのです。その因縁も強く、不滅の楠として益々大切に養生されているのです。
 さて展示されている資料は数多あり、短時間ではとても堪能はできませんでした。しかし当時の横浜の地形図やペリーに随行した画家ハイネの詳細な条約締結の場の描写になるほどと合点し、興味を引かれました。何とその絵にはこの中庭にある玉楠の木が見事に描かれていたのでした。そしてそれは想像を絶した巨木でした。
 また明治となり様々な外国人が横浜に滞在し、日本の発展に大きな力となりました。中でもアメリカの宣教医ヘボン博士の存在が私の目に留まりました。キリスト教の布教、それに伴う聖書の日本語訳、更に医療や教育など、ヘボンの果たした役割は多大なものでした。文明開化の偉大な礎となったのでした。

 3、大桟橋からのみなとみらい
みなとみらい
 そして更に私達は歩を進め、私が一度行きたいと思っていた大桟橋に着きました。大桟橋は1889年から1894年に掛けて造られた外国航路専用の波止場です。“メリケン波止場”と呼ばれ歌にも歌われ特異な異国情緒を醸し出し、庶民にも大いに知られる存在となりました。
 快晴のこの日は絶好の展望日和で、みなとみらいのビルの間からは富士山が見えました。生憎写真は拙く、ここには載せられないのですが素晴らしい風景なので皆様にはお勧めです。いらしてみてください。横浜の新しい顔、みなとみらいと赤レンガ倉庫、そしてベイブリッジを望む絶好のポイント大桟橋は、新しい横浜の名所ですね。

 4、近代ルネッサンス様式の建築物
 「たかだか百年前の建造物なのにどうしてこうも立派で美しいのでしょうか?。私には現代のビルが百年後の未来の人々に今の私のように感動を持って眺めて貰えるのか甚だ疑問です。」
 こう私が言い放って仕舞えるほどに、これらの建築物は素晴らしく見応えのある建物でした。美意識と経済性のバランスなのでしょうか?。建築家の皆様教えてください?。

  @ 神奈川県庁(横浜三塔の内の“キング”)
横浜三塔“キング”
 入館していないので全ては分かりませんが、外観は渋く極めて重厚です。神奈川の行政の核心としての威厳に満ちて立派です。

  A 横浜開港記念会館(ジャック)
ジャック
 館内に入りました。ステンドグラスとシャンデリア。石と木の織りなす重厚でエレガントな佇まい、ホール(多目的)のレトロな思いが溢れ出す格調高い雰囲気等、どれもこれもが超一級品です。

  B 横浜税関(クィーン)
クィーン
 赤レンガ倉庫からよく見えます。スッキリとした爽やかさが感じられ、クィーンの名に相応しいと思いました。

 お散歩日誌
 2月1日 横浜漫歩9734歩
 2月2日 歩数  5842歩
posted by 三上和伸 at 23:21| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月03日

東京漫歩2 両国、隅田川、深川界隈 2009.01.02

 正月二日、私と妻に上の娘も参加して昨秋以来の東京漫歩に出かけました。今回は東京都慰霊堂を始めとした両国界隈、芭蕉に縁の隅田川と深川界隈、そして富岡八幡宮の参拝と多彩な趣向で楽しみました。錦糸町駅から門前仲町駅まで、道程約七qの怒りと悲しみと楽しみに満ちた漫ろ歩きの旅でした。(今回の旅も旅行読売江戸東京散歩を参考にしました。)

 1、野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ) 墨田区亀沢
野見宿禰神社
 錦糸町から両国へ向かう北斎通りの中程に、小さいが渋く質実な神社がありました。野見宿禰とは相撲の始祖とされ、この江戸の相撲の地にも祀られていたのでした。年三度の東京場所では番付編成会議の後ここで例大祭が行われ、その時新横綱が誕生してればこの社殿の軒先で土俵入りが行われるそうです。その渋い趣はやはり目を引くようで、この日も外国人が訪れていました。(フリー百科事典『ウィキペディア』より)

 両国界隈
 私達は両国に至り、まずは国技館へ向かい相撲博物館を目指しました。しかし国技館は正月の間は閉館であり、残念ながら博物館も覗く事はできませんでした。ならば少し時間は早いが昼ご飯にしようと、土地の名物で有名なちゃんこ料理店を探しました。ところが店は幾らもあるのですが皆、正月休業で閉めている店が殆どでした。中でも人気店の巴潟や老舗の川崎も閉めており、残念でした。特に川崎は主人が顔を見せ、「うちは冷凍ものは扱わないので、市場が開いてない今はできません。」と謝りました。それから私達はチェーン展開している江戸沢と言う店に入りました。妻は「冷凍ものでしょ」と首を傾げましたが、私は美味しく感じ満足でした。塩ちゃんこが旨かったのです。そして私達は本日のメイン、東京都慰霊堂を訪ねました。

 1、東京都慰霊堂 墨田区横網
東京都慰霊堂
 関東大震災、そして東京大空襲、その膨大な身元不明者の遺骨を納めたのがここの納骨堂です。その広い講堂の内部は多くの上げ下ろし式の椅子が設えてあり、沢山の人々が法要に訪れる事が想像されました。壁には大空襲の惨状を写した石川光陽氏の写真が掲げられ、当時の生々しい有様を瞬時に知り得えて怒りと悲しみで体が震えました。正面には祭壇が備えられ私は線香を一本捧げました。その線香の香りに私は僅かな慰安を覚え、怒り悲しみから少し逃れられました。そして私は想いました。家族や同胞の命を守るのが私達大人の役目なのにそれが出来ずに殺させてしまったのは返す返すも無念であり無様であると…。今改めて私は怒りをもって戦争反対を誓います。(フリー百科事典『ウィキペディア』より)

 2、吉良邸跡(本所松坂町公園) 墨田区両国
吉良邸跡
 両国駅を南下すると回向院(えこういん)があります。この寺は明暦の大火の後、その犠牲者の無縁仏を供養し納めるために建立されたものです。俗にこの大火は振袖火事と呼ばれており、振袖に纏わる幾らかの怪談じみた伝説が生まれたようです。
 さらに南下をすると今度は吉良上野介の館跡を見付ける事ができます。忠臣蔵の敵役となった殿様ですが、その周囲の民には評判は良かったようです。今でもその元の広大な敷地からはかけ離れた小さな公園として存在している吉良邸跡ですが、それが残されただけでもこの主の民への徳が偲ばれると言われています。この小さな敷地を残すだけでも民の大きな尽力があったようです。園内には松坂稲荷大明神、吉良上野介義央公の追慕碑、吉良家家臣二十士の碑、上野介の首洗い井戸があります。(旅行読売江戸東京散歩より)
 
 隅田川からの湾岸ビル群
隅田川
 新大橋から清州橋にかけての隅田川右岸は隅田川テラスと呼ばれる庭園遊歩道が設置されています。川風は暖かくとても気持ちの良いところでジョギングをしている人や自転車の人、散歩する人などをちらほらと見受けました。私達もゆらゆらと歩き隅田川漫歩を満喫しました。水とビルの風景、正に現代の有様ですね。

 芭蕉の句碑
芭蕉の句碑
 この深川界隈の隅田川沿いは芭蕉が住んだ所(芭蕉庵)であり、そこから全国へ旅に出ていたそうです。今でもここは芭蕉庵史跡展望公園として整備されています。近くには芭蕉記念館や芭蕉稲荷があります。この句碑は隅田川テラスの道端に設けられたもので所処にあり、芭蕉好き俳句好きには答えられないものでしょう。(江東区のホームページより)

 富岡八幡宮
富岡八幡宮
 この旅の終わりに私達は深川不動尊と富岡八幡宮を訪ねました。正月二日であり、その初詣の混雑振りは凄まじく、私は仕舞ったと思い内心パスしようと思いましたが、妻と娘は参拝し御朱印を頂くのだと頑なであり、私はひたすら我慢の子となり、辛抱しました。二人は満足気で、私も二人の様子に満足し「良かったね」と声を掛け喜びあいました。皆笑顔で地下鉄門前仲町駅より家路へ向かいました。
posted by 三上和伸 at 22:52| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月16日

湘南漫歩1 秋谷の立石

 私はこの日仕事の合間を作り、湘南秋谷立石を巡りました。僅か二時間足らずの旅でしたが、その美しさを十分堪能しました。

 1、秋谷立石海岸より相模湾を望む
立石からの相模湾
 逗子葉山から横須賀三浦に掛けての三浦半島西岸は、砂浜と岩礁が交互に現われて小作りながら、美しい海岸風景を見せています。その中でも秋谷立石は古くから知られており、安藤広重の浮世絵にも描かれているそうです。とにかくここからの相模湾は美しく、運が良ければ真白き富士の嶺も見えます。真白き富士の嶺、緑の江ノ島…は我が母校の歌として有名で、私は富士と江ノ島を見ると何時もこの歌を思い出してしまいます。今日は江ノ島はよく見えましたが、富士は今一つで鮮やかさに欠けていて撮影には不向きでした。
 
 2、岩礁での覗き眼鏡漁
覗き眼鏡漁
 秋谷立石は岩礁地帯で多種の魚介の宝庫であり、周辺の料理店やレストランで味わえます。この日も数隻の小舟が漁をして見えました。舟の縁から体を乗り出して、覗き眼鏡で獲物を探し捕えています。労働は苛酷でありましょうが見ているこちらは長閑そうに見え、漁師には悪いのですが、その美しい風景に溶け込んで私は和んでしまいました。

 3、秋谷の立石
秋谷の立石
 この岩頭こそが立石の名の元となりました。太古の昔海底が隆起しその後を風雨波浪が洗い出し、今のこの形となりました。その岩石は火山性の堆積岩で凝灰岩と言われています。夕日に照らされると赤く輝く事で有名で、知る人ぞ知る写真撮影の好ポイントです。

 4、子産石(こうみいし)
巨大な子産み石頂いた子産み石
 秋谷立石周辺の海や地層からは、子産石と呼ばれる球形の岩石が多く産出されます。その形からこの名が起こり、後に安産のお守りとして珍重されるようになったと言う事です。地層の堆積物中の炭酸カルシウムなどが集まって形成された硬い塊で、ノジュールと呼ばれているそうです。(子産石解説案内板より)
 私はこの子産石を見てみたいと思い、その安置されている場所を通りすがりの土地の人に尋ねてみました。するとそのおじさんは親切に教えてくださり、私は難なく巨大な子産石の親分に会う事ができました。(写真左)写真をよく見るとその巨大な石の下回りに小さな石が置かれています。これも子産石だそうで子産石は大小様々な大きさがあるようです。写真を撮り、帰りかけた私をさっきのおじさんが声を掛け呼び止めました。おじさんの手には程良い大きさの子産石が握られており、「これやるから持っていって! そして時々撫でてやって!」と。私はびっくりし「有難う…、どうもお世話になりました!」と礼を言い、照れ臭くなり、その場をソソクサと立ち去りました。歩きながら首を傾げ呟きました。「こんな石貰ったって俺には何の役にも立たないぞ」と。でも何だかとても嬉しくなりました。おじさんホントにありがとう…。(写真右、頂いた子産石、我が家で撮りました。)
 所在地:立石公園と長者ヶ崎の中間点、国道134号線西側民家の庭先

 5、泉鏡花、草迷宮(くさめいきゅう)手毬歌の碑
草迷宮手毬歌の碑
 今は亡き母が、昔歌ってくれた手毬歌。その手毬歌をもう一度聴きたくて、青年は放浪の旅に出ます。やがてとうとう青年はこの歌に辿り着きます。その追い求めた彼の地はこの三浦郡秋谷でした。この地秋谷は幻想に満ちた泉鏡花の小説「草迷宮」の舞台となったのでした。
 所在地:立石公園内
posted by 三上和伸 at 23:47| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月30日

東京漫歩1 明治神宮と外苑の銀杏

 私は横須賀生まれの田舎者であり、東京の様な大都会は余り馴染みがありません。せいぜい仕事で訪ねるだけの地域だったのです。しかし歳を重ねた今、地方の自然ばかりを追うのでなく、東京を始めとする都会の風情も楽しんでみようと思い立ちました。特に江戸や明治・大正の雰囲気を今に残す、神社仏閣や町並みを歩いてみたいと望みました。今回は外苑の銀杏を第一の目的にし、明治神宮の周辺を巡ってみました。また今回の旅は読売新聞社の旅行読売江戸・東京さんぽを参考にしました。

 1、旧乃木邸
旧乃木邸
 明治の軍人・乃木希典が夫人と住んだ邸宅です。木造で黒壁の家、実に渋く簡素な住まいです。現在は家の中には入れずに家の周囲を回廊で巡らし、中を垣間見えるようになっています。明治天皇崩御の際、夫人静子と共に自刃した部屋も覗けます。それはさほど広くなく質素であり、夫婦共々自刃した凄惨な部屋には露とも思えぬ静けさに満ちていました。
 この館の隣りには乃木神社があります。明治の大将乃木はその功績と忠誠で神に祭り上げられました。この日は秋晴れの中、婚礼と七五三の祝いで宮は賑わっておりました。そしてそれは時の重さと長さを感じさせ、現代の豊かさが象徴されて見えました。(旅行読売江戸東京さんぽより)

 2、乃木邸の紅葉
乃木邸の紅葉
 東京も秋が深まり、この館の楓も赤く色付いていました。大きな木であり、きっとあの時代も生えていて、乃木も夫人と共に愛でていたでありましょう…。今日の私達の様に…。

 3、梅窓院の小さなお地蔵様
可愛いお地蔵様
 乃木坂から漫ろ歩いて青山墓地に至ると、辺りはそこはかとなく線香の匂いがしてきました。私達は顔を見合わせ、「いい匂いだね」と言い交わし、何となく穏やかな気分にさせられました。墓地を抜けしばらく歩くと、ビルの畔に小さな寺を見出しました。参道の脇を孟宗竹が埋め、都会の中に僅かな侘びを現出していました。その竹林の中には小さなお地蔵様が飾られていて、その表情が余りに愛らしいのでアップで撮らせて貰いました。
 本堂は法要で見られませんでしたが、阿弥陀堂を参拝しました。金色の阿弥陀様が居られました。私は静かに手を合わせ、世の安寧を願いました。妻は何時ものように御朱印を頂き、穏やかな微笑みを浮かべていました。

 4、外苑の銀杏並木
外苑銀杏並木
 毎年のようにマスコミに取り上げられ、何時ぞやは皇太子ご一家もTVに登場されお楽しみのご様子、私も何時かはここを訪ね銀杏に見えたいと願ってきました。
 それは予断を違える見事な銀杏で、天を突き刺す毅然を表し、王者の風格を漂わせていました。正に巨木ならではのオーラを発し、圧巻でした。私は圧倒され熱く心満たされ、幸福でした。

 5、渋谷駅コンコースの壁画 岡本太郎作「明日への神話」
明日への神話
 一昨日の仕事の帰り道、東急渋谷駅への道すがら、この壁画を見つけました。その時の衝撃が忘れられなくて、この東京漫歩の終わりにもう一度訪ねてみようと決めていました。そしてその再会の喜びは更に深く、私はそこを立ち去りがたく、何時までもそれと見えていたかったのでした。しかし妻に促されて仕方なく、流石の私も現を取り戻し写真を一枚撮り終えて帰路に下りました。

 後記;今回ここに紹介した以外にも、明治神宮の森の木々に大きな癒しを貰った事や、表参道ヒルズのお洒落な佇まいにも興味を惹かれました。東京の魅力も意外と深く、今回その一端を味わい獲得できたと自負しております。またお昼ご飯で楽しませて貰った外苑前のラ・メゾンドゥ・タカギの名も記しておきたいと思いました。前菜にサラダ、スープにキッシュ、焼きベーコンにドリア、デザートにミルクティ、大変美味しく頂きました。本来は洋菓子のお店らしく、ショーケースには美しい品が並べてありました。その美味しそうな事、そしてその値段の高額な事、まだ旅の途中だったので持ち帰りができなかった事が悔やまれました。流石は東京ですね!、素晴らしい店があるものですね!
posted by 三上和伸 at 23:29| 《漫ろ歩きの旅》漫歩シリーズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする