2018年08月26日

交響曲列伝3 ヨーゼフ・ハイドン2 「ロンドン」 2018.08.26

ハンガリーの大貴族エステルハージ家から離れたハイドンは、休む間もなく次の目標のイギリスに渡りました。イギリスは音楽後進国、勿論創作の上での後進国で、消費国としてはヨーロッパ随一、何しろあのヘンデルがドイツから帰化して活躍していた国でしたからね。ハイドンの目当てはロンドンの優れたオーケストラ、自分が作った最新最良の交響曲をロンドンの一流オーケストラで試してみたい、そしてロンドン市民を席巻したいと願っていたのでした。更についでに、大絶賛を受け、その見返りに一儲けしようと、企んだのでした。勿論、ハイドン一人の企みでは無く、旧知の知り合いのドイツの音楽興行主・ヨハン・ペーター・ザロモンと言う火付け役がいましたがね。1791年〜1792年と1794年〜1795年の二回に亘るイギリス訪問で完成され初演された交響曲は12曲を数え、これらを「ザロモン交響曲」乃至「ロンドンセット」と呼ばれています。因みに帰国後、ハイドンはウィーンに大豪邸を建て、使用人を雇い、死ぬまで住んだそうです。ロンドンで、巨富を得たのですね。

そのロンドンセットの最後を飾るのがこの104番ニ長調「ロンドン」で、ハイドン生涯の最後の交響曲です。「ロンドン」の名称に特別の意味は無く、ロンドンで作曲された最後の曲だったので、「ロンドンセット」を代表して後世にロンドンの名が冠されました。

交響曲第104番ニ長調「ロンドン」Hob.T:104  Hob.はハイドンの作品をジャンルごとに並べた作品番号、オランダ人研究家アントニー・ヴァン・ホーボーケンが始めたホーボーケン番号。Hob.Tは交響曲。

楽器編成
○フルート  2
○オーボェ  2
○クラリネット2
○ファゴット 2
○ホルン   2
○トランペット2
二管編成
○ティンパニー
○弦楽五部 第一ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス。

1、第一楽章
アダージョ(序奏、ニ短調)ーアレグロ(主部、ニ長調)、4/4拍子(序奏)、2/2拍子(主部)、序奏付きソナタ形式。
ニ短調の壮大な序奏を持ちます。暗く厳かな序奏で聴衆を打ちのめすのも何時もの作戦、直ぐに明るく快活な主要部が現れて、聴衆の聴く気を煽り、前向きに乗せて行きます。これは古典交響曲のセオリー(定石)であり、見え見えの常套手段です。兎に角客席を盛り上げなくてはなりません。これがエンターテインメントの走りの一つですね。

2、第2楽章
アンダンテ、ト長調、2/4拍子、ヴァリエーション。
美しいメロディーが寛いだ雰囲気を醸し出します。変奏部分は転調を多用して、一つのテーマを変化させて、彩を添えていきます。ハイドンは旋律家としても一流でした。

3.第3楽章
メヌエット アレグロ-トリオ、ニ長調-変ロ長調(トリオ)、3/4拍子、複合三部形式。
メヌエット(主メヌエット)の部分はニ長調の三部形式、中間部にトリオ(第2メヌエット、嘗ては三重奏として作曲されたため)が入り、変ロ長調に転調します。再び主メヌエットに戻り、第3楽章を閉じます。比較的武骨なメヌエットであり、ごつごつとした印象が残ります。トリオは主に木管楽器が活躍します。こちらは優雅な間奏曲風です。

4、第4楽章
フィナーレ・スピリトーソ(活き活きと)、ニ長調、2/2拍子、ロンドソナタ形式(ロンド形式にソナタ形式の属調、平行調を用いたもの)。
ハイドン自らが研究したクロアチアの民謡に基づく主題を持っています。兎に角爽快・快活な曲、その推進力は聴衆を興奮の坩堝に誘います。

参考:ウィキペディア交響曲第104番(ハイドン)

posted by 三上和伸 at 19:42| 交響曲列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月25日

交響曲列伝3 ヨーゼフ・ハイドン1 「めんどり」「時計」 2018.08.25

1、生い立ち
ヨーゼフ・ハイドン(1732~1809)はオーストリア東部のハンガリーの国境近いローラウという村で生まれました。車大工の息子だったそうで、理由は判らないのですが、やがて親戚の家(叔父が音楽教師)に出されます。そこで叔父から音楽的才能を見出され、聖歌隊員になる事を勧められます。ハイドンの音楽修業はウィーンのシュテファン寺院の聖歌隊から始まりました。ボーイソプラノの非常な美声の持ち主だったようで、直ぐに聖歌隊の主要メンバーとなりました。されどやがて変声期を迎えるのが男の宿命、余りの美声故に、当時流行り出した男性ソプラノ・カストラータになるべく虚勢を勧められます。しかしそれが嫌で這う這うの体で逃げ出したハイドンは、その後10年ほどは職種を転々として独学で作曲を学びます。

2、エステルハージ時代
作曲家としての名声が上がった時代で、ハンガリーの大貴族・エステルハージ侯に仕え、その宮廷の持つオーケストラの楽長を長く務めました。侯爵や家族、また来賓者を持て成す音楽(交響曲、室内楽等)を数多書き、演奏しました。ここでは様々なエピソードが残されており、その一つに「告別交響曲」にまつわる話があります。夏の離宮での事、楽団員に休暇をくれない侯爵を説得するために、ハイドンはある企みを持ち交響曲を作曲しました。それは何と、その交響曲の第4楽章に仕掛けがあり、演奏中に次々と演奏者を退出させてしまう暴挙に出たのです。第一オーボェ、第二ホルン、ファゴット、第一ホルンに第二オーボエが楽譜をたたみ蝋燭を吹き消し退出し、次に弦楽器の諸君が引き下がります。後は第一ヴァイオリンと指揮者のハイドンだけが残り、消え入るような最弱音が聴こえるだけとなりました。そして真っ暗闇の中を二人は「バイバイ・告別」をし、立ち去ってしまったのでした。聴いていたエステルハージ侯は合点がいきました。「解ったよハイドン君、諸君は明日帰ってもよろしい!」。ハイドンは健全なユーモアの持ち主だったそうです。

3、独立時代
1790年以降、30年仕えたエステルハージ家から解雇されたハイドンは、自由を謳歌するようになり、イギリス(ロンドン)やフランス(パリ)の楽壇とかかわりを持ち、ヨーロッパ随一の人気作曲家となります。モーツアルトや新人のベートーヴェンなどは問題としないナンバー1の大作曲家になりました。書きたい曲が自由に掛ける境遇を得、オラトリオ「天地創造」と同「四季」を発表し、ハイドンは後世に残る名曲を残しました。その上この時期、交響曲の傑作を連発し、「驚愕」「奇蹟」「軍隊」「時計」「太鼓連打」「ロンドン」などの愛称のある交響曲を書きました。

ハイドンはモーツアルトと違って自然愛好や人物観察に独特の感性があったようで、愛称の多い交響曲の中で、巧みにそれらを描写しているのが目立ちます。ユーモアもあり、兎に角ハイドンの交響曲は明るく健全で自然体です。但し、それ故にカリスマ偏重の19世紀ではその評判は地に落ち、忘れ去られた巨匠となったのでした。辛うじてブラームス当たりがその業績を認め、復権を示唆しています。20世紀になると漸く古典の素晴らしさに感化を受けたプロコフィエフなどがハイドンを認める言動をしています。

1、交響曲第83番ト短調「めんどり」Hob.T:83
第1楽章の第2主題が雌鶏の鳴き声風になっていて、後世に”めんどり”のあだ名が付いたそうです。軽妙な音型で、誰が聴いても「あっ、鶏だ、めんどりだ!」と思わず口を突いて声が出てしまうに違いありません。

2、交響曲第101番ニ長調「時計」Hob.T:101
第2楽章が有名で、時計の振り子の振動に乗って美しいメロディーが歌われます。正に「時計」の副題通りの音楽です。カリスマ性以外は何でも持ち合わせているハイドン、微笑んでウットリ、魅力的な音楽です。
続きを読む
posted by 三上和伸 at 20:52| 交響曲列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月23日

交響曲列伝2 その歴史・下

 ブラームスがウィーンの伝統にこだわり古典形式の交響曲作りに邁進している頃、二人のフランス人の作曲家もまた古典様式に則った優れた交響曲を書きました。それがS・フランクとサンサーンスで確固たる形式を持ち、知的でセンスの良い温和な作風を示しています。何しろ力まず声高に叫ばない知性溢れる交響曲で、如何にもフランス人の作らしい上品を感じさせ感心させられるのです。
 
 フランクには二短調の一曲しかありません。しかしベルリオーズ以来の本格的な交響曲であり、しかもベルリオーズの革新的な作風とは正反対の古典的でアカデミックな作品でした。熱心なカトリック教徒として生き教会のオルガニストでもあったので、その宗教心から清らかで敬虔な曲想が素晴らしく、哲学的な高さも持ち合せています。

 サンサーンスは極めて才気走った作曲家で、技能とエスプリに富んだ多くの作品を残しました。その作曲技法は素晴らしく、同時代のドイツのブラ−ムスでさえ一目を置いていたほどです。堅固な構成とフランスのエスプリの閃き。交響曲第三番ハ短調「オルガン付き」にもそれは確かに存在し、才気は活発で知性に溢れ、さらに娯楽性まで備わっておりこれは傑作です。

 また同時期にカルメンのG・ビゼ−がおり、交響曲ハ長調を作っています。極めて若年の作で成熟度は足りませんが、美しいメロディーが横溢し捨て難いものがあります。但し、私はこの曲のLPは持っていますが、CDがありません。出来ればCDを求めて、この場で論じたいと思っています。ご期待あれ!

 十九世紀後半はドイツ・オーストリア及びフランス・イタリア以外の国々でも音楽が持て囃され盛んになり、民族に根ざした新たな音楽が作られ初めました。これらの音楽的潮流は一般に国民楽派と呼ばれており、交響曲の世界では取り分け二人の作曲家が群を抜いています。一人はロシアのチャイコフスキーであり、もう一人はチェコのドボルザークです。どちらも希代の名旋律家であり、二人の交響曲は美しいメロディーで満ち溢れています。そしてこれについては当時のブラームスがその素晴らしさに舌を巻いています。ブラームスは言いました。「ドボルザークが屑籠に捨てた楽譜の中から適当な旋律を見付け、それで俺なら交響曲の一つや二つは作れる!」と…。それほどにドボルザークの旋律の才能をブラームスは羨んでいたそうです。因みにチャイコフスキーのブラームス感も述べておきましょう。チャイコフスキーはブラームスの音楽を全く理解できなかったようです。「私にはブラームスは退屈で堪らない、こんなものが最大の賛辞を浴びるなど理解できない!」。ついでにドボルザークのブラームス感も…、「僕は彼の第三交響曲のような交響曲を作りたくて六番の交響曲(自身の)を作りました…」。ついでのついで? ブラームスのチャイコフスキー感は「どうでもよい作曲家」。でも第五交響曲は本人の前で「フィナーレは頂けないが他は好きだよ」と誉めています。チャイコフスキーはそれを夢心地で聞いたそうです。
 チャイコフスキーは交響曲第六番「悲愴」、ドボルザークは第九番「新世界」を取り上げます。

 そして交響曲は益々ドイツオーストリアを離れ、周辺の国々に飛び火して行きました。フランス、ロシア、チェコ、そしてイギリスやフィンランドにも波及して行きます。近代現代の交響曲作曲家では、フィンランドのシベリウス、ロシアのプロコフィエフ、そしてソビエトのショスタコーヴィチを取り上げます。長い時間が掛かりそうですが、完結を目指し頑張ります。お楽しみに…。
 シベリウスは交響曲第二番二長調、プロコフィエフは古典交響曲、ショスタコーヴィチは第五交響曲を取り上げたいと思っています。
posted by 三上和伸 at 22:32| 交響曲列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月19日

交響曲列伝2 その歴史・中

 1830年、ベートヴェンの死の三年後、フランスに驚くべき交響曲が誕生しました。それはエクトル・ベルリオーズ(1803〜1869)と名乗る青年がもたらした「幻想交響曲」で、極彩色の管弦楽法による未だかつて誰も知りえなかった交響曲でした。ベートーヴェンの威光がまだ消えぬ間にロマン派の先鞭を付けたこの斬新な曲は大反響を呼び、直ぐ後のリスト(交響詩)やワーグナー(楽劇)に多大な影響を及ぼしました。時は下り、その半世紀後には最早ロマンのうねりは止まる所を知らず、大管弦楽を縦横無尽に操った大規模なブルックナー(1824〜1896)やマーラー(1860〜1911)の後期ロマン派の交響曲が出現しました。革新的な交響曲は十九世紀末、一つの頂点へと上り詰めました。

 一方、ロマン派と言えども保守的な一派も現れました。それがメンデルスゾーン(1809〜1847)とシューマン(1810〜1856)であり、その作風はモーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトを規範として出発しています。しかしこの二人は短命であり、交響曲への熱意や習熟度はいま一つと言え、モーツァルトやベートーヴェンには匹敵する事は敵いませんでした。ベルリオーズを含めても、ベートーヴェンが確立したソナタ形式を十分に活用できなかったのです。真のベ−トーヴェン的古典交響曲はこの時代には無く、ブラームスの登場まで低迷を余儀なくされたのです。
 メンデルスゾーンは美しいメロディーと卒のない構成力で5曲の交響曲を書きました。その内、第三番「スコットランド」や第四番「イタリア」は気品ある美しい旋律がちりばめられた、お洒落な作品です。誰でも直ぐに好きになってしまいそうな分かり易い交響曲です。
 シューマンはメンデルスゾーンとは異なり、卒のない構成力とはいきませんでした。また管弦楽法の未熟さもあり、美しく情熱的な主題旋律はあるものの、それを展開し拡大させ脚色する事が苦手であったようです。晩年のシューマンの苦悩と狂気はここら当たりにも一因はあったようで、絶望感に苛まれていたのです。心が壊れかけていた最晩年にはブラームスに出合い、それはシューマンにとっては大きな驚きであり希望でした。シューマンはブラームスにしきりと交響曲の作曲を勧めました。それは出会いの時に聴かせられたブラームスのピアノソナタの中に、後年の交響曲の萌芽を目敏く見付け出していたからに他なりません。「ヨハネス(ブラ−ムス)、僕に交響曲を作ってくれないか?」がこの当時のシューマンの口癖だったそうです。
 シューマンには4つの交響曲があります。その中でも第三番「ライン」は情熱に溢れた素晴らしい作品です。終焉の地・デュッセルドルフに赴任して直ぐに、ライン地方を訪ねた折りの爽快な印象を交響曲に認めたのでした。ライン川の勇壮が乗り移ったような爽やかでダイナミックな良い交響曲です。

 シューマンのブラ−ムスへの願い、はたまた遺言は二人が1853年に出会ってから二十三年後の1876年に現実のものとなります。そうブラームスは己の避けられない義務(故シューマンの念願・強要)の「第一番」を完成させたのです。べ−トーヴェンの「第九」からは五十二年の歳月が経っていました。ここに交響曲は真の後継者を得て復活を遂げたのでした。
 ブラームスには他に三曲の交響曲があります。「第二」と「第三」は主にブラームスの私的な生活感情が表現されています。田園の中のブラームスと女性の愛に包まれたブラームス。極めて幸福感に満ちた交響曲です。そして最後の「第四」は、ベートーヴェンの「第九」に対応する曲で、人類への激しいメッセージが込められた作品です。そのメッセージとは「戦争と平和」で、常々ブラームスは人類の業に対し不信と危機感を持っていました。この人間への怒りに満ちた曲はこのような人類に投げ掛けた予言的な曲でもあります。案の定、ブラームスの死後その不安は的中し、人類は二つの大戦を引き起こしてしまいます。このブラームスの「第四」の怒りは人類に届かなかったのです。草葉の陰でブラームスは何を思った事でしょうか?。

 このブラームスと同時代を生きた偉大な交響曲作曲家に前述したブルックナー(1824〜1896)がいます。ブルックナーはワーグナーに私淑し、ワーグナーが楽劇で行った和声や管弦楽法を交響曲の世界で活用しようとしていました。大編成の管弦楽に80分を越えようとする大規模な構成の交響曲、そんな革新的で巨大な絵巻物のような交響曲を次々とものにして行きました。ブラームスとはライバル関係にあり、互いを激しく罵り相いながらも切磋琢磨し、最後は互いに認めていたようです。ブルックナーの葬式の最中、ブラームスは柱の陰で涙を流していたとの証言があります。
 ブルックナーは死後半世紀までドイツ・オーストリアのローカルな作曲家でした。しかし第二次世界大戦以降、世界的に評価が高まり、コンサートの重要なレパートリーとなりました。後のマーラーにも言える事ですが、録音技術(LPレコード)と音響機器(ハイファイセット)の充実が、これらの交響曲(音響が売りの…)の世界的普及に貢献したのです。

 ブラームス、ブルックナーが晩年を迎えていた頃、ブルックナー同様の大規模大編成の革新的な交響曲を作曲する若き天才が現れました。時は近代を迎えた頃で、それは正に世紀末の爛熟をその儘音楽で体現したかのようなマーラー(1860〜1911)でした。運命や死を極端に恐れたマーラーは極めて厭世的な苦悩と悲哀に満ちた交響曲を書きました。当初は際物(ユダヤ人であったため人種差別的な)めいた印象で避けられていましたが、二十世紀末に世界的大ブレイクを果たし、今日では他の多くの交響曲作家を差し置いて、コンサートの主役に踊り出ています。
posted by 三上和伸 at 22:18| 交響曲列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月15日

交響曲列伝2 その歴史・上

 交響曲列伝2 その歴史・上
 交響曲を一から調べ上げるのは、膨大な文献をひも解かなければなりません。私にはそんな時間はなく、またこの紙面には不必要と思われます。ここで取り上げるのは、今日一般に音楽会の曲目に登場する作曲家並びにその作品とし、その特徴や素晴らしさを私の私見を中心にお話しさせて頂きます。特にその心理面について踏み入れたいと思っています。今後、一作家一作品を基本として列伝の形をとり回を重ねて展開して行きます。どうぞお楽しみに読んでください。今回は、初期の交響曲の成り立ちと歴代の交響曲作家の紹介、並びにその歴史の簡単なあらましを少し述べてみたいと思います。

 日本語に訳された交響曲(シンフォニー)と言う詞(言葉)の語源はシンフォニアであり、その意味はラテン語で共に響くと言われています。つまり複数の楽器を使用する合奏がその出発点にある訳です。十七世後半のイタリアでは弦楽三部や弦楽四部にオーボエやホルンの管楽器、さらにチェンバロなどの鍵盤楽器が加わった楽曲がシンフォニアと呼ばれていたのです。急、緩、急の三つの楽章で作られていたようで、これは十八世紀後半の古典派の交響曲に近いものがあります。またバッハやヘンデルの管弦楽組曲も交響曲の前身と言われています。古典派交響曲にはメヌエットと称する楽章が必ずありますが、バッハ、ヘンデルの組曲の中にもあるのです。古典派交響曲のメヌエットはこれら古い時代の組曲の愛らしい置き土産とも言えるのです。

 十八世紀初頭になると、このシンフォニアと名乗る合奏曲は発展を続け盛んに演奏されるようになり、いよいよ器楽合奏の中心となりました。十八世紀後半にはソナタ形式も確立されてより優れた作品も作られるようになりました。そしてオペラと並ぶ人気を博し、音楽史上最高最大の絶対音楽の様式となったのです。

 このシンフォニアをシンフォニー(交響曲)に格上げし確立したのがハイドン(1732〜1809)です。七十七年の生涯の中で百四曲余りの交響曲を書いたハイドンの生きた道筋には、正に交響曲の歴史の創世と言うに相応しい価値があります。その最後の交響曲作品の第百四番「ロンドン」はハイドンが完成させた交響曲の様式を見事に伝えています。第一楽章はアダージョの序奏を持つソナタ形式で主部はアレグロ、第二楽章はアンダンテの変奏曲、第三楽章はアレグロのメヌエット、第四楽章はスピリツィオーソのロンドであり、急速なテンポで演奏されフィナーレに相応しく最後を盛り上げます。明るく活発な交響曲を量産したハイドンは、交響曲の父と称されました。

 次に登場する交響曲作曲家は神童モーツァルト(1756〜1791)です。モーツァルトの最たる特質は音楽にネガティブ(人間の陰の部分)な私情(詩情)を投影した事です。それまでタブーであった一個人の感情を音芸術に具現したのです。これは私の私見ですが、日本の古典の美学で例えるなら、飽くまでも音の展開の美しさ楽しさ、形式の見事さを求めるハイドンは“をかし”の領域であり、人の悲哀の心の共感を追求したモーツァルトの美学は“あはれ”に通じるものがあると思われます。最後の二曲の交響曲(第四十番ト短調全曲と四十一番「ジュピター」第二楽章)にそれは顕著に現れていると思います。

 この“をかし”と“あはれ”を身に纏い、交響曲の真髄ソナタ形式を掌握しそれを巨大化し理念化したのがベートーヴェン(1770〜1827)です。当時の自然主義の潮流やフランス革命などの時事問題も咀嚼し、正義感を爆発させ全人類のために音楽を書いたのです。しかも娯楽の領域に自ら馳せ下り普遍性を高め、再び芸術に遡上させたのです。その説得力は圧倒的であり、後の作曲家達に大きな影響を残しました。後のロマン派の一派はベートーヴェンから出発することになります。

 ベートーヴェンより二十七歳も年少でありながら、ベートーヴェンと同時代を生きた極めて短命な作曲家シューベルト(1797〜1828)は歌曲を始め膨大な作品を残しました。正にその生涯は作曲する事に明け暮れていたようで、書きなぐってきたと言っても可笑しくはないでしょう。しかし決してその作品は粗雑なものでなく、歌曲やピアノ曲には優れた曲が数多あります。ただ、交響曲や室内楽曲は一部の作品を除き、習熟の度合はやや低く今日公に演奏される機会は少ないようです。やはり短命故の創作年月の浅さがソナタ形式の熟達には致命的であったようです。「未完成交響曲」や「グレート交響曲」は中でも傑作であり、意味深い和声とロマンチックな旋律に溢れており、正に耽美的とも言える官能的な交響曲です。
posted by 三上和伸 at 08:42| 交響曲列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月07日

交響曲列伝1 交響曲とは?

 *始めて直ぐ中断してしまった交響曲列伝を再開します。ハイドンからショスタコーヴィチまで、時間を掛けて連載して行きます。宜しかったらご覧ください。
  
交響曲列伝1 交響曲とは?

 交響曲とは、読んで字の如く響きの交わる曲、多くの響きを持ったオーケストラが一つになって奏でる音楽です。少し難しく言えば、言葉のない楽器だけの絶対音楽で、ソナタ形式を用いて書かれた器楽曲です。一部ベートーヴェンの第九のような言葉を使った曲もありますが、ほとんどはオーケストラだけで奏される管弦楽曲の一種類です。

 一般的には四楽章で作られており、第一楽章はアレグロなどの速いテンポでソナタ形式で作られます。その交響曲の性格を決定する中心的な楽章であり、ソナタ形式の出来栄えを問われる作曲家が最も力を注ぐ楽章です。
 
 第二楽章は緩徐楽章でアンダンテやアダージョなどの緩いテンポを用い、ソナタ形式や三部形式で作られます。情緒が深く歌うような音楽が多いようです。

 第三楽章はメヌエットやスケルツォで舞曲風の溌剌とした曲です。アレグロ(スケルツォ)やアレグレット(メヌエット)の速度で奏されます。第二、第三楽章はその交響曲の言わば息抜きに当たる楽章で、両端の楽章の強い意志や緊張をほぐす役割を担っています。特に第三楽章は迫真の終楽章の前なので軽めに作るようです。但し、この二つの中間楽章の順を入れ替えた作品もあり、第二楽章にスケルツォを入れ、第三楽章に緩徐楽章を置きます。ベートーヴェンの第九(第三楽章とフィナーレの活動性の対比を際立たせる意味で…)やブルックナーの第八(ブルックナーの本領はアダージョ楽章にあるのでそれを中心に据えた為…)などがその例で、全体のバランスを考慮した結果の変更です。巨大な作品になる程その傾向が強いようです。

 第四楽章はフィナーレ(終楽章、終曲)であり、その曲の主題の結論を導き出す楽章で、第一楽章と並んで重要な楽章です。この楽章を見事に作る事ができ、さらに何らかの詩的哲学的メッセージを語り得た作曲家こそが、大作曲家(大交響曲作家・大芸術家)と呼ばれるに値するのです。やはりソナタ形式で作られテンポはアレグロが多いのです。因みに、第二楽章や終楽章には稀にソナタ形式ではなく変奏曲で作られる事があります。それはハイドンの「驚愕」の第二楽章やベトーヴェンの第三「英雄」及びブラームスの第四のフィナーレに見られます。
 
 またハイドンが完成させた古典交響曲の様式では、終楽章はプレストの速度でロンド形式を採るのが普通でした。ところがモーツァルトの後期の傑作群はソナタ形式で作られており、ロンド形式を用いたフィナーレは第三十五番の「ハフナー」以前に見られるに過ぎません。更にベートーヴェンに至っては第八がロンド形式、第二・第六はロンドソナタ形式が使われており、ベートーヴェン以降ではこのプレストのロンド形式は殆ど使われなくなりました。並びに楽器編成が大きくなるに連れ、速度は益々遅くなる傾向に向かいました。
posted by 三上和伸 at 06:52| 交響曲列伝 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする