2009年08月07日

海外の景色28 さらばブダペスト、さらばヨーロッパ 2009.6.23

プダペスト税関のマーク?
ブダペスト税関のマーク?
 初めは尻込みをしていた海外旅行ですが、案ずるより産むが易しですね、やってみれば何と大きな喜びをくれた事でしょう。城や寺院の歴史的建造物、美しい町並み、音楽を始めとした文化芸術、そして美味しい食事、その豊かさに、正直、腹一杯の大満足の旅でした。
 ヨーロッパは比較的人工の都市文化の国々で、古き良きものが残され見事ですが、その分自然の息吹きに乏しいと思われました。特に植生の豊かさでは日本に遠く及ばないでしょう…。しかしそれだからこそ、先祖が残した文化を守り育てる事に努力を傾けてきたのでした。その姿勢は日本より遥かに高く日本は学ぶべきものが多々あります。否、学ばなければなりません。古きを捨て新しさを追い求める日本、高層ビルばかり建ててないで温もりのある町造りをするようにと…痛感しました。
 とにかく楽しかった、ヨーロッパは素晴らしかった。感動をありがとう、また来ます!。
posted by 三上和伸 at 20:55| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月06日

海外の景色27 ブダペストの夜景 2009.6.22

ブダペストの夜景
ブダペストの夜景
鎖橋、丘の上には王宮が見えます。
 本日の取って置きのメインイベントがこのライトアップされたドナウのナイトクルーズでした。ところが生憎の雨で船内からデッキには降りられず、皆戸惑いを隠せませんでした。ワインやドリンクを飲み、慰め合いながらのガラス越しの見物となりました。それでもそんな私達の切なる願いが天の神かドナウの神か分かりませんが、神様に通じ終了間際の十分間は雨が止みました。皆は一気にデッキに躍り出て、デッキはお祭り騒ぎの撮影会となりました。私達も鎖橋や王宮を背にポーズをとり、写してもらいました。それは素晴らしい夢見る風景でした。
posted by 三上和伸 at 23:52| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海外の景色26 ブダペストの路面電車 2009.6.22

*路面電車(トラム)
ブダペストの路面電車
 トラムとは路面電車の事、そしてハンガリーではヴィッラモシュと呼ばれ親しまれています。私達も出来れば乗ってみたかったのですが、外国での不自由な身の上、時間もなく断念しました。
 ドナウの船上レストランへ向かう途中、ドナウ川の川岸を走るトラムに出会いました。間口の狭いスマートな車体を駆使し誇らしげに走ります。私達は「いいね!」「可愛いね!」と褒めそやしました。日本の江ノ電を見ているようでした。
 
posted by 三上和伸 at 23:49| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海外の景色25 プダペストのカフェ 2009.6.22

 *カフェ、ジェルボー
カフェ、ジェルボー
 ブダペストでも老舗のカフェ・ジェルボー、あのエリザベートも愛したと言われる有名なお店です。でもそんな御大層なものではなく、ゆっくりと長時間お茶しお喋りをしても平気で許される自由なカフェです。事実私達は一時間余りお喋りの花を咲かせました。…勿論、私はシシィの残したうつり香を全身で感じ取り、それを愛しみながら?…。
 店内は重厚で落ち着いた大人の雰囲気を持ちインテリアも素敵でした。私達は先程のオペラハウス見学からの流れでこのカフェに立ち寄りました。最初にカウンターでそれぞれのケーキを選び、席に着きました。厚化粧ですがどこかはにかんだ小母さんに近い女性が対応をしてくれ、ケーキとコーヒーを席に運んでくれました。優しい対応が私の気持ちにそっと触れたので、アンジェリカに聞くと、アンジェリカいわく「ハンガリーの女性はシャイな人が多いのですよ」と。「それは素敵な事だね、何時までも失わないで欲しいね…」と私は付け加えました。この後ここで私とアンジェリカは大いに語り合う事となりました…妻の嫉妬?も顧みずに…。それはまた後日の項で…。
 
 ケーキもコーヒーも店の雰囲気に優るとも劣らぬ素晴らしさがありました。本当に美味しかったのですよ!。
posted by 三上和伸 at 23:43| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月04日

海外の景色24 国立オペラ座 ブダペスト 2009.6.22

 西洋の芸術文化を代表するのがオペラとオペラ座、それは優雅にして豪勢な別世界であり、誰もが憧れる娯楽の殿堂でもあります。
 紳士淑女が着飾って詣でるのがオペラ観劇の常、それはこのオペラ座の贅を尽くした威容に適うためには仕方のない事かもね?、特権階級の社交の玩具と言われて久しいですが、せめて一寸した装いで安価に出入りできたら良いのにね!。私は庶民の出なので、このような上流志向は性に合わず嫌いです。しかしオペラは好きで、未だにマリア・カラス(故人)の大ファンです。カラスの映画は感激しましたし、CDでよく聴きます。正に空前絶後のソプラノの権化のような人です。

 @オペラ座正面
国立オペラ座
 ウィーンオペラ座の三分の二のモデルと言われており、正にウィーンオペラ座の弟(妹)分です。オーストリア・ハンガリー二重帝国時代の産物で盟主の国より大きなオペラ座は造れなかった…、弱国の悲哀を感じさせる話です。でもガイドのアンジェリカは言っていました。「使われた材料や資材はハンガリーの方が上です」と…。

 A階上の客席、シシィの席 
階上の客席
 写真右端、二階の大きな枠の席はエリザベート(シシィ)の席だったそうです。私もそこに座りましたが極めて舞台は観難く、可笑しなものだなと疑問を持ちました。因みにフランツ・ヨーゼフの席は舞台正面後方で極めて見易く良い音が聴こえたでしょう。またまたアンジェリカは言いました。「シシィの席はオペラ座の全席から一番よく見える席なのです。もうお分かりですよね、シシィは自分を客によく見せるためにこの位置に座ったのです。」。オペラのヒロインよりシシィが主役だったのですね。驚きです。

 B天井画
天井画
 ギリシャ神話が描かれた天井画、オペラハウスの豪壮さをいやが上にも盛り上げます。客席は皆、その威容の有り難さに平伏し、オペラ(座)の僕となるのです。
posted by 三上和伸 at 23:00| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海外の景色23 聖イシュトヴァーン大聖堂 2009.6.22

聖イシュトヴァーン大聖堂
 ヨーロッパの旅はそのツアーの質にも依るのでしょうが城と寺院ばかりで流石にここまで重なると辟易します。緊張感の欠いたお座なりの見学となりつつありましたが、そんな私の萎えた脳と心に衝撃と感動を与えてくれたのが、このイシュトヴァーン大聖堂でした。
 その時、聖堂は礼拝の最中でした。神父の経典を唱える声が聞こえ、それが過ぎるとすかさずパイプオルガンが鳴り響き、堂内は厳かな雰囲気に包まれました。そしてそのオルガンに乗り聖歌がソプラノで歌い出されました。それは優しくたおやかな歌声で、いとも容易く心に迫り来て、まるで聖母マリアが歌ってくれているようでした。その絶唱はそこにいる全ての人に遍く降り注ぎ、異次元の感動を与えました。私は心震え体も奮え、あのレクイエムの極め付けのソプラノを想い浮かべました。ツアーの皆は口々に「素晴らし歌声、癒されました」と私に述べ、歌の真の素晴らしさを知り得た事を喜んでいました。
 この感動は今もって私の心の灯火として温かさを保っています。そしてあのソプラノの歌声は私の内耳の奥深くに密封され、美しく木霊しています。
posted by 三上和伸 at 22:53| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月31日

海外の景色22 漁夫の砦、マーチャーシュ教会 2009.6.22

 @マーチャーシュ教会
マーチャーシュ協会
 王宮と同じく十三世紀のベーラ四世の時代にロマネスク様式で建てられました。その後十五世紀のマーチャーシュ一世がゴシック様式に造り替えました。現在の姿はその時のゴシック様式が基礎となっているそうです。モザイクの屋根瓦と白い壁が最高のコントラストで溶け合い、それは美しい教会でした。

 Aマーチャーシュ教会、聖イシュトヴァーン騎馬像、漁夫の砦
マーチャーシュ協会、聖イシュトヴァーン騎馬像、漁夫の砦
 白亜の教会と漁夫の砦の白い塔、白の台座に乗ったイシュトバヴァーンの青緑の騎馬像、美しいの言葉以外に譬えようもない、極め付けの光景でした。
 
 Bマーチャーシュ一世の戴冠の彫刻
マーチャーシュ一世の彫刻
 壁面に彫られたマ−チャーシュの戴冠の像、迫力に満ちていました。
 
 Cブダペストの町並
ブダの町並
 チェコのプラハによく似たブダの町並み、淡い色彩に彩られた壁はしっとりとしていながらも明るさを失わず統一感に溢れていました。真に好ましい佇まいでした。
 街灯のポールには赤い花が飾られており、そのお洒落心に脱帽しました。
posted by 三上和伸 at 21:09| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海外の景色21 漁夫の砦から望むブダペスト 2009.6.22

 ハンガリー建国千年(1896年)を記念して建てられた建造物。1902年に完成をみました。ハンガリーの遊牧の民のテントに似せたとんがり屋根が特徴です。漁夫の砦の名の謂れはここに魚市場があったとか、漁師がこの地を守護していたとかの諸説があるそうです。
 ブダペストの町を望む最高の展望台と言えます。一階にはカフェがあり、お茶しながら絶景が楽しめます。私達は観光のメニューが盛り沢山で休む事はできませんでした。残念!
 参考:昭文社トラベルストーリー

 @鎖橋
鎖橋
 鎖橋の名の由来に驚きました。もっと歴史的な謂れがあると思いましたが、夜間のライトアップの電球が鎖のように繋がって見えるからなのだそうです。比較的近年に名付けられたのですね。対岸の近代的建物はホテル群で、それはこの町の景観をやや損なっていると思われました。残念です。
 
 Aドナウそしてブダとペスト
ドナウそしてブダとペスト
 大河ドナウを挟んでブダとペストの町は発展し、やがて合併しブダペストとなりました。手前がブダ地区で対岸がペスト地区です。やや欠けましたが、写真右、ペスト地区に国会議事堂も見えています。

 *国会議事堂
 建設に十七年の歳月を費やした国会議事堂はまるで巨大な城か大寺院の様に見えました。日本のシンプルな国会議事堂を知る私には驚愕で、ネオゴシックやルネサンス様式で造られた外観は正に圧巻でした。見学はしなかったので中の様子は分かりませんが、贅を尽くした造りだそうで、当時の国民の期待の大きさが知れるものです。
posted by 三上和伸 at 18:52| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月30日

海外の景色20 ハンガリーの食事 2009.6.21〜22

 1、エステルゴムの食事 ホテル・エステルゴム・レストランにて

 *パラチンタ ハンガリー風クレ−プのデザート ホテル・エステルゴムにて 6.21昼
パラチンタ
 エステルゴム市内に着いて直ぐ昼食となりました。メニューのビーフシチューに添えられていたのが、前項のエステルゴムの花で前述したすいとんのようなパスタ?でした。中部ヨーロッパの料理は総じて質実で飾り気はないですが味に優れ、食べ応えは十分でした。このデザートもその類で小麦粉を焼いたクレ−プにチョコレートソースを付けて食べるカロリーの高そうな品ですが、素朴な風味で田舎者の私には美味しく頂けました、お腹一杯でしたが食べ切りました。
 
 2、ブダペストの食事
 ハンガリーの民族音楽と舞踏を楽しみながらの夕食となりました。今の時代はハンガリー民族芸能と呼ばれますが、昔はジプシーの芸能と言われていました。ジプシ−は音楽・舞踏に秀で定植しない漂泊の民でした。特にヴァイオリンに優れた奏者を輩出し、ヨーロッパ各地で演奏家並びに辻音楽師として活躍しました。その典型はE・レメーニで彼は世界を股に掛けたヴィオリニストで明治の日本にも渡来しました。その演奏の記録が残っているそうです。現代でもこのジプシーはハンガリーを中心にこの楽団・舞踏団のように音楽・舞踏に携わって暮らしてるそうです。但し、この楽団の皆がジプシーの血筋とは限りません。
 
 @民族音楽を聴きながら 6.21夜
民族音楽の楽師
 写真全面にある台形状の楽器がツィンバロンで、ピアノのように水平に弦が張ってあり、それを木製(先に綿並びにフェルトが貼り付けてあるものもある)のバチを使い人手で叩く仕組みを持ちます。如何にもジプシー風の音色を発し、ハンガリー民族音楽には不可欠の楽器です。この響の上に弦の音が重なりハンガリー情緒たっぷりの演奏となるのです。
 チァルダッシュやツィゴイネルワイゼン、はたまた荒城の月?までが演奏され、ハンガリーワインの酔いも手伝って客席は乗りに乗り、興奮の一夜となりました。我が妻もチップを弾みハンガリアンダンスナンバー5をリクエストしていました。期待に違わぬ見事な演奏でした。
 ツィンバロンに加えヴァイオリン2、クラリネット1、ダブルベース1の編成でした。
 
 A可愛いダンサーの民族舞踏 
美しい踊り子
 可愛い三人のダンサーが現れて民族舞踏を披露してくれました。時々奇声(ホー!)を発し、コケティッシュにまたユーモラスに勢い良く踊りました。客席は特に男どもが興奮し、皆、顔面は恥ずかしげもなく緩みっぱなしでした。私も例外とはなれず、顔を紅潮させニコニコ顔でご機嫌でした。
 踊り子は皆白い肌に円らな瞳でジプシーではないかも知れませんね?。

 *男のダンサーも三人いました。もう忘れました…。

 B壁の絵皿
壁の絵皿
 私達の席の背後には素敵な絵皿が飾られてありました。妻は思わず写真を撮ったようです。後日プリント作りをしていた時に見つけました。とても美しかったのでここに掲載しました。ハンガリーは色彩の国ですね。刺繍といい、絵皿といい、それは素晴らしい色で溢れていました。
 
 Cメインの料理
チキン、ライス添え
 チキンのソテーだったのですが、何と付け合わせ(主食)は炒めたライス(米)でした。機内食以外、この旅で初めてお米を食べました。懐かしい味でした?。ムフフフフフッ…

 3、ブダペストの昼食 
 *グヤーシュ(ハンガリー風スープ) レストラン・コルサ 6.22
グヤーシュ
 キャベツとグリーンピースが入ったスープ、ハンガリーの名物料理の一つだそうです。見るからにパプリカのたっぷり入った赤いスープ、何時までもパプリカの香りが漂い、私の舌にも残りました。
 
 *旅の最後の晩ご飯は船上レストランを利用しました。ガイドのアンジェリカの紹介でした。しかし私達は最早食傷気味となり、十分に味わう事はなりませんでした。アンジェリカ御免ね…。でも船上はゆらゆらと微妙に揺れ、中々乙な晩餐となりました。明日はもう帰国するのみ、深い感謝の念が私を包んで食(胃袋)より心が満足を示していました。

 *民族音楽のレストランの店名が不明でした。価値ある名店だったのに残念です。
posted by 三上和伸 at 07:20| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月26日

海外の景色19 ハンガリー・ドナウベンド地方 2009.6.21

 ドナウベンドとは英語でドナウの曲がりと言う意味だそうです。長くスロバキア国境を流れてきたドナウ川がこの地でハンガリー側に大きく屈曲した形状を表した呼び名です。それが地方名となりました。ハンガリーではドナウの膝と呼んでいるそうです。

 1エステルゴム

 @エステルゴム大聖堂
エステルゴム大聖堂
 ハンガリー最大の大聖堂で、ハンガリーカトリックの総本山です。初代ハンガリー王イシュトヴァーンがこの生誕の地に築きました。後年は破壊と復興の歴史を繰り返し、現在は十九世紀に再建されたものでネオクラシック様式のカテドラルです。

 Aドームの天井
ドーム天井
 美しいカテドラルで、明かり取りが多く堂内は明るさに満ちています。

 Bパイプオルガン
 P6210126.JPG
 立派なパイプオルガンがありました。見るだけでも価値ある芸術品で、さぞや鳴ったら素晴らしいに違いありません。

 C大聖堂の丘より望むエステルゴムの町
大聖堂の丘より
 丘の下にも教会があり、緑の多い美しい景観を見せています。右奥にはドナウ川に架かる橋が見えています。これが対岸のスロバキアに通ずるマーリア・ヴァレーリア橋です。第二次世界大戦の折りドイツ軍が爆破した橋ですが、漸く2001年に再建され開通しました。それまでは渡船で行き来していたそうです。どんな手段を取ろうとも交流は盛んだったようです。
 
 
 2ドナウ川とビシェグラードの町
ドナウとビシェグラードの町
 要塞の丘付近から望むドナウ川とビシェグラードの町。山肌に取り付く町並とドナウの流れが溶け合って素晴らしい景観を見せていました。


 3センテンドレの町並
 先進の現代から取り残された町、しかしここには住民の日常があり、商魂逞しい活気があります。多くの土産物屋が観光客でごった返し、終日大変な賑わいを見せていました。揺ら揺らと石畳の路地を歩けば古の繁華街にタイムスリップしたようで、夢でも見ている気がしました。

 @塔のある家並み
センテンドレの家並 
 “バロックの珠玉”と言われているセンテンドレ。そんな古風な箱庭のような街は正にお伽の郷、思わず抱き締めたくなる愛らしさがあります。美景の宝庫にして郷愁を誘う佇まいがあり、旅の楽しさを実感させてくれる町でした。
 現代の新しいものと言えば車ですがそれすら溶け込んでしまう、ヨーロッパの古都は不思議な空間を持っています。

 A軒下の吊るし物
P1000442.JPG 
 所々、家の軒下にはこうした吊るし物が下がっていました。売り物にするのか家族で消費するのかはよく分かりませんが、中々旅行者にとっては旅愁を呼び起こす素敵な眺めだと思いました。ところでこれはパプリカなのでしょうか?。ニンニクなのでしょうか?。日本では疑問があると何でも土地の方々に聞き回る私ですが、流石に海外では言葉の壁でそれができません。帰国して調べていますが、よく分かりません。御存じの方がいらしたなら教えて頂けませんか?。
 メールアドレス otonotanoshimi_mikami@yahoo.co.jp
 
posted by 三上和伸 at 21:24| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月25日

海外の景色18 カール教会コンサート「レクイエム」 モーツァルト 2009.6.20

@カール教会 リンク(環状道路・旧城壁)より
カール教会
 カールス広場の木立から覗くカール教会は、白い壁に緑のドーム、そして左右に立つ白い円柱が素敵です。真に美しいお洒落な教会なのです。内部は祭壇の背後に多くの彫刻が飾られており、上部は天井画に彩られ芸術性の高い品格のある佇まいでした。
 この教会は大きな禍をもたらした伝染病ペストの終焉を神に感謝する意味で建立されました。1713年に時の王カール6世(マリア・テレジアの父)が命を発し、その二十五年後に完成をみました。多くの命を失ったウィーンの町にも安堵の日が訪れたのです。 
 

 A教会コンサート モーツァルト「レクイエム」KV626
教会コンサート:モーツァルト「レクイエム」
 ブラームスの石像で興奮冷め遣らぬ私も、開場に至る間に少し時間があり正気を取り戻しました。外国人に挟まれ並んで待つ間に冷静になれたのです。やがて開場し慣れない教会の硬い直角の椅子に戸惑いながらも腰掛け開演を待ちました。私の左に妻が腰掛け、右に藤沢夫人が座りました。そしてその右に藤沢氏が着席しました。演奏が始まると最初は教会での鑑賞に慣れず、大きな洞の残響にオーケストラの不鮮明さが気になりました。しかしソプラノの声の素晴らしさに助けられ、徐々に音楽の中に融け込めるようになりました。「涙の日」を過ぎた当たりから演奏も白熱しだし、「聖なるかな」、「祝せられたまえ」、「神の子羊」と曲が進むに連れ私の胸は悲しみに覆われました。そして見る見るうちに目頭が熱くなり嗚咽寸前となりました、終曲の「永遠の光を輝かせたまえ」で遂に涙が溢れ出し、それと同時に右隣りの藤沢夫人は不意に私の横顔を覗き見て私の涙に気付きました。その時私の右目からは一筋の涙の糸が緒を引いていたのです。私はモーツァルトの優しさに心洗われ心安らぎ、モーツァルトの悲しさに涙したのでした。終演後、勿論エレガントな藤沢夫人は何もなかったかのように優しく微笑みました。

posted by 三上和伸 at 18:33| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月24日

海外の景色17 ウィーン楽友協会とブラームス像 2009.6.20

 カフェで憩いの一時を楽しんだ私達は、いよいよ今宵のメインイベント・カール教会コンサートに向かいました。どんな感動が待ち受けているのか、私は楽しみであり怖くもあり、そわそわと落ち付かなかったのでした。環状道路リンク(旧城壁)を渡りカールス広場の芝生を歩くと木立の向こうにカール教会は見えてきました。バロック様式の立派な教会で、白壁に緑のドームが美しく映えていました。その玄関口にはツアー同行の藤沢(仮名)氏夫妻がお待ちでした。藤沢氏もこの教会コンサートに目を付けていらしたそうで、共に鑑賞する為に私達と待ち合せたのでした。
 ところが開演時間の誤りが私達のツアーの側にあり、あと一時間余り、時間の余裕が生まれました。そこで私達は夫妻を誘ってウィーン楽友協会を観に行く事にしました。再びリンクに辿り着くと目前に楽友協会は見えてきました。それはかなり近代的な造りでしたが、音楽の殿堂に相応しく美と威容に満ちていました。
 

 @ウィーン楽友協会
ウィーン楽友協会
 ヨーロッパ楽壇の…否、世界の交響楽の総本山として君臨するウィーン楽友協会。ここはあのウィーンフィルハーモニーの根拠地でもあります。毎年催されるニューイヤーコンサートは世界中の音楽ファンの憧れの的ですが、それはこの大ホールで開かれるのです。正に音楽の都の音楽の殿堂として、大きな存在価値を持っています。
 1812年の開設で、その後多くの音楽家の賛同を得て、1870年現在の建物になりました。二つのホールが完成し、その内様々な音響の工夫が凝らされた大ホールは最高の響きを醸し出し、内装の黄金色と相俟って黄金のホールと讃えられています。
 また小ホールはソロやアンサンブルのホールですが、ブラームスザール(ザールはドイツ語でホールの意)の名が授けられています。それはこの楽友協会の芸術監督を三年間勤めたブラームスへの賛辞の表れと言われます。正にブラームスはベートーヴェン、シューベルト亡き後の大作曲家なしの空白のウィーンを再び音楽の都に蘇らせた立役者だったのです。
 ブラームスは自分の自筆稿並びに書籍その他の遺品をこの楽友協会に寄贈する遺言を残しました。この楽友協会の資料室にはベトーヴェンやシューベルトの自筆稿と共にブラームスの全ての自筆楽譜が収められているそうです。因みにブラームスは生前、この楽友協会とウィーンフィルに多額の寄付金を寄せています。しかも全て匿名だったようで、それは文書の筆跡でブラームスのものと断定されているそうです。自分は質素な暮らしをしても音楽の伝統を守る事に心を砕いた。ブラームスとはそんな男だったようです。

 *因みに質素なブラームスの贅沢を三つ述べてみましょう。その一つはヘビースモーカー故のシガー(葉巻、最高級の極太のもの)、二つ目は新曲創作に使う夏(五月〜十月)の避暑地の家(賃貸)、そして三つ目がイタリア観光旅行(北方のドイツ人は南方のレモンの花咲くイタリアに憧れていた。この当時まで演奏旅行や夏の避暑以外に観光旅行をした音楽家は稀だったそうです)。二年に一度は行っています。主に四月(春のイタリア)。

 *ゆっくり楽友協会の建物を観望(内部見学はしませんでした)したのち、私達は再びカール教会に向かいました。ところがその途中、木立の中に大きな石像を見つけ静かに近付きました。台座に彫られた字面を見ると、何とヨハネス・ブラームスと読めました。私は余りの驚きに言葉を失いました。そして顔を紅潮させ出す言葉はどもりました。「この像はここにあったのか?、知らなかった……」。これは如何に私が不勉強でこの旅に望んだかが判る醜態で、恥ずかしさに益々顔が火照りました。しかしそれよりも何よりも嬉しさが勝り有頂天となり夢心地でした。写真を撮るのも忘れ、ただ口をパクパクさせ何かを喋り続けていました。藤沢氏が私に質問をしてきました。「何故ブラームスはこんな深刻な顔をしているの?」。私は「彼の音楽の中に深刻なテーマを扱ったものが多くあるので、そのイメージが定着したのです。本当はもっと明るい人です」。また「足元の女性は何故嘆き悲しんでいるの?」「高齢の母を持った男は極度のマザコンになる事が多いですが、彼はその典型で真面目な若く美しい令嬢を妻にできなかったのです。恋はしますが手は出さなかった、否出せなかった。そんな彼の恋人達の嘆きを象徴的に彫り込んだのでしょう…」と有頂天でまくしたてたのでした。藤沢氏は「へー、凄いなー」と感心していました。
 この馬鹿さ加減は後で妻にたしなめられました。「いい加減な事ばっかり言って!」。私は小声で「本当なんだよ、女には解らないよ…」と。
 でも妻はちゃんとこの写真を撮って置いてくれました。良妻賢母は流石です!

 Aブラームス像 カールス広場
ブラームス像
我が妻撮影のブラ−ムス像
 カール教会の前に広がるカールス広場、その清々しい木立の中にブラームス像はありました。リンクを挟んだ向かいにはウィーン楽友協会が見え隠れしています。ブラームスはそれと対峙しまるでその楽友協会を睨んでいるようでした。ブラームスの生前の心配事、それは社会の平和と音楽の伝統の保持、「しっかり守れよ!」と睨んでいるように見えました。ブラームスは『誇り高き照れ屋のリベラリスト』(ソングライター・さだまさし造言)、それは身の丈を彼の何十分の一にした私の事でもあります…。

 *ブラームスは晩年、この辺りに住まいを借りて死ぬまで住んでいました。現在は家はありませんが、地名は残っています。それはカールスガッセ四番地で、ブラームスはよくこの界隈を散歩していたそうです。楽友協会やオペラ座にも近く大変気に入っていたそうです。ハンブルク生まれのブラームスですが、ウィーンのこの辺りに長く住んだ訳で、そこかしこにブラームスの息吹が感じられました。私はもう一回ここに来ようと強く誓いました。
 
posted by 三上和伸 at 22:41| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月21日

海外の景色16 ウィーンのカフェ・ザッハー ザッハートルテとウィンナーコーヒー 2009.6.20

 *ザッハー・トルテとウィンナー・コーヒー
ザッハートルテとウィンナーコーヒー
 モーツァルトハウスでドイツ語にたじろいだ私はこの老舗の素敵なカフェでも落ち付かず、そわそわしていました。しかもこの後、夜のコンサートで連れと待ち合わせをしているので、その時間も気になっていたのでした。中々席に案内されず、席に着いても直ぐ注文を取りに来ず、私はしびれを切らし「出よう!」と言い放ちました。ところが妻は落ち着いたもので、「だいじょうぶだよ!、直ぐ来るよ!、もっと落ち着いてよ。」と諭されました。案の定、産むが易し、優しそうなボーイがやってきました。妻はガイドブックの品書きを指差し普通のコーヒーとザッハートルテを二つずつ頼みました。妻はニッと微笑み「ホラ、出来たでしょ!」と得意気でした。ところがトルテは良かったのですが、コーヒーは普通のではなくウィンナーコーヒーが運ばれてしまいました。妻はけげんな顔をしましたが、フッと笑って「いいよね?」と私に問いました。私はニッコリ笑って「しょうがないなぁー」と答えました。
 その美味しかった事!。トルテは見た目は素朴ですが、味わいの深い豊かなお菓子でした。この菓子一つでホテルまで開いてしまったザッハー、でも何だかこれなら解る気がしました。コーヒーも優しい飲み口で気に入りました。
 夕刻前のひと時を豊かな気分で過ごせました。異口同音に「また来たいね」。ザッハーはオペラ座の裏にあります。

 *コーヒーの始まりは16〜17世紀のオスマントルコ軍のウィーン包囲に遡ります。形勢逆転で敗退したトルコ軍は軍の資材を置き捨てて逃げ伸びました。その兵糧の中にはコーヒーがあり、ウィーンの人達も頂いてみました。「美味しい!」…。コーヒーはそれまで中近東で飲まれていたのですが、ウィーン人も飲むのが習慣となりました。その点て方は異なり、トルコは煮出し式、ウィーンは濾過式だそうです。
 

 *パンの一種・クロワッサンもオスマントルコに関わる食品です。オスマントルコの国旗には三日月が描かれています。憎きトルコの三日月を食べてしまおうとウィーンの人々は三日月型のパンを作りました。今回、私がウィーンで食べたクロワッサンは普通のパン生地のものでした。普段日本で食べているのはバターのたっぷり入ったデニッシュ風のものです。本来のクロワッサンはどちらなのでしょうか?…。どちらも美味しいパンではありますが…。
posted by 三上和伸 at 22:11| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海外の景色15 モーツァルト・ハウス・ウィーン 2009.6.20

 *ヨーロッパ、初めての二人歩きは迷い道
 午後早くに歌劇場を出発して私達はシュテファン寺院に向かいました。ところが私達は道に迷い、まずは道路工事のおじさんに「シュテファン・テンプル?」て聞いたのです。そうしたらおじさんは私達が来た方向に指を指し教えて?くれました。「ダンケ!」と礼を言い、仕方なく?私達は歌劇場に戻り、もう一度冷静に地図を見ました。曇り時々雨で太陽の在り処が知れず、東西南北が分からず難渋したのですが、じっくり地図を読み解けば、さっきの道とは90度の方向に行けばよいと分かりました。かなりの時間を浪費してしまい、私の悪い癖“焦り”が出て来ました。
 シュテファン寺院を楽しんだ後、今度はモーツァルトハウスが見つからず再び探し回り更にロスタイムを増やしてしまいました。挙句の果てはハウス受付でドイツ語が分からず四苦八苦しました。丁度若い中国人女性が来館して通訳してくれました。それは国籍と年齢を聞かれたようで入場料のシルバー割引に該当するか否かを確かめたかったようです。どうも私達はラインすれすれと見られたようで余分の苦労ができてしまったのでした。私達は五十歳代なので普通料金の9ユーロでしたが、割引料金は7ユーロでした。因みに同じツアーの六十代のご夫妻は何も聞かれず、すんなり7ユーロで入れたそうです。また国籍は解説用の携帯電話の貸出で、どの言語のものを使うかの確認だったようです。
 やたらと大切な時間を無駄にしてようやくモーツァルトの住まいに入れました。私の焦りは更に募りました。

 @モーツァルトハウス
モーツァルトハウス
 ここが元フィガロハウスで現在のモーツァルトハウス・ウィーンです。この写真の上部の二階一(全)面がモーツァルト一家の住まいでした。ここでフィガロの結婚を始めとした多くの作品が産まれたのです。
 中は中央に吹き抜けの階段ホールがあり、それを中心に各階が一件の家となります。階段ホールを回り込むように多くの部屋があります。今の日本で言えば億ションと言った所です。恐らく借りていたのでしょうから家賃は高かったでしょうね。ところがこの頃のモーツァルトの収入は飛びぬけて高く成功者として向かう所敵なしの状態だったのです。家賃など大した事ではなかったようです。でもそれが後の慢心に繋がり、多くの労苦を背負う事にもなるのです。

 *この写真に写っている外壁のプレートは何を意味する語なのでしょうか?。お分かりの方は教えてください。

 Aモーツァルトハウス、内部 モーツァルトと二人の女性の絵画
モーツァルトの絵画
 これはモーツァルトハウスの内部の写真ですが、本当は写真撮影は禁止でした。気づいてしまえば撮れなくなるのが当たり前で、この後の写真はありません。残念ですが…。でも素敵な室内でしょう?。今は記念館となって三階から下はモーツァルトハウスになっています。二階にモーツァルトグッズの売り場があり、一階はカフェになっていました。もちろん私達はグッズを買いました。鉛筆、消しゴム、ノートなど。

 *室内には各階各部屋に多くの遺品や資料、そして愛らしいモーツァルトのピアノまでありました。触ってみたいと強く思いました。…がそれはなりません。どんな音がするのでしょうか?。何時かビィートたけしがやったモ−ツァルト特番のピアノを思い出しました。あんな音なのだろうか?。想像は限りなく広がりました。
 ここでは多くを知りました。それと言うのも一つには携帯の日本語解説が素晴らしく、とても解り易かった事も挙げられます。そこで今私がここで知り得たモーツァルトのひととなりを私なりに解釈し述べたいと思います。それが当たっているか否かは神のみぞ、いいえモーツァルトのみぞ知るでありましょうが…。
 天才、私は自分に照らし合わせて、この言葉の真の意味は解りません。それは私がただ愚直にピアノ調律の仕事をしてきただけの平凡な人間だからです。天才の頭脳は私の理解の範疇を遥かに超えているのです。あの美しい音の並び、それを易々と書いた男の頭脳など到底解るものではないのです。しかしその心なら少しは判ります。彼は妻子をとても愛していました。でも彼は賭け事にはまり多額の借金を重ねます。友人や知人に金の無心をした手紙が多く残されているそうです。あんなに稼いでいたのにこの始末です。そこには弱い放蕩息子の一面が覗けます。その体たらくは凡人の私達と何ら代わる所はありません。大いに親近感が湧いてくると言うものです。翻って申せば、だから私達はモーツァルトに惹かれるのかも知れません、だからモーツァルトの音楽に感動するのかも知れません。そこには弱い人間の正直な告白があります。愛さずにはいられない、一個人の愛の感情が美音の中に溢れているのです。それが私達を深く同情させ、涙させ、心の救いへと導いてくれるのです。レクイエムの慟哭は正に人間そのものであり、モーツァルトそのものです。そして私達そのものであると、私は確信しています。
 この後この夜、私達はカール教会で催されるモーツァルトのレクイエムの演奏会に向かいました。どんな感動が待ち受けているのか、怖いくらいでした。

 
posted by 三上和伸 at 21:21| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海外の景色14 シュテファン寺院 2009.6.20

 ウィーンのど真ん中に位置するシュテファン寺院、リンクと呼ばれる環状道路の円の中心はこの教会です。ゴシック様式の荘厳な大聖堂であり、ウィーン大司教区の司教座のあるカテドラルです。ウィーン子の信仰の拠り所で、故にウィーンの心と言われています。

 @南塔
南塔
 高さ107m、世界第三位を誇っています。当然これはこの場で紹介したいブログの目玉ですが、未だに修復中でありシィ−トに覆われて下半分は見えませんでした。ブログに掲載するのは止めようと思いました。でもそれでは大聖堂の体を成しません。迷いに迷いましたがやはり載せる事にしました。せめてもの慰めは色を本体に合わせている事でしょうか。

 Aモザイク模様の屋根瓦
モザイクの瓦屋根 鷲の紋章
北塔から望む瓦屋根 左:西側の北屋根 右:東側の北屋根、この裏側の南面には双頭の鷲の紋章があります。
 この教会の好ましさは屋根に色瓦のモザイク模様を描かせた事にあります。それは美しい幾何学模様で、その直線で縁取られた中に紋章が浮かび上がります。ハプスブルク家縁りの鷲で統一されているようで、双頭の鷲のものもありました。とってもいですね!。
 この聖堂には四つの塔があり、聖堂正面に並んでいる双子の二塔は異教塔です。あと二つは前項で紹介した南塔ともう一つが北塔です。この二つは上へ上る事ができ、南塔は階段で…、北塔はエレベータで上がれます。私達は太っちょ(人の事は平気で言えます?)のおじさんのエレベータボーイに4ユーロ(一人)を払い北塔の展望台まで連れて行って貰いました。そしてその展望台から屋根瓦のモザイク模様を楽しみ写真に撮りました。絵瓦素敵でしょ!。遠くまで広大な展望が開けウィーンの町も箱庭のように可愛く見えました。
 この塔にはプムメリンと呼ばれる大鐘があり、一年に一度大晦日の晩に鳴らされるそうです。まるで日本の除夜の鐘の様ですね。人間のやる事は洋の東西を問わず同じなのですね。聞いてみたい気もしました。

 Bパイプオルガン
パイプオルガン
 美しいパイプオルガンが設えてありました。如何にも良い音がしそうな雰囲気でした。しかしこの時間は礼拝は行われておらず、オルガンの音は聴けませんでした。残念!。でも幸運はやって来るもので、願えば叶うものですね、切に願えば…。…この旅の終わりにブダペストで聴けました。この話はまたその節に…。

 *カタコンベ
 シュテファン寺院の地下にはカタコンベと言われる墓穴があります。
 1679年、ヨーロッパにペストが流行り、ウィーンでも十五万人が死んだそうです。その内の二千体の遺骨がこのカタコンベに眠っているそうです。また代々のウィーンの司教とハプスブルク家一族の心臓以外の内臓が保管されているそうです。見学ができます。私達はしませんでしたが…。

 *モーツァルト縁の寺院。
 モーツァルトの結婚と葬儀を司ったのがこのシュテファン寺院、モーツァルトもこの寺院と共に生きたのですね。この聖堂近くにモーツァルトハウスはあります。これから参ります。

 参考:ウィキペディア・フリー百科事典
posted by 三上和伸 at 10:01| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月19日

海外の景色13 ウィーン国立歌劇場(オペラ座) 2009.6.20

ウィーン国立歌劇場
 昼食のあと、私と妻は連れ立ってウィーン漫歩を試みました。今宵のコンサートまでの半日間、心に温めていた名所や施設を訪ね歩いたのです。
 まず最初はこのウィーン歌劇場で、中には入らず外観のみを観望しました。オペラハウスは大きく立派な建物であり、その威容はウィーン市民はもとより世界のオペラファンのメッカと言うに相応しいものでした。感嘆しました。何時の日か二人で観劇しましょうと誓い合いました。
 いざ、この地からウィーン見物に出発です!。

 *ウィーン国立歌劇場は、1869年宮廷歌劇場として開設されました。そのこけら落としの演目はモーツァルトの歌劇「ドン・ジョバンニ」でした。そしてその後1918年に、ウィーン国立オペラ座(歌劇場)と改名しました。第二次世界大戦では炎上し、1955年に再建されました。その時は、カール・ベームの指揮の下、ベートーヴェンの歌劇「フィデリオ」が上演されました。近年の話題としては日本の指揮者小沢征爾が音楽監督に就任した事です。この事を取っても日本との交流はめでたく、このオペラ座の管弦楽団のウィーンフィルは度々日本公演を行っています。これも日本人がモーツァルト、ヨハン・シュトラウス、そしてブラームスを殊の他愛する国民だからでしょう。ウィーン音楽界は日本人を信じているのです。
posted by 三上和伸 at 23:55| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海外の景色12 ウィーンの食事U ウィンナーシュニッツェル 2009.6.20

 午前中のシェーンブルン見学とウィーン市民公園探訪を終え、私達は昼食を取る事となりました。落ち着いた路地裏にそのレストランはありました。程良い大きさの洒落たお店でした。

@レストラン・ツム・ケラー・グヴォールブ(と読むのでしょうか?)この発音はガイドさんも日本語表記は難しいと言っていました。
レストランと私
 ウィーン歌劇場近くにあるレストラン。お店の看板の緑色が素敵でしょう?。生憎の雨で私は傘の内でした。でも静かな雨、ウィーンは雨でも情緒があります。シェーンブルンでは雨に嫌気が差していたのに、ここでは雨も良いかな…と思い始めていました。飯を前にし食欲は人を単純にします。

 Aウィ−ンの名物料理・シュニッツェル
ウィンナーシュニッツェル
 シュニッツェルは仔牛のカツレツ。
仔牛肉を平たく伸ばして油で揚げます。(パン粉は付けたり付けなったり) レモンを絞りかけて食べます。
 ビザンチン(東ローマ帝国)のユダヤ料理がスペイン、イタリアを経てウィ−ンに伝わり、ウィンナーシュニッツェルが生まれたそうです。日本の豚カツにもその影響はあるのだそうです。
 カツが大好きな私は大変気に入りました。香ばしい美味しさは正に日本の豚カツに重なります。
posted by 三上和伸 at 22:57| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月17日

海外の景色11 ヨハン・シュトラウスU像 ウィーン市立公園 2009.6.20

ヨハン・シュトラウスUの像
 ウィーンの公園は美しい、こんなに公園を大切にする国は珍しいのではないでしょうか。しかもそこには必ず像や彫刻が佇んでいます。特に国を上げての御自慢の音楽家の像が…。この市立公園には三人の楽聖の像が在ったのです、実は…。…と言うのも旅行前、私は多忙を極め旅の予習をまるでしなかったのです。だからこのシュトラウスを見ただけで満足していたのです。今、旅の復習をして、この市立公園にはヨハン・シュトラウスの他に、シューベルトとブルックナーの像のある事を知ったのです。ショックでした。音楽好きの私とした事が、真にお恥ずかしい限りです。シューベルト様、ブルックナー様、お会いせずに申し訳ありませんでした!。…私はこんな人間です。何かを成した後で学ぶ、その体たらくはこれまでの私の人生そのものだったかもしれません。情けない…。
 この後にも私の迂闊な人間性が暴露されます。でもそれは天にも昇る幸せが隠されていました。もう少ししたら、お伝えします。
posted by 三上和伸 at 23:46| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月16日

海外の景色10 シェーンブルン宮殿 2009.6.20

 @シェーンブルン宮殿
シェーンブルン宮殿正面
 人間は生来、平和に生きたいと願います。危険に合わずに真面目に働いて妻子を養いたいと思います。されど侵略は起こり、財産は奪われ、妻子を殺されたりして地獄を見る事もあるのです。従って人間は安全に生きるためには強い国に帰属したいと考えます。信頼に足る王の庇護が必要となるのです。やがて安全を得た国民はせっせと働き税を納めます。その税は巨億の富を生み国は益々栄えます。そして王は己が国の強大さを見せつけるためにその富で壮大な宮殿を造るのです。それは結局、他国の侵略の抑止力となり、国の平和と民の安全を約束するのです。このシェーンブルン宮殿もそんな役割を持たされた宮殿です。良いにつけ悪いにつけ、国は太平の世を生み、その豪華絢爛を好む構造は、学問や芸術を発展させ宮廷文化を開花させたのです。
 私は豪華絢爛を好む者ではありませんが、その科学的かつ芸術的価値は十分承知しています。宮殿内は写真撮影禁止なので今詳細に思い出すのは困難ですが、その美しさ貴重さは心に深く留めています。もう一度見たいですね。そして真の価値を見出したいです。
 

 A菩提樹
菩提樹
 庭園には菩提樹が植えられていました。シューベルトの歌曲でお馴染みの樹木ですが、本来は中国原産のシナノキ科の落葉高木です。遠い昔にこの地にも中国から伝わったのですね。勿論日本にもあります。
 丁度黄色の花が咲いており、爽やかな良い香りがしました。私は何度も花の下に佇み香りを楽しみました。あの歌曲のエッセンスはこの花の香りですね。

 B庭園からのグロリエッテ(東屋・四阿)
グロリエッテ
 ツアーの旅は考え抜かれた効率の良さがあり、短期間で多くを経験できます。しかし盛り沢山の企画は一つを堪能するには余りにも時間が無さ過ぎ、消化不良を起こします。この日も宮殿内部の観覧に手間がかかり、庭園散策は強行軍になりました。生憎、雨もしょぼ降り、最奥のグロリエッテには行けませんでした。今思えば返す返すも残念至極であり、ここに立ちシェーンブルン全景を見てみたかった。しかもここにはカフェがあり、ビールを飲む事もできるそうです。私は下戸ですが…。
 この写真には、色取り取りの花に競うように傘の花が咲いています。雨のシェーンブルンでした。くそっ!
 
posted by 三上和伸 at 23:30| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月15日

海外の景色9 ウィーンの食事T ホイリゲ 2009.6.19

 チェスキー・クルムロフを午後早やめに発って、270qのバスの長旅の末、漸くウィーンに着きました。最早薄暗くなり夜の帳は降り始めていました。雨も降り始め皆疲れていて言葉少なく足取りも重かったのですが、旨いワインが飲める事を楽しみに頑張りました。私は飲めないので、美味いソ−セイジを楽しみにしていました。それでもワインを一口飲みました。甘くよい香りがして締まった葡萄ジュースのようでした。
 酒が飲めない事は人生の大きな楽しみを一つ失った事、私はそう思っていてそれは決して偽りではありません。だからそれに見合う違う楽しみを持つようにしています。例えば甘いお菓子を愛する事…。ケーキやアイスクリーム、和菓子等々。大好き…。

 @ホイリゲ・バッハヘングル
ホイリゲ・バッハヘングル
 ホイリゲとは本年の新酒のワインの事。そしてそれを提供する醸造元(居酒屋)にもこのホイリゲの名は使われます。ホイリゲに行こうと言う事は新酒のワインを飲ませる居酒屋に行こうという事です。
 バッハヘングルは屋内外に多くの客席を持っています。数百人はゆうに入る大きさを誇っています。アメリカの歴代の大統領やアラン・ドロン、ソフィア・ローレンと言った有名人が来店しています。壁に写真が貼ってありました。
 素敵な建物と活気に溢れる酒場、今宵一夜の大きな楽しみがそこにありました。

 A白ワイン(ジョッキ入り)とハム、タコウィンナに塩漬けキャベツなどのつまみ
白ワインとおつまみ
 店内にはシュランメルと呼ばれる民謡音楽の生演奏があります。ヴァイオリンにアコーディオンの二重奏で、ややおとなし目の演奏でしたが、郷愁を誘い楽しめました。何方かがウイーン題材の映画「第三の男」のテーマをリクエストしていました。懐かしさが横溢して場を盛り上げていました。
 タコウィンナは最高!!!。 ザウワークラフトはチョット?…。 

 *ホイリゲの店名をラインプレヒトと誤まって記してしまいました。本当の名はバッハへングルでした。申し訳ありませんでした。御免なさい。
posted by 三上和伸 at 21:11| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月14日

海外の景色8 チェコの食事 ビアホール 2009.6.18

 チェコの食事
ストラホフ修道院ビアホールで
クネドリーキ(チェコ風蒸しパン)料理と黒ビール ストラホフ修道院内のビアホールにて
 チェコではプラハで昼夜の二度、翌日のチェスキー・クルムロフで昼の一度、レストランで食事を取りました。味は濃い目ですが、私の舌にはよく合いました。私は下戸ですが、妻の黒ビールを一口貰い味わいました。豊かな芳香が鼻に抜けました。流石にビールの本場チェコ、妻は上機嫌でその旨さに太鼓判を押していました。
posted by 三上和伸 at 22:24| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

海外の景色7 中世の城下町チェスキー・クルムロフ 2009.6.19

 *クルムロフとは“捩じれた川の流れ”の意味、ヴルタヴァ川の極端な蛇行を称した命名だそうです。

@チェスキ−・クルムロフの案内板
クルムロフ鳥瞰図
 この案内板、バス駐車場から城までの間に在ったのですが、今はどの辺りに在ったか忘れてしまいました。でもこれは優れものです。文字が日本語でないのは辛いですが、日本のガイドブックの拙い地図と見比べればその名称と位置はよく分かります。クルムロフ城やヴィート教会も確かに把握できますし、城の橋梁の回廊も良く分かります。そして何よりもこの城下町を一目で掌握できるのがいいですね。さらにヴルタヴァ川の蛇行の凄まじさと流れの方向まで会得できます。美しさも飛切りの素晴らしい鳥瞰図と思います。

 
 A回廊から覗き見る城下町
回廊からの城下町
 城に向かうには美しい橋梁の回廊を渡ります。そこには素晴らしい眺めがあり、それが私達を待ち受けているなんて、ここを通る誰が知っていたと言うのでしょうか?。少なくとも私は知りませんでした。その驚き、このシャッターチャンス、誰が逃すものかと必死でシャッターボタンを押しました。その出来具合は私が評価すべきものではありませんが?。いいでしょ?


 *この先から内部撮影は禁止でしたので、皆様には写真はご覧に頂けません。写真が残せず、更にある理由で記憶があやふやとなり、良い説明もできません。ここは私の印象だけを述べさせて頂きます。悪しからず御容赦ください。
 前日訪れたチェスキー・シュテルンベルクに比べれば遥かに複雑な内部構造を誇り、チェコではプラハ城に次ぐ規模だそうです。
 1253年の開城より城主は何代か入れ代わり、城は修復を重ねており、その様式は多様を極めて見えました。ルネサンス式、バロック式、ロココ式など、建物から家具調度に至るまで長年の変遷の歴史を見せてくれました。特筆すべきは仮面舞踏会などが行われたコンサートホールまで備わり、そこは正に行政・社交の中心地であった事が偲ばれました。また城内や城外でフレスコ画の騙し絵が良く見られました。(白い漆喰の壁を絵具で塗り、まるで石垣のように見せる技)
 最後に場内で私達の水先案内人(ガイドではない)の役をしてくれた若きチェコ女性について一言。中世からから抜け出したような往時の城内の衣装を身に着けた彼女は、背は高からず低からず、亜麻色の髪を肩まで下げた容姿端麗な人でした。微笑を浮かべ軽やかに身を翻し部屋の扉を開け私達を招き入れ、再び身を翻しては扉を閉めました。ここの職員なのかボランティアなのか、それは定かではありませんが、それまで私が見たチェコ娘とは明らかに違い、その清楚さに私は一目惚れをしてしまいました。お陰で変な男のガイド(笑いを取りたがる外国人ガイド)の説明は上の空となり、私のクルムロフ城観光の焦点はボケてしまいました。…仄かに甘いあの麗しい眼差しを除いては…。
 

 Bヴルタヴァ河畔より仰ぎ見るクルムロフ城
クルムロフの城塔
 城から出、城下町散策の途中、ヴルタヴァ川の河畔から振り返れば、崇高な城の塔が迫りきました。崖の上に颯爽と鎮座する城、正に城下町の民を守る毅然がそこにありました。


 C石畳の路地より
路地裏の風景
 古式床しい愛らしい家並みの路地からは城の塔が見えました。ここは至る所に美景があり、飽きさせる事のない正真の別世界です。石畳は少々歩き難いですが慣れればその清潔感がよいですね。ハイヒールを履かなければね…。


 D肉の世界
ソーセイジの屋台
 この地のレストランで食べたのは生憎川魚料理でしたが、レストランの目の前のスヴォルノスティ広場ではこの焼きソーセイジの屋台が出ていました。「流石に肉食の国だな〜凄い!」と感心したのでした。この日はこの広場でイベントがあるようで、露天に椅子が並べられており、賑やかでした。屋台もこの肉屋を始め幾つか出ていました。

 追伸: このクルムロフにも素敵で愛らしい野の花が咲いていました。けれどもシュテルンベルクの二の舞になるのでは無いかと思い撮影は自重しました。青い花白い花、それは美しく咲いていました。今思えば撮っておくべきだったと後悔しています。この先、ハンガリーのエステル・ゴムでは美しいのが撮れました、どうぞお楽しみに!。
posted by 三上和伸 at 07:44| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月10日

海外の景色6 チェスキー・シュテルンベルク城 2009.6.18

@城壁
チェスk−・シュテルンベルクの城壁
以前も申しましたように、チェスキーとは「ボヘミアの〜」と言う意味で、チェスキー・シュテルンベルク城とはボヘミアのシュテルンブルク家の城と訳せます。ボヘミアの南部、ヴルタヴァ川が回り込む小高い丘の上にあり、周囲は森と畑がモザイク状に織りなした田園地帯です。
 実は私達は当日の朝にこのシュテルンベルクに行く事が決まったのです。幾つかの城の候補があり、その見学予約の状況と成否がこの朝に知る事となり決定したのだそうです。どんな城なのか私は期待と懸念が半々でしたが、この城に着いたとたん、懸念は払拭され益々期待が膨らみました。
 この城は極めて私的な空間であり、伝統を重んじた古き良き趣味に徹しています。そこに栄華を誇示した見栄や傲慢がないのです。漆喰の壁、家具や食器の調度品、更にストーブなどの設備はどれもこれも美しく良くこの城に調和しています。私は大変気に入ったのでした。

Aインテリア・箪笥
小物箪笥
 絵入りの繊細な作り、落ち着いた色合い、とてもお洒落な箪笥です。私も一つ部屋に置きたいと思いました。でもそれは叶わない夢、私の部屋には似合う筈はないですものね。収まるべき所に納まらないとね…。

 B内壁、天井・漆喰塗
漆喰塗
 イタリアの漆喰職人の手なる妙技、大理石や煉瓦も良いですが、漆喰も良いですね!。このデザインが如何にもヨーロッパです。

 C窓からの風景
窓の外は田園
 窓に映る田園。この風景を見られただけでも、ここに来た価値はありました。この一景は私の瞼に久しく映り続けるでしょう。

Dストーブ(暖房器)
ストーブ
 大きく美しい陶器の置き物、初めは何の目的で使う品物か分からずガイドさんに聞きました。「これはスト−ブです。この裏に焚き込みをする部屋があります。そこで焚いて、煙は煙突から出すのです。ダイニング(会食の部屋)のような大きな部屋は会食(お客様を招待するような…)の前日より焚き出して部屋を暖めるのです。)と説明してくれました。面白いですね!。私は感心しました。燃料は聞き忘れたのですが、恐らく石炭でしょう?。
posted by 三上和伸 at 17:32| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月07日

海外の景色5 聖ヴィート大聖堂 プラハ城内 2009.6.18

 ヴルタヴァ川の西、プラハ市内を一望する丘の上にプラハ城はあります。プラハ城はボヘミア王国の象徴。9世紀より16世紀までは歴代の王の居城でした。現在はチェコ共和国の大統領府が置かれており、大統領執務の折は旗が掲げられます。この日は旗がはたたいており、大統領は居られたようです。
 城内には旧王宮や聖ヴィート大聖堂、錬金術師縁の黄金の小路などがあります。


 @聖ヴィート大聖堂 王宮庭園から
聖ヴィート大聖堂
 ゴシック建築の荘厳なカテドラル(司教の着く座、司教座のある最高の格式を持つカトリック教の寺院)。王宮庭園からの遠望は美しくも威容に溢れて感嘆するのみです。この様は瞬時に私の眼を貫いて脳の深くに残像として残り、生涯の記憶となるでしょう。


 A聖ヴィート教会のステンドグラス
 ゴシック様式の特徴はステンドグラスを多用する事で、この堂内も四方に施されています。その美しさは圧巻であり、誰であろうとも圧倒され平伏し、熱い宗教心に燃えてしまうでしょう…。
ミュシャのステンドグラス 拡大版
ミュシャ作のステンドグラス 右は拡大
 この堂内にあるどんなステンドグラスよりも素晴らしかったのはミュシャ(ムッハ)作のものでした。柔らかい線を使い近代的な絵となっており、その物語性も相俟って極めて夢幻的な趣がありました。何時までもその前を離れ難く、見ていたいと思いました。

ステンドグラス モザイク模様のステンドグラス 
その他のステンドグラス
 色彩感豊かなステンドグラス。青の多用は透明感、清潔感が増すようで神秘的です。
 右の写真のジグザグ模様の天井もゴシック様式の特徴だそうです。何となく、何時か何処かで観たような気がしますね…。見覚えがあります。


 Bミュシャの絵葉書
ミュシャの絵葉書
(プラハの土産物屋で買いました)
 *アルフォンス・マリア・ミュシャ(ムハ) 1860-1939
 グラフィックデザイナー、挿絵作家
 チェコのイヴァンツェ生まれ、パリ・アカデミー・ジュリアンで美術を学ぶ。パリの舞台女優・サラ・ベルナール主演の芝居「ジスモンダ」のポスター制作で脚光を浴びる。その後多くを作出しアール・ヌーヴォ−の旗手としての地位を固める。 
 1910年、故国チェコに帰国。愛国的な作品を次々に発表する。やがてナチスに尋問を受け、それが元で体調を崩し、その数ヶ月後に世を去る。
 戦争は何時でもどの時代でも、心ある芸術家を苦しめるようです。


 参考:ウィキペディア・フリー百科事典
posted by 三上和伸 at 23:51| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月04日

海外の景色4 プラハ市内観光・旧市街 2009.6.18

 @旧市街広場とミクラーシュ教会
旧市街広場とミクラーシュ教会
 カレル橋から美しい雑踏を歩いて旧市街広場にやってきました。途中、狭い路地には多くの商店が立ち並び、そこに魅惑的なプラハ娘の売り子がいて媚を売り、威勢の良いお兄さんが呼び込みをしていました。正に美しい雑然がありました。
 広場の中央にはヤン・フスの群像が並び立ち、広場の雰囲気をいやが上にもかき立てておりました。なるほど歴史の重要な拠点に立っているのだなと実感が湧いてきました。
 
 写真中央は聖ミクラーシュ教会。バロック様式の美しい建物です。
 
 *バロック様式(16世紀〜18世紀)ゴシック様式ルネサンス様式の後に登場した建築様式。美術・彫刻・装飾などを多用した芸術性溢れる様式で、曲線的な流動性を強調した。

 *ヤン・フス ボヘミア(チェコの一部)のプロテスタント宗教改革者。ドイツのマルティン・ルターの百年ほど前の人。ローマ法王庁より異端と断じられ火刑に処せられた。

 Aティーン聖母教会
ティーン聖母教会
 ティーンとは税関を表す言葉だそうで、ティーン聖母教会とは税関の前にある聖母教会の意味だそうです。ゴシック様式の見事な教会です。フス派の拠点となった歴史的な教会です。

 ゴシック様式 12世紀後半から15世紀の終わり頃まで、ロマネスクの様式の後、ルネサンス様式に至るまで栄えた建築様式です。細さ高さの垂直性を尊び、巨大化して荘厳さを増し、キリストの生涯を描いたステンドグラスやマリア像、ペテロ像の彫刻など、中世の精神を顕著に表した様式です。
  

 B旧市庁舎
旧市庁舎天文時計 旧市庁舎時計塔
 旧市街広場の前にある旧市庁舎。そこには12人の使徒像の天文時計があり、毎正時にはその人形が鐘と共に姿を現します。私達も午後六時にこの仕掛け時計を観覧しましたが、妻は見えたそうですが、私はカメラを構え、そのカメラ越しには画像が小さく、何が何だかさっぱり判りませんでした。悔しくて膨れっ面をしていると、妻は「残念ね…」と嗤い、私は自分の不器用さにうんざりさせられました。カメラの画像では私の老眼の目には全く見えないのでした。

 C市民会館
市民会館
 「プラハの春」国際音楽祭の会場。1911年に建てられたアールヌーヴォー様式の文化施設。音楽祭は一階のスメタナホールで開かれるそうです。その雰囲気を確かめたく、行きたかったのですが、残念ながら機会を逃しました。盛りだくさん旅程と誰かさんの楽しみのせいで?。

 D火薬塔
火薬塔
 初めは城門でしたが、1757年のロシアとの戦いで火薬庫として使われました。よって今も火薬塔と呼ばれています。黒くくすんでおり重厚で力強く素晴らしい佇まいでした。

 参考:ウィキペディア・フリー百科事典、昭文社「まっぷる」 
posted by 三上和伸 at 22:41| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月02日

海外の景色3 プラハ市内観光・カレル橋 2009.6.18

 プラハの中心を流れるヴルタヴァ川。この川はモルダウ川の名として日本人には馴染み深く、その原因理由は故郷の作曲家B・スメタナの交響詩「モルダウ」の名にあります。モルダウとはドイツ語の呼び名であり、長くオーストリア・ハプスブルグ家の支配を受けた影響が残り、このモルダウの名が定着してしまったのだそうです。もうこの名曲も今となっては名を改めたら如何でしょうか。スメタナ作・交響詩「ヴルタヴァ」と…。きっとチェコ人は喜びますよ!。但しチェコ語は日本人には読み辛いきらいはありますが…。
 このヴァルタヴァ川に架かる橋がカレル橋で、王宮のあるプラハ城と旧市街を結ぶためにカレルT世(神聖ローマ帝国カールW世)の命により1402年に完成されました。(従ってカレルT世に因みカレル橋の名となりました。) プラハ最古の石橋で、今日でもその威容を誇りプラハ観光の目玉となっています。この日も午前の早目の時刻でしたが、多くの観光客で賑わっていました。昔は馬車道でもあったようですが、現在は歩行者のみの利用であり、のんびりとした気分で気儘な漫ろ歩きが楽しめます。私達も大いにこの異国の歩行者天国を満喫しました。(スリ、オキビキには注意が必要ですが…)

 @小地区タワーゲート
小地区タワーゲート
 プラハ城のある小地区と対岸の旧市街地区に一棟ずつある橋のタワーゲート。往時の威容を誇る素晴らしい建物ですが、このゲート、昔はここで通行税を取っていたのだそうです。しかも身分の低い者ほど高額だったそうで、特にユダヤ人は手厳しく取り立てられたのだと聞きました。ユダヤ人と言えばナチスのホロコーストが知られていますが、その遥か以前から迫害を受けていたようです。このチェコにも、そんな悲しい記憶があるのですね…。プラハ旧市街にはユダヤ人地区があり、15世紀のユダヤ人墓地や、17世紀のシナゴーグ(ユダヤ教礼拝堂)があるそうです。今回、私達は行けませんでしたが、もし再びこの地を踏む事が可能ならば、是が非でも訪れたいと願っています。

 Aヴルタヴァ川の運河
運河の家並み
 プラハのヴルアヴァ川左岸には一筋の運河があり、そこを美しい家並みが取り巻いています。その風情あるゆかしさに思わずシャッターを切ってしまいました。本当に素敵な佇まいでした。

 Bヴルタヴァ(モルダウ)川
ヴルタヴァ川下流 ヴルタヴァ川上流
左:下流に向かって。下ると本流エルベ川となりハンブルクを貫き北海に注ぎます。
右:上流に向かって。その源流を辿ればモラビア丘陵を経てドイツとの国境べ−マーヴァルト(森)に至ります。
 スメタナの交響詩「モルダウ」はこの源流より中流のプラハ辺りまでをイメージして作られました。せせらぎから本流まで、単なる風景画ではない郷土愛が込められた力強い作品です。その名高い哀愁のメロディーは世に二つとない天下一品の名旋律です。

 Cフランシスコ・ザビエルの像
フランシスコ・ザビエル
 カレル橋の欄干の傍には三十体の聖人の像が建っています。その内の一つにこの日本を始めアジアにキリスト教を伝道したフランシスコ・ザビエルの像があります。日本史の舞台に重要な役回りをした私達のお馴染みの人が聖人の器だったなんて、とても感心し親近感が湧きました。つくずく眺め、「あんたは偉い!」とシャッターを切りました。

D旧市街のタワーゲート
旧市街タワーゲート
 良く見ると本当に美しい塔。像やら装飾やらが細かく施され、じっくり味わえば驚きと感動が深まります。
 ここから旧市街に入ります。そこは美しくも雑然が同居し、目眩く豊満な美女が屯し、正に男のパラダイスでした?。
posted by 三上和伸 at 23:39| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月30日

海外の景色2 プラハ小地区市内観光 2009.6.18

並木の家並み
 プラハ小地区に到着、並木の先には美しい家並みが垣間見えました。ここはとても二十一世紀とは思えない古式床しい街です。私がこんな素敵な街に来られたなんて、何て幸せな事でしょう。

市内観光へ
 バスを降りて、いよいよ市内観光に出発です。ここに写っている人々が、私達の参加しているツアーの面々です。面々と言っても後姿だけですが、顔をお出しする訳にはいきませんものね…。我が愛しの妻もちゃんと写っていますよ!。
 前方のアーチがカレル橋です。これからカレル橋を渡って旧市街に抜けます。
posted by 三上和伸 at 23:52| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月27日

海外の景色1 プラハ郊外の住宅地 2009.6.17

プラハ郊外の家並み
ホテルの窓から望んだプラハ郊外の家並み
 この日はひたすら乗り物による移動の日で、我が家から成田までは車で、成田よりフランクフルトを経てプラハまでは飛行機で、プラハルズィネ空港からホテル(コンフォート・ホテル・プラハ)まではバスを使いました。夕刻の六時過ぎにホテルに着きました。我が家からここまで何と十九時間掛かった事になります。恐ろしくもあり、感動でもあります。
 部屋に入り先ずは窓を開け、外を眺めました。目の前には中層の鉄筋コンクリート建ての団地が連なり、その傍には路面電車が走る道路が延び、対岸は古いが瀟洒な戸建て住宅が斜面を覆っていました。中々に美しい景色でした。恐らくそこはプラハの中産階級の家並みでしょう。そうならばこちら側の団地は差し詰め労働者階級の住まいなのでしょうか?。その鮮明な線引きが気に掛かりました。

プラハの道端に咲く花
道端に咲く旅先の花
 ホテルの風呂場に固形石鹸が無いのに気づき、得体の知れない液体ソープを使うのが嫌だったので、スーパーマーケットに買い出しに行きました。その途中の団地の中を抜ける道の傍にこの花は咲いていました。当然名は分からずまた調べる事もせず、ただ黄色の愛らしい花が咲いていた事をお伝え致します。恐らく、バラ科の仲間と思われ、日本のキジムシロに似ていると思いました。旅先で出会った最初の花であり、何故か一際美しいと感じてしまいました。
posted by 三上和伸 at 21:44| 海外の景色 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする